第4章 聞き取り (前編)
東大阪市の閑静な高級住宅街の、とある豪邸、とある夕方のこと。
探偵の待つ応接間に、その家の令嬢である城島
彼女は仕事帰りで、玄関を入ったとき、家政婦からこう言われたはずである。「お嬢様に探偵がお会いしたいと……」。
実果は「どうして断らなかったのです?」と言ったに違いない。おそらくは、少し不機嫌な表情になって。そして以下のような会話が玄関から廊下で交わされたはずだ。
「断ったらお嬢様がお帰りになるまで門の前で待つと言うのです。何しろ目立つ格好をしていて、近隣の住人に見咎められても困りますので」
「応接間に通したのですか」
「はい、もうかれこれ1時間ほどお待ちで」
「何を調べにいらっしゃったのかしら?」
「さあ、それはお嬢様に自分から申し上げると」
「着替えてきます。もうしばらくお待ちになるようお伝えして」
不完全ではあるが、これらの言葉の端々が、応接間から聞こえていたのだ。
対する探偵の服装は、ライムグリーンのブラウスに、紺のベスト、同じ色のスラックス。確かに目立つ格好だ。
「ごきげんよう、城島実果様。突然お邪魔しましたことをお許しください。エリーゼ・ミュラーと申す探偵でございます。待つ間、お庭が素晴らしかったので拝見しておりました。色とりどりの花が咲いていて、素晴らしい眺めですね」
言いながら探偵は右手を胸に当て、恭しく頭を下げる。外国風の礼だ。しかしほぼ完璧な日本語。イントネーションにわずかながら外国人らしい訛りがある程度。実果は心中で訝ったに違いない。外国人なのに、探偵なのかと。しかし令嬢のたしなみらしく、顔色には一切出なかった。
自宅の応接間なのだから、そこに誰がいても冷静であるべき、という信念なのだろう。
「初めまして、城島実果でございます。どうぞお座りになって」
エリーゼに席を勧め、実果も向かいに座る。しかしテーブルの真ん中に、鉢植えが置かれていて、実果は少し驚いている。それは顔に出た。
「これは何でしょう?」
「桔梗の花でございますよ、お嬢様」
「いいえ、花の名前を聞いたのではありません。どうしてここに花が……」
「もちろん私が持って参りましたのです」
「いいえ、何のために持って来られたのか知りたいのです」
「それはおいおい説明いたしますです。ただ、テーブルの真ん中にあると気になるでしょうから、少し端へ寄せておきましょう」
エリーゼは鉢を両手で持つと、30センチほど横へ寄せた。テーブルの端までは至っていないが、「横へ避けておく」と言いたかったはずで、ちょっとしたニュアンスの違いに過ぎない。
「それで、どんなご用件でしょう。身元調査ならお断りしようと存じますが」
「それに近いかもしれません。お嬢様のご友人でいらっしゃる
「鳥毛さんとはもうお付き合いしておりません」
「存じておりますとも。ただ、彼が先日の日曜日に、大怪我をしたことはお聞き及びでしょう」
「ええ、警察から連絡がありました」
「そのときに警察へお答えになったことを、私にも教えていただきたいのですよ」
「警察にお聞きになったらいかがです?」
「残念ながら警察は教えてくれませんのです。それにこれは、鳥毛様からの依頼なのですよ」
「どういうことです?」
「彼は頭を叩かれたショックで、部分的に記憶を失っているのです。それは警察からお聞きになりましたね?」
「そのように伺ったと思います」
「彼は、お嬢様がどのように証言したのか、知りたいとおっしゃるのですよ。しかし警察も、彼には他人の証言内容を話さないのです。それが捜査のルールなのです。ですから私が代理として伺いに参ったという次第でございます」
外国人なのに、最上級の敬語を操ることにも、実果は感心したに違いない。
「土曜日の午前中に、鳥毛さんから電話をいただきました。久しぶりに遊びに来ないかとおっしゃるのです。他に出掛ける用があると言って、お断りしました。それだけです」
「タンジュンメーカイで結構です。ただ、土曜日のことだけは不十分で、もう少し前からお話しいただきたいのです」
「金曜日のことですか?」
「いいえ、お嬢様が鳥毛様とお付き合いを始めたきっかけからです。警察からも聞かれたのではありませんか?」
「それは鳥毛さんにお尋ねになればよろしいでしょう」
「いいえ、お嬢様が警察にどのようなお話しをされたか、知りたいのですよ。ご安心ください、鳥毛様にお伝えするのは先ほどの証言だけです。その他は、警察にお話しになったことを、そっくりそのまま私にお話しくだされば結構なのですよ」
「つまりあなたは、警察に代わって事件を解明しようとしていらっしゃるのですか?」
「警察に代わって、ではありません。警察とは別に、です。もし真相を突き止めたとしても、警察には言わないつもりです」
「そんなことができるのでしょうか」
「お嬢様がご心配なさるようなことではございませんですよ。お話しいただくだけで結構なのです」
実果の表情が少し曇る。エリーゼの言うことが、口先だけなのか、わからなかったからだろう。ただ、警察に言ったことを、エリーゼにも言えないはずはなかった。
「わかりました。お話ししましょう。ですが、警察にどのようなことを聞かれたのか、おおかた忘れてしまいました」
「では警察がよくやるように質問を進めて参りましょう。まずお嬢様のお仕事を教えてくださいますか」
もちろん警察はそれを最初に聞いたはずである。
「父が社長を務める商社に勤めております。場所は、この家の近くです」
会社の名前も実果は言った。彼女の父が社長を務める会社だ。家のすぐ近く――西へ1キロほど――だが、実果はそこへ運転手付きの車で送り迎えしてもらっている。
「お仕事の内容を簡単にどうぞ」
「庶務課に配属されていて、渉外を担当しています。……渉外はおわかりになりますか?」
「もちろんですとも。会社の外と連絡や交渉をするのでしょう?」
「それと父の秘書を務めています。正式な秘書は別にいて、その人は出張にも付いて行きますが、私は残って社内との調整をします」
「結構です。では鳥毛様とお付き合いを始めたきっかけをお話しください」
「弊社の広告作成を依頼したときです」
広告代理店と契約し、実果はその折衝を受け持った。広告の完成までに代理店と何度か進捗報告会を開いたが、鳥毛は代理店側のプレゼン担当だった。代理店の社員ではなく、下請け会社の社員であることは後で知ったが、プレゼンだけでなく普段の話しぶりも明快かつ爽やかで、とても有能に思えた。
広告が完成し、その成果報告会の後で、食事に誘われた。以後、月に一度くらい会うようになり、しばらく後にはそれが二週間に一度になって、半年後には毎週会うようになった。
そこまで実果が説明したらエリーゼが「それだけで結構です」と言った。会ったとき、つまりデートの詳しい内容は聞かなくてもいい、と。警察とは少し違う。
「他に伺いたいことがございます。彼のマンションの部屋へいらしたことがございますね?」
「はい」
「そこでお泊まりになったことは?」
「ございません」
「そこで暴力を受けたことは?」
「それは警察にお聞きになったのですか?」
「いいえ、私の想像です」
「そうですか。ええ、ございます」
「警察に被害届は?」
「出しました」
「一度だけではありませんね?」
「ええ、三度ほど」
「それで彼とのお付き合いをやめたのですか?」
「……ええ、そうです」
「それとも、彼に別の恋人ができたからでしょうか?」
「いいえ、彼に私の他に親しい女性がいたのは存じていますが、彼がその方と、より親しいお付き合いを始めたのは、私と別れてから後だと存じます」
「最後に彼とお会いになったのは?」
「1年以上も前です」
「それ以降、彼からは何も連絡がなかったのですか?」
「何度か電話があって、先日と同じように誘われたのですが、全てお断りしました」
「彼から部屋の鍵を預かったことはございますか?」
「鍵を? いいえ」
「つまり、お嬢様は彼に連絡もなしに彼の部屋へ行って、鍵を開けて入る、ということはなかったのですね?」
「もちろんございません」
「結構です。では次に、土曜日にどこへお出掛けになったか、教えていただけますか」
「難波と心斎橋です。主に百貨店で買い物をしていました」
「領収書を拝見できますか」
「それは警察へ預けてしまいました。任意提出、というのでしたかしら」
「おや、そうでしたか。どこで何をお買いになったか憶えてらっしゃいますか」
「服とアクセサリーを何点か買ったのですが、よく憶えていません」
「でもお買いになった物がお部屋にあるのでしょう? 全部とは申しません、何点か拝見することはできますか」
「お見せするのですか? 思い出すだけではいけませんか」
「もちろんそれで結構ですとも」
実果は少し考えてから、ブラウスを一枚、靴を一足、帽子を一個、そして髪留めを一つ買った、と答えた。
「手袋はお買いにならなかったのですか」
「手袋? いいえ、買いませんでした」
「ですがお嬢様のお手を拝見したところ、日焼けの跡が全くありません。アームカバーをお使いなのでしょう? お買いにならなかったのでしょうか」
実果は思わず自分の手を見た。そんなところを観察されているとは思っていなかったようだ。
「おっしゃるとおりアームカバーは普段着けていますが、そのときは買いませんでした」
「そうでしたか。では、最後に一つ」
エリーゼは、さっき横によけた桔梗の鉢を、テーブルの真ん中に戻した。花が四つほど咲いている。
「この花をちぎっていただけますか」
「花をちぎる? どうしてです?」
「ちょっとした性格診断です」
「でもこんなに綺麗に咲いているのに」
「お気になさらず。実は鉢植えではなく、切り花を土に挿してあるだけなのですよ。だから2、3日もすれば枯れてしまうのです」
そう言われても実果は少し迷ったふうに、じっとしていた。しかししばらくして両手を鉢の方へ伸ばし、一番上の桔梗の花びらを両手の指で摘まむと、星型のくぼんだところから付け根に向かってそっと引き裂いた。もちろん花は茎にくっついたままだ。
「これでよろしいですか?」
「結構ですとも。どうぞ、これで手をお拭きになってください」
エリーゼは白いハンカチを取り出してきて、実果に差し出した。
「手を拭く?」
「桔梗の花にはサポニンという毒が含まれているのです。お嬢様のように肌が弱い方は、そのままにしておくと痒くなるかもしれません」
「そ……そうなのですか」
実果はハンカチを受け取って、少し慌てた様子で指先を拭い、エリーゼに返した。
「ところでここのお庭には桔梗の花がございますか?」
「庭にですか? さあ、世話をするのは私ではなく母と家政婦なので、よく存じません。ですが、季節の花もたくさん植えているので、桔梗もあるのではないでしょうか」
「そうですか。では、帰る前に家政婦様に伺うことにしましょう。本日はこれにて失礼いたしますです」
エリーゼは立ち上がって、また胸に右手を当てて挨拶すると、桔梗の鉢を持ってさっさと応接室を出た。
後に残された実果が、どのような気持ちになっているかは、察しようもない。
(続く)
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