第3章 意外な依頼者
鉄製の非常階段を昇る、カンカンという音が止まってから、『湾岸探偵事務所』のドアに、ノックがあった。
「はいっ!」
エリーゼが元気な返事をして、ドアを開ける。そして外へ向かって「ミツルギ・マイ様ですか?」。
「そうです」
「どうぞお入り下さい」
鉄製のドアが大きく開かれて、依頼人・
初めて来た人は、たいていそうなる。外観は中小企業の古いオフィスビルにしか見えないのに、中はイ○アの高級家具展示コーナーのように豪華なのだから。
もっともこの探偵事務所も、近いうちに引っ越しの予定がある。が、少なくとも日は確定していない。移転したあかつきには、建物の正面玄関と鉄のドアの外側に「移転しました」の表示が貼られることだろう。
「どうぞお座りなさい」
エリーゼに言われ、真衣はおずおずと部屋の中央へ近付いてきた。顔は動かさず、目だけ動かして部屋中を観察しながら、黒革のソファーにゆっくりと座った。予想以上にソファーが沈み込んだと見えて、慌てて姿勢を整えている。
長い髪を茶色に染めているが、顔つきは日本人形のよう。「育ちがいいお嬢さん」で、少し落ち着きがなく、世間知らずの箱入りではないかと思わせる。
その真衣の前のテーブルにコーヒーカップを恭しい手つきで置くと、エリーゼは背筋を伸ばして、腰に軽く手を当てるポーズを取った。
「では手続きに従って、自己紹介いたしましょう。私が所長で探偵の調査員のエリーゼ・ミュラーでございます。あるいは三浦エリと聞いていますか? どちらで呼んでいただいても結構ですよ。さて、あちらが探偵業届出証明書!」
エリーゼは壁のプレートを指差した。続いてパンパンに膨らんだベストの胸ポケットからカードを取り出し「身分証明証です。日本調査業協会加盟員証!」、デスクの抽斗からノートを取り出し「これが従業員名簿!」、そして真衣の前に戻ってきて「本当に探偵なのかと疑っていたのではありませんか? ご安心下さい、ショーシンショーメイ、本当の探偵です」と得意気に言った。
笑顔が外国の映画女優のように様になっている。鏡の前で毎日練習しているのだろう。
「いえ、別に疑ってませんでしたが……」
真衣は動揺を隠せないまま言った。
「そうでしたか。ならばとても光栄なことです。さて、紹介者はあなたの知人のマンション管理人と、臨海署の田名瀬不二恵巡査の二人ということでしたね。なかなか珍しいケースです。ただ、二人いても残念ながら料金の割引はできないのですよ」
「割引なんてあるんですか?」
「警察ならジュンサブチョーかそれより上の階級であれば、1万円引きです。割引なしだと4万円です。ご安心なさい、今、お金を取ろうというのではありません。依頼内容を伺って、受けると決まってからで結構です」
「4万円というのは微妙な金額ですね」
依頼の電話をかけてきたときに真衣は、他の人から指示されたから行く、と言っていたらしい。だから自分がそんなにも払わねばならないのか、と思っているのだろう。裕福な家庭のはずだが、そういう人は不用なお金は使いたくないと思うものである。
「事件が解決すれば安かったと感じるかもしれませんよ。さて、どういう依頼でしょうか。先日、この近くで起こった傷害事件に関係があると伺ったのですが、なるべく詳しく話して下さいますか」
「はい、私の付き合っている男性が、誰かに植木鉢で頭を殴られて」
しかし真衣自身はその現場を見ていないことを、最初に断った。これから話す内容には伝聞が多いことも。
まず事件の現場。彼氏である
次に発端。と言っても、真衣がマンションを出た理由。先週金曜日、鳥毛は会社帰りの飲み会で、酔っ払って帰ってきた。ソファーで寝そうになっていたので、シャワーを浴びてベッドで寝るように言ったら、なぜか怒り出し、蹴りを入れてきた。酔い醒ましの水を持って行ったら、グラスを投げつけてきた。いつも真衣がやってあげていることなのに、その日だけ怒った理由は不明。
「本当にわからないのですか。警察のジジョーチョーシュを受けたと思いますが、彼氏様は刑事に何とおっしゃったか、聞いていませんか?」
「とにかく何にも憶えてないと言ったらしいんです。金曜日の夜から、日曜日の朝まで。記憶喪失みたいになってるようだと。警察も、それは一応信用してるらしくて」
「叩かれた衝撃でそうなったのかもしれませんね。わかりました。お続け下さい」
こういうときは、それ以上何をしても鳥毛の機嫌が悪くなるとわかっているので、真衣は家に帰ると言い残し、本当に帰った。家は大阪市の
土曜日は急に出掛けることになったのだが、それは後で話す。
日曜日に警察から電話がかかってきて、事件を知らされた。金曜日か土曜日に起こったのだが、鳥毛が意識を取り戻したのが日曜日だったそうだ。
呼び出されて、マンションの近くまで行ったが、部屋には入っていない(以後ずっと入れてもらえてない)。マンションの前で刑事から事情聴取され、今ここで説明したような内容を話した。
それ以外に話したことが二つ。まず現場にあった植木鉢。
「それで頭を殴られたらしいんですけど、花がちぎられて、ばら撒かれてたんです。鉢には桔梗の花が咲いてたんですけど、前から部屋にあったのかって聞かれたから、私が種を買ってきて育てたって説明して」
「キキョーという花を私はよく知らないのですが、後で調べておきましょう。それでもう一つは?」
「日曜日のことです」
昼過ぎ、平野の家に電話がかかってきた。真衣が出ると、相手は鳥毛の新しい彼女だと名乗った。ただし名前は不明。
話があると言われ、天王寺に呼び出された。1時に指定の喫茶店で待っていたら、スマートフォンに電話がかかってきて、30分後に難波へ来てと言われた。
難波へ行ったらまた電話がかかってきて、30分後に梅田へ来てと言われた。
「ちょっとイラッとしてしまって、『いい加減にして下さい』って言い返したんですけど、一応梅田には行きました。そこで待ってたんですけど、相手が来なかったので、家に帰りました」
「おやおや、ミツルギ様のアリバイをアイマイにすることが目的だったのですかね。どこかでお友だちに会いませんでしたか?」
「会いませんでした。というか、彼氏のことで別の女性から呼び出されて会ってるなんて、かっこ悪くて誰にも見られたくないです。イラッとなったのは、引き回されて誰かに見られたらと思って、つい……」
「フェルシュテーエン、了解です。事件のことはだいたいわかりました。さて、私への依頼は何でしょうか?」
「犯人を見つけて下さい」
「ですが、警察が捜査をしているのでしょう?」
「そうですけど、私が一番疑われてるんです! でも私は犯人じゃないんです。他に容疑者が二人いるらしくて、そのどっちかだと思うから、調べて欲しいんです」
「なるほど、警察は被害者の一番身近な人物から疑うことが多いですからね。了解しました。調べましょう。それで、他の被疑者二人とは?」
「一人は名前を知ってます。城島
「もう一人の方はどういう関係かご存じですか」
「たぶん、実果さんの前の彼女」
「それも電話番号や住所はご存じないのですか」
「そうです」
「私はそのお二人にどうやって話を聞きに行けばよいでしょうか」
「それは、探偵さんですから、何とかして調べて……」
「それも依頼に入るわけですね」
「はい」
「でも彼氏様はご存じなのでしょう? 聞いてみたらよいではないですか」
「ですけど、嫉妬してると思われたくないんです!」
真衣が言うと、エリーゼは澄ました顔で天井を見上げた。釣られて真衣も上を向く。小さめのシャンデリアのような照明がぶら下がっているだけだった。
「先ほど、彼氏様は足で蹴ったり、グラスを投げたりしたとおっしゃいましたね」
エリーゼが聞いてきたので、真衣が視線を下げると、エリーゼは元のように軽い笑みを浮かべながら真衣を見ていた。
「はい」
「よくあることなのですか」
「いえ、たまに……」
「それは
「えっ、何ですか?」
「日本式に発音しましょう。
「あ、はい」
「警察はそれを知っているのですか」
「被害届を出したことがあります」
「それなのに同棲を続けていらっしゃるのですか」
「だって暴力的になるのって、時々だけなんです。普段はとっても優しいんです!」
「了解しました。少々お待ちください。前の彼女や、その前の彼女の情報が得られそうです」
エリーゼはベストのポケットからスマートフォンを取り出してきて、どこかへダイヤルしてから、それをテーブルの上に置いた。大きめの呼び出し音が聞こえるから、スピーカーモードにしたようだ。相手が電話に出た。
『もしもーし、フジコやなくて、不二恵です』
臨海署生活安全課の女性刑事の声だった。真衣がDVの届けを出しに行ったときに対応した刑事のはず。
そのときは優しげに、親身になって、「お気持ちはわかります」などと言っていたはずだが、今は全く違う明るい声。
「グーテン・ターク、不二恵ちゃん。ちょっとお話ししたいですが、お時間はございますか」
『えー、まだ仕事中やのに』
「そのお仕事のことなのですよ。トリゲ・カイジ様のDVの件です」
『ん、鳥毛さんがまた何かしはった?』
「今、ミツルギ・マイ様にお話を聞いているのですよ」
『あっら!』
驚きの声。そして少し沈黙があった。
『御剣さん、そこにいてはるん?』
声の調子が少し変わった。改まった感じ。
「もちろん、いらっしゃいます」
『それやったら、ご本人に聞かはったらよろしいですやん』
言葉遣いも丁寧になったようだ。
「ミツルギ様のことではないのです。トリゲ様に関して、別のDV被害届が出ているのか、伺いたかったのですよ」
『えーっと、それは教えられません』
「ジョージマ・ミカ様からです」
『教えられません』
「わかりました」
エリーゼは電話を切った。何がわかったのか、真衣にはわからないだろう。
「ジョージマ・ミカ様からもDV被害届が出ているそうです」
「そうなんですか? 教えられませんって言ってたのに」
「被害届が出ていないのなら、出ていませんと答えるのですよ」
「そういうものなんですか?」
「そういうものです」
真衣はしばし黙った。どういうことなのか、さっぱりわかっていないようだ。
「……でも、電話番号も住所も教えてくれなかったじゃないですか」
「大丈夫です。調べられます」
「どうやって?」
「私は探偵ですから」
受け答えになっていないが、「何とかして調べて」と言ったのは真衣自身だ。
「そうしたら、受けてくれるですか?」
「もちろん承りますですよ。前金を払ってくださいますか。5千円です」
「わかりました」
真衣は財布の中から5千円札を取り出して、エリーゼに渡した。しかし依頼料は真衣自身が払うのではないのは、最初からわかっていた。彼女は彼氏である鳥毛の指示で、ここへ来たのだ、というのがエリーゼの推測だった。
エリーゼは「ダンケ・シェーン!」と言い、デスクへ行って「金5000円」の預かり証を持ってきた。
「おそらく3日後には最初の報告ができるでしょう。またここへお越し下さいますか?」
「じゃあ、前の日に電話してくれますか」
「かりこまりましたです」
エリーゼに見送られて、真衣は事務所を出た。階段を下りる足音は、昇ってきたときよりも少し小さかった。
(続く)
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