第2章 現場再現

 臨海署から渡利鑑識へは、徒歩で5分ほど。しかし現場へ行く必要もあるので、天草が車を出した。

 行って、まず渡利に花の破片を見せる。一目で「ゴム手袋を使ってちぎった」と言った。

「台所で使う、いわゆるキッチングローブ。指先に付いている滑り止めの模様が、花びらの表面に残っている」

「そんなん付いてるんや。知らんかった」

「私もグローブは使わないので知りませんでした」

 天草も、門木と同じように感心している。

「メーカーもわかりますが」

「いや、これから現場へ連れて行こうと思ってるんや。そこにあるのと同じか、確認してくれたらええと思う」

 門木はいつもの癖で、つい言ってしまった。そうした方が「両方合わせて千円」とわかっているので。

「そうですか。これで全部ですか」

「いや、これは一部。なあ、天草君」

「はい。二十数片のうち五つをランダムに抜き出してきたんですが」

「何を気にしてる?」

 門木はつい気になって聞いてしまった。

「一つだけキッチングローブの跡がないものがあるので」

「たまたま模様のないところに当たったんと違うんかな」

「それでいいのならそういうことにしておきます」

「ちなみにこの花が、花屋で種を買ってきて育てたものかどうかはわかる?」

「2、3日前にちぎったらしくて、だいぶしおれているのではっきりとはわかりませんが、花の色が薄い感じです。部屋の中で育てて、日光に当てる時間が少なかったのかもしれない」

「なるほど、やっぱり種から育てたものっぽいな」

 今はビニール袋で密封しているので痛みが少ないが(押し花のような保存状態)、放置していたら枯れて茶色に変色して、何もわからなくなっていたかもしれない。

「門木さん、それを聞く必要があったんですか?」

 横から天草が心配そうに聞いてくる。

「現場にあった鉢のとは、違う花かもしれへんやろ」

「偽装ということですか? 何のために偽装するのか……」

「ちぎって撒くのも何のためかわからへんのやから、これくらい聞いといてもよろしいやんか」

 それからまた渡利に聞く。

「他に何かある? ちぎり方の癖みたいな。例えば左手でちぎったとか……」

「それはわかりませんが、花全体を手で掴んで茎から、それから広げて小さく裂いていったということくらい」

「他にちぎり方あるんかな」

「花を茎に付けたまま裂く、ということも考えられます」

「あー、そうか、花占いみたいに、花びらを一枚ずつちぎるイメージか」

「花占い?」

「ん? 知らんの?」

 渡利は外国に長くいたので知らないのか。「あの人は私のことが好きとか嫌いとか言いながら、花びらを一枚ずつちぎって気持ちを占う」と門木が説明すると、渡利は「マーガレット摘みのことですか」と呟いた。

「やっぱり外国にもあるんやんか」

「鑑識にはあまり関係がないので忘れかけていました」

「とにかく、そういうちぎり方があるいうことやけど、今回はそうやない、至って普通のちぎり方なんやな」

「そうです」

 単に付いてきただけのつもりなのに、勝手にいろいろ進めすぎたかな、と思い、門木は天草を見た。天草は眼鏡の奥で目を丸くしながら、門木のことを見ていた。

「門木さんの口から花占いなんていう言葉が出るなんて……」

「いや、感心するところはそこと違うんや。天草君が鑑識項目を考えんと」

「あ、はい、すいません。でも、他には思い付きませんが……」

「後は現場かな。行ってくれるよな?」

「承ります」

 事務所を出て車に乗り、天草の運転で咲洲さきしまの南側にあるマンション地帯へ。その中の、かなり古くなったマンションに入る。古すぎて、防犯カメラが付いていない。だから事件に関係しそうな人の出入りを調べようにも、できないのだ。

 エレベーターも同じように古く、遅くてよく揺れる。現場の部屋のドアの鍵は、天草が開けた。

「鍵、預かってんのかいな」

「はあ、御剣さんはしばらく戻らないつもりだからと。それに、現場保全の必要がありますし……」

 部屋の主である鳥毛は、主に寝室とキッチンだけ使って、リビングは使わないようにしているそうだ。もちろん、この1週間程度の臨時措置として。

 リビングに入る。古くて安いマンションだけに、さほど広くはない。窓は南西向きで、家具はソファーと低いテーブルとテレビ、それに入り口近くのサイドボード。シンプルなものだ。ソファーは二人でかけられる大きさで、下に毛足の長いラグ(小さめのカーペット)が敷いてある。

「掃除もしばらくしないように依頼しているので、ソファーの周りに花粉が落ちていると思うんです。その場所がわかれば教えて下さい。たとえば、鉢で殴ったら、その付近にいくらか花粉が落ちると思うんです」

 警察の鑑識が調べるには、花粉は小さすぎる。落ちているかどうかはもちろんわかるが(掃除機で吸えばいい)、どんな分布で落ちているかは調べきれない。

 鳥毛本人は倒れていた状況を「ソファーの上で、うつ伏せ」と証言しているのだが、頭がどっちを向いていたとかの細かいことを、さっぱり憶えていないらしい。後になって「もしかしたら床に倒れていたかも」とも言っていたそうだ。

 憶えているのは「起きた後でソファーに座って、後頭部を触った」ところから後。酔っ払いの傷害事件でも、同じように「怪我をしたときの状況がよくわからない(酔っていて憶えていない)」ということが、多々あるので仕方ない。

 渡利はソファーの周りを一周した後で、「ソファーの左の方へ頭を向けて、うつ伏せ」と言った。位置どころか、殴られたときの姿勢までわかったということだ。

「鉢を両手で持って、上から落とすように殴った。そう考えられる分布です」

「テレビでも見ながら、うたた寝をしているところを殴られたのでしょうか」

 天草がテレビの方を見ながら言う。テレビは部屋の隅に置いてあるが、ソファーに座るとそれが正面に見られるようになっている。

「被害者の利き手は?」

 渡利が、まるで独り言のように呟いた。

「利き手? ……右手だったと思いますが」

「ではテレビを見ながら寝ていた可能性は低い」

「どういうことです?」

「ソファーの上で寝そべるときは、利き手の方に頭を向けるものですよ」

「そ……そうなんですか?」

 天草が驚いて渡利を見る。それからソファーを見る。頭の中で、自分ならどちら向きに寝るかを、想像しているのだろう。しかし門木には、渡利の考えがだいたい理解できた。

「天草君、寝転んでテレビを見るときは、完全に横向きになってしまったら見づらいやろ。顔が横になってしまうと、画面を横向きに見ることになる」

「ええと……ああ、そういうことになりますね」

「つまり肘枕をして顔を縦に向けようとする。その手はたいてい、無意識のうちに利き手を使うんや」

「あっ……そういうことですか」

「ほな、普通に座ってるときにどつかれて、横へ倒れたときにうつ伏せになったんか、というと、それも違うやろな。傷の位置は後頭部。後ろからどつかれたら、前のめりに倒れるはず」

「そうですね」

「ということは、最初からうつ伏せになっているところを、上からどつかれたということや。そして加害者の立ち位置は、ソファーの後ろ。つまり、あっちから……」

 門木は身体半分だけ振り返って、部屋の入り口を指差した。それはちょうど、ソファーの真後ろの方向だ。そこにサイドボードもある。天草の目もそちらに向く。

「……入ってきた人物が、どついたということになる。そこに置いてあった花瓶を持ってきて」

「そうですね」

「で、なんでうつ伏せになってたんか。ここからは、わしの想像。鳥毛にでも同居人の御剣にでも聞いたらええと思うんやけど、普段このソファーに座るとき、どっちがどっちに座ってたか。わしは鳥毛が右で、同居人が左やと思うんや」

「……それが重要なんですか? 確認しておきますが……」

「重要やと思うで。で、左に誰かを座らせてたとして、鳥毛がそっちへ向かってうつ伏せになるときというと?」

「ええと……あ、ああ、そ、そういうことですか……」

 天草は少し動揺したようだが、顔色までは変えなかった。

「……ということは、事件発生時、被害者と加害者以外に、もう一人この部屋にいた!? 鳥毛の……その、下に?」

 つまり、押し倒されてた人物がいるということだ。

「状況からは、そういうことも考えられるわな」

「確かに……確かにそうです。では金曜日の夜に、御剣さんが暴行を受けているときに、誰かが入ってきて殴った、ということも考えられるのですね」

「そういうのもあるし、あるいは一晩明けて、土曜日に大江と城島が二人とも来て、先に来た方が暴行を受けて、後から来た方が殴った、というのもあるかもしれん」

「どちらも来ていないというのは、二人で口裏を合わせている、ということも考えられるわけですか」

「あるいはどっちか一人だけが来て、後から御剣が来たということもありえる。ドアの鍵はどうなってたん? 鳥毛と誰かがここにいる間、開いてたか閉まってたか」

「普段は閉めているのですが、救急が到着したときに鳥毛が自分でドアを開けようとしたら、鍵が開いていたと……」

「そしたら、最後に出て行ったのは鍵を持ってない奴かもしれんということや」

「そうです」

「そいつが来たときにも開いてたかもしれんな」

「はあ……」

 天草はしばらく考えていたが、やがて当惑したような表情になって言った。

「……鳥毛が殴られたのは自業自得、という気がしてきました」

「ああ、状況の解釈が正しければ、そうなるやろね」

 自分がこの事件担当やったら、これ以上捜査しとうないな、と門木は思った。後頭部に深い裂傷ができたり、丸一日気絶したりしたのは可哀想だが、犯人は鳥毛を“制裁”しようと思っただけで、殺そうとしたわけでないのは明らかだろう。天罰のようなものだ。

 それからキッチンに行って、キッチングローブを探す。しかし目に付くところにはなかった。ただ、流しの上に洗濯ばさみがぶら下がっていて、そこへグローブを吊していたのでは、と思われた。グローブは持ち去られたのかもしれない。

 それが何のためかは、もちろんわからない。

「とりあえず、この場は撤収した方がええんと違うかな。渡利鑑識の仕事は終わったやろうし」

「ああ、そうですね。渡利さん、ありがとうございました」

「鑑識料は3件で3千円、出張費は千円、合計4千円です」

「臨海署刑事課の費用で落としてもらえますか?」

「では請求書をお渡しします」

 渡利はどこからか請求書の紙片を取り出すと、金額や費目を書き込んで、天草に手渡した。但し書きは「桔梗花弁鑑識2件、現場鑑識1件、および出張料」。

 門木が依頼するときはたいてい現金で払って、領収書を経理に回すのだが、こういうやり方もある。


(続く)

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