第4章 聞き取り (前編)

 東大阪市の閑静な高級住宅街の、とある豪邸、とある夕方のこと。

 探偵の待つ応接間に、その家の令嬢である城島実果みかが入ってきた。社長令嬢らしい、色白のおっとりした顔立ちで、身体付きも華奢。ブラウスから覗く手も、今まで一度も日焼けをしたことがないかのように白い。

 彼女は仕事帰りで、玄関を入ったとき、家政婦からこう言われたはずである。「お嬢様に探偵がお会いしたいと……」。

 実果は「どうして断らなかったのです?」と言ったに違いない。おそらくは、少し不機嫌な表情になって。そして以下のような会話が玄関から廊下で交わされたはずだ。

「断ったらお嬢様がお帰りになるまで門の前で待つと言うのです。何しろ目立つ格好をしていて、近隣の住人に見咎められても困りますので」

「応接間に通したのですか」

「はい、もうかれこれ1時間ほどお待ちで」

「何を調べにいらっしゃったのかしら?」

「さあ、それはお嬢様に自分から申し上げると」

「着替えてきます。もうしばらくお待ちになるようお伝えして」

 不完全ではあるが、これらの言葉の端々が、応接間から聞こえていたのだ。

 実果みかが応接間に入ってきたのは、その後、30分経ってからだった。スーツから普段着に着替えて。帰宅時にスーツを着ていたのは、応接間の窓から見えていた。普段着は、白い長袖ブラウスに、藤色のロングスカート。

 対する探偵の服装は、ライムグリーンのブラウスに、紺のベスト、同じ色のスラックス。確かに目立つ格好だ。

「ごきげんよう、城島実果様。突然お邪魔しましたことをお許しください。エリーゼ・ミュラーと申す探偵でございます。待つ間、お庭が素晴らしかったので拝見しておりました。色とりどりの花が咲いていて、素晴らしい眺めですね」

 言いながら探偵は右手を胸に当て、恭しく頭を下げる。外国風の礼だ。しかしほぼ完璧な日本語。イントネーションにわずかながら外国人らしい訛りがある程度。実果は心中で訝ったに違いない。外国人なのに、探偵なのかと。しかし令嬢のたしなみらしく、顔色には一切出なかった。

 自宅の応接間なのだから、そこに誰がいても冷静であるべき、という信念なのだろう。

「初めまして、城島実果でございます。どうぞお座りになって」

 エリーゼに席を勧め、実果も向かいに座る。しかしテーブルの真ん中に、鉢植えが置かれていて、実果は少し驚いている。それは顔に出た。

「これは何でしょう?」

「桔梗の花でございますよ、お嬢様」

「いいえ、花の名前を聞いたのではありません。どうしてここに花が……」

「もちろん私が持って参りましたのです」

「いいえ、何のために持って来られたのか知りたいのです」

「それはおいおい説明いたしますです。ただ、テーブルの真ん中にあると気になるでしょうから、少し端へ寄せておきましょう」

 エリーゼは鉢を両手で持つと、30センチほど横へ寄せた。テーブルの端までは至っていないが、「横へ避けておく」と言いたかったはずで、ちょっとしたニュアンスの違いに過ぎない。

「それで、どんなご用件でしょう。身元調査ならお断りしようと存じますが」

「それに近いかもしれません。お嬢様のご友人でいらっしゃるとりかい様のことについて伺いたいのです」

「鳥毛さんとはもうお付き合いしておりません」

「存じておりますとも。ただ、彼が先日の日曜日に、大怪我をしたことはお聞き及びでしょう」

「ええ、警察から連絡がありました」

「そのときに警察へお答えになったことを、私にも教えていただきたいのですよ」

「警察にお聞きになったらいかがです?」

「残念ながら警察は教えてくれませんのです。それにこれは、鳥毛様からの依頼なのですよ」

「どういうことです?」

「彼は頭を叩かれたショックで、部分的に記憶を失っているのです。それは警察からお聞きになりましたね?」

「そのように伺ったと思います」

「彼は、お嬢様がどのように証言したのか、知りたいとおっしゃるのですよ。しかし警察も、彼には他人の証言内容を話さないのです。それが捜査のルールなのです。ですから私が代理として伺いに参ったという次第でございます」

 外国人なのに、最上級の敬語を操ることにも、実果は感心したに違いない。

「土曜日の午前中に、鳥毛さんから電話をいただきました。久しぶりに遊びに来ないかとおっしゃるのです。他に出掛ける用があると言って、お断りしました。それだけです」

「タンジュンメーカイで結構です。ただ、土曜日のことだけは不十分で、もう少し前からお話しいただきたいのです」

「金曜日のことですか?」

「いいえ、お嬢様が鳥毛様とお付き合いを始めたきっかけからです。警察からも聞かれたのではありませんか?」

「それは鳥毛さんにお尋ねになればよろしいでしょう」

「いいえ、お嬢様が警察にどのようなお話しをされたか、知りたいのですよ。ご安心ください、鳥毛様にお伝えするのは先ほどの証言だけです。その他は、警察にお話しになったことを、そっくりそのまま私にお話しくだされば結構なのですよ」

「つまりあなたは、警察に代わって事件を解明しようとしていらっしゃるのですか?」

「警察に代わって、ではありません。警察とは別に、です。もし真相を突き止めたとしても、警察には言わないつもりです」

「そんなことができるのでしょうか」

「お嬢様がご心配なさるようなことではございませんですよ。お話しいただくだけで結構なのです」

 実果の表情が少し曇る。エリーゼの言うことが、口先だけなのか、わからなかったからだろう。ただ、警察に言ったことを、エリーゼにも言えないはずはなかった。

「わかりました。お話ししましょう。ですが、警察にどのようなことを聞かれたのか、おおかた忘れてしまいました」

「では警察がよくやるように質問を進めて参りましょう。まずお嬢様のお仕事を教えてくださいますか」

 もちろん警察はそれを最初に聞いたはずである。

「父が社長を務める商社に勤めております。場所は、この家の近くです」

 会社の名前も実果は言った。彼女の父が社長を務める会社だ。家のすぐ近く――西へ1キロほど――だが、実果はそこへ運転手付きの車で送り迎えしてもらっている。

「お仕事の内容を簡単にどうぞ」

「庶務課に配属されていて、渉外を担当しています。……渉外はおわかりになりますか?」

「もちろんですとも。会社の外と連絡や交渉をするのでしょう?」

「それと父の秘書を務めています。正式な秘書は別にいて、その人は出張にも付いて行きますが、私は残って社内との調整をします」

「結構です。では鳥毛様とお付き合いを始めたきっかけをお話しください」

「弊社の広告作成を依頼したときです」

 広告代理店と契約し、実果はその折衝を受け持った。広告の完成までに代理店と何度か進捗報告会を開いたが、鳥毛は代理店側のプレゼン担当だった。代理店の社員ではなく、下請け会社の社員であることは後で知ったが、プレゼンだけでなく普段の話しぶりも明快かつ爽やかで、とても有能に思えた。

 広告が完成し、その成果報告会の後で、食事に誘われた。以後、月に一度くらい会うようになり、しばらく後にはそれが二週間に一度になって、半年後には毎週会うようになった。

 そこまで実果が説明したらエリーゼが「それだけで結構です」と言った。会ったとき、つまりデートの詳しい内容は聞かなくてもいい、と。警察とは少し違う。

「他に伺いたいことがございます。彼のマンションの部屋へいらしたことがございますね?」

「はい」

「そこでお泊まりになったことは?」

「ございません」

「そこで暴力を受けたことは?」

「それは警察にお聞きになったのですか?」

「いいえ、私の想像です」

「そうですか。ええ、ございます」

「警察に被害届は?」

「出しました」

「一度だけではありませんね?」

「ええ、三度ほど」

「それで彼とのお付き合いをやめたのですか?」

「……ええ、そうです」

「それとも、彼に別の恋人ができたからでしょうか?」

「いいえ、彼に私の他に親しい女性がいたのは存じていますが、彼がその方と、より親しいお付き合いを始めたのは、私と別れてから後だと存じます」

「最後に彼とお会いになったのは?」

「1年以上も前です」

「それ以降、彼からは何も連絡がなかったのですか?」

「何度か電話があって、先日と同じように誘われたのですが、全てお断りしました」

「彼から部屋の鍵を預かったことはございますか?」

「鍵を? いいえ」

「つまり、お嬢様は彼に連絡もなしに彼の部屋へ行って、鍵を開けて入る、ということはなかったのですね?」

「もちろんございません」

「結構です。では次に、土曜日にどこへお出掛けになったか、教えていただけますか」

「難波と心斎橋です。主に百貨店で買い物をしていました」

「領収書を拝見できますか」

「それは警察へ預けてしまいました。任意提出、というのでしたかしら」

「おや、そうでしたか。どこで何をお買いになったか憶えてらっしゃいますか」

「服とアクセサリーを何点か買ったのですが、よく憶えていません」

「でもお買いになった物がお部屋にあるのでしょう? 全部とは申しません、何点か拝見することはできますか」

「お見せするのですか? 思い出すだけではいけませんか」

「もちろんそれで結構ですとも」

 実果は少し考えてから、ブラウスを一枚、靴を一足、帽子を一個、そして髪留めを一つ買った、と答えた。

「手袋はお買いにならなかったのですか」

「手袋? いいえ、買いませんでした」

「ですがお嬢様のお手を拝見したところ、日焼けの跡が全くありません。アームカバーをお使いなのでしょう? お買いにならなかったのでしょうか」

 実果は思わず自分の手を見た。そんなところを観察されているとは思っていなかったようだ。

「おっしゃるとおりアームカバーは普段着けていますが、そのときは買いませんでした」

「そうでしたか。では、最後に一つ」

 エリーゼは、さっき横によけた桔梗の鉢を、テーブルの真ん中に戻した。花が四つほど咲いている。

「この花をちぎっていただけますか」

「花をちぎる? どうしてです?」

「ちょっとした性格診断です」

「でもこんなに綺麗に咲いているのに」

「お気になさらず。実は鉢植えではなく、切り花を土に挿してあるだけなのですよ。だから2、3日もすれば枯れてしまうのです」

 そう言われても実果は少し迷ったふうに、じっとしていた。しかししばらくして両手を鉢の方へ伸ばし、一番上の桔梗の花びらを両手の指で摘まむと、星型のくぼんだところから付け根に向かってそっと引き裂いた。もちろん花は茎にくっついたままだ。

「これでよろしいですか?」

「結構ですとも。どうぞ、これで手をお拭きになってください」

 エリーゼは白いハンカチを取り出してきて、実果に差し出した。

「手を拭く?」

「桔梗の花にはサポニンという毒が含まれているのです。お嬢様のように肌が弱い方は、そのままにしておくと痒くなるかもしれません」

「そ……そうなのですか」

 実果はハンカチを受け取って、少し慌てた様子で指先を拭い、エリーゼに返した。

「ところでここのお庭には桔梗の花がございますか?」

「庭にですか? さあ、世話をするのは私ではなく母と家政婦なので、よく存じません。ですが、季節の花もたくさん植えているので、桔梗もあるのではないでしょうか」

「そうですか。では、帰る前に家政婦様に伺うことにしましょう。本日はこれにて失礼いたしますです」

 エリーゼは立ち上がって、また胸に右手を当てて挨拶すると、桔梗の鉢を持ってさっさと応接室を出た。

 後に残された実果が、どのような気持ちになっているかは、察しようもない。


(続く)

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