第6章 真偽交換

 エリーゼはクーラーボックスの中から、長い針の付いた工具のような物を出してきた。輝紗はそれに見憶えがある。

「コラヴァンですか」

「そうです」

 “ワインの栓を抜かずに中身を取り出す器具”の商品名。もちろん市販品。

 ワインは普通、栓を抜いたら数時間のうちに一瓶全部飲んでしまうものとされる。空気に触れていると劣化するから、残さない方がいいのだ。

 しかし一人か二人で飲むと、飲み残すこともあるだろう。あるいは「コース料理で複数の種類のワインを楽しみたい」という場合、少しずつしか飲まないからどうしても余る。

 抜いたコルク栓を瓶の口に押し込んでおけばいいように思われるが、開けた瞬間に瓶の中に入った空気によって、劣化(酸化)が進むのである。

 一日二日ではどうということもないが、1週間2週間と経つうちに、香りは抜栓した時の状態(「香りが開く」と表現する)になり、艶が失われていく(「マット」と表現する)。

 だから抜栓後の保存は、少なくともワイン通のすることではない。飲み残したら「料理に使うしかない」とも言われるほどだ。

 そこでコラヴァンが登場する。見た目はエアー式ワインオープナーと似ていて、長い針が付いている。オープナーの針は注射器のように穴が一つ空いているだけだが、コラヴァンの針には二つ空いている。

 原理は簡単で、一つの穴からガスを注入すると、もう一つの穴からワインが出てくるというわけ。

 使い方はこうだ。まずオープナーと同様、針をコルク栓に刺す。本体から突き出した柄の先にあるに瓶の口を固定して、針の付いたハンドルを押せばいい。針はコルクを突き通して中のワインに達する。

 次に瓶を傾け、本体の“トリガーボタン”を押す。するとガスが針を通じて瓶の中に注入され、入れ替わりに“注ぎ口”からワインが出てくる。

 必要な量だけグラスに注いだら“トリガーボタン”を放す。ワインの流出が止まるので、瓶を立て、ハンドルを引いて針を抜く。コルク栓に空いた穴は、コルクの弾力により塞がってしまう。

 注入されるガスはアルゴンなので、瓶の中のワインは酸化しない。もちろん、全く劣化しないということはなく、残りの量によって多少は味が変わる(残りが少ないと変わりやすい)のだが、後の保存がよければ1年間は“ほぼ”無劣化とされている。せいぜいデカンタージュしたときの変化と同程度で、ワイン通でも飲んで満足できる。

「ふうむ、そういうのがあるとは聞いておったが、見たのは初めてやな。店では使わんからなあ」

「でもこれは栓を抜かずに瓶の中身取り出す道具ですよね? 入れ替えはどうやって……」

「説明いたしましょう。ただし実演はしません。道具が足りないので」


①まず空瓶を一つ用意し、コルクで栓をする。そしてコラヴァンを使って、中をアルゴンガスで満たしてしまう。十分長い時間、ガスを噴射してやれば、空気はほとんど出て行ってアルゴンだけになるはずである。


「入れ替えには、ロマネ・コンティの瓶の中身をどこかへ移してしまう必要があります。この瓶が、その移す先です。中がアルゴンガスだけなので、入れたワインがほとんど劣化しないのです」

「なるほど。でも、一年二年は保たないでしょうね。せいぜい数ヶ月くらい……」

「ランドー様は来月の還暦のお祝いに飲むとおっしゃっていましたよ。それまで保てばいいと考えたのでしょう」

「あっ、そういういうことですか……」


②ロマネ・コンティの瓶(Rと呼ぶ)から空瓶(Eと呼ぶ)へ中身を移す。それにはコラヴァンと、予備の針、細いチューブを用意する。

 コラヴァンの注ぎ口と、予備の針の穴(ワインが出てくる方)をチューブでつなぐ。

③コラヴァンの針を瓶Rのコルク栓に刺す。予備の針を瓶Eのコルク栓に刺す。

 これによって二つの瓶がチューブでつながることになる。

④瓶Rからグラスに注ぐ要領で、コラヴァンのトリガーボタンを押す。注ぎ口からワインが流れ出し、チューブと予備の針を通って瓶Eに注ぎ込まれる。予備の針のもう一つの穴からは、アルゴンガスが抜けていくはずである。

 針の構造上、瓶Rの中のワインを全て瓶Eに注いでしまうことはできないが、これは問題ない。なぜなら瓶Rのワインには“澱”が含まれており、それは残す必要があるからだ。⑤残す分以外のワインを全て注ぎ終えたら、両方の瓶から針を抜く。

 この時点で、瓶Rはほぼ空、瓶EにはRに入っていたワインがほぼいっぱい詰まっていることになる。

⑥次に、瓶Rの中に新たに注ぎ込むワインを用意する。偽造のレシピどおりに作ったワインであって、瓶Nに入っているとしよう。

 やり方は先ほどとほぼ同じ。瓶Nにコラヴァンを射し、瓶Rに予備の針を刺す。そして瓶Nのワインを瓶Rに注ぎ込む。

 瓶Rには“澱”が入っているのだから、抜栓せずに中を透かし見ると澱があるので、古いワインであると思わせることができる!


「さて、そのコルクをよくご覧ください。穴の跡が三つあるのがわかりますか? 一つは③のコラヴァンを射したときの穴、もう一つは⑥の予備の針を刺した穴、最後の一つはパーティーでテルサ様がエアー式オープナーを使って栓を抜いたときの穴です」

 確かに穴の跡が三つある。注意して見ないとわからないほどの小さな傷だが、中身を“盗んだ”証拠であることは間違いない。

「こないな巧妙なやり方が」と裕助も感心している。

「私は実際に試してみましたが、慣れればわりあい簡単でしたね。十五分もあればできてしまいます」

「つまり黒岡が蘭堂に頼まれて、この店のカーヴに入って、今教えてもらった方法でロマネ・コンティの中身だけを盗んでいきよったんか……」

「でも、お父さん、黒岡さんのことは私が他の従業員に聞いたんだけど、そんなことはしてなかったみたいなのよ」

「しかしテルサ様、お店の鍵を預けられたのですよね。フランスへ行っている間は」

「はい。ワインの納品に立ち会ってカーヴに入る必要があるので……」

「クロオカ様はその合い鍵を作って、ランドー様に渡したのでしょう。カーヴの中のワインを見たい、と頼まれて。私が調べたところ、彼はちょっとした借金で困っているので、お金を払うから合い鍵を作ってくれとランドー様に頼まれたら応じたでしょう。しかし、高価なワインを盗むための共犯になるなどという、大それたことをするような人物ではないのですよ」

「確かにそうですね」

「そもそもランドー様が、ロマネ・コンティの中身を盗むなどという重大なことを、他人に任せるはずがありません。共犯者を作ると弱みを握られて、半分よこせと言われたり、高額な口止め料を要求されたりするかもしれないのです」

「なるほど……」

「それはわかったけどな、三浦はん。盗られたロマネ・コンティはどうやって取り返したらええんやろ。まだ蘭堂のカーヴの中にあるんやろ?」

「さあ、それですが、たとえどの瓶にロマネ・コンティが入っているかわかっても、それを証明することが難しいですね。テルサ様も警察で言われたと思いますが、本物のロマネ・コンティ45と比較する必要があるのです」

 輝紗は頷いた。もちろん、裕助にもそれは説明してある。裕助が腕を組んで苦しげに唸る。

 そのとき、入り口の方で音がして、人が入ってきた。輝紗はそちらを見た。森村杏だった。パーティーの時とも、雑誌の写真とも違う、厳しい女性教師のような表情を浮かべている。これが刑事のときなのだろう。

「遅くなって失礼しました。六軒社長、ご無沙汰しております。過日は感謝状などという過分な物をいただき、大変感謝しています。酔っ払いの戯言に耳を傾けていただくなど、恐縮次第です」

「いやいや、全店を通じても最も大事にすべきお客様のうちのお一人ですわ。今回は面倒なことを頼んでしまいまして」

 裕助は立ち上がって杏を迎えた。杏は裕助の前では腰が低い。裕助も彼女には本当に感謝しているという感じ。杏はエリーゼの隣に座ろうとしたが、クーラーボックスで塞がっているのを見て「床に置いていいか」と訊く。

「中のワイン瓶を取り出してテーブルに置いてください。もうそれしか入っていません」

「説明は終わって、今から飲むところか?」

「そうです。テルサ様、グラスを二つ用意してくださいますか。あなたと社長様の分です」

「ああ、はい」

 輝紗は厨房に行って、グラスを二つ取ってきた。それを自分と裕助の前に置く。エリーゼは「せっかくですから、このコラヴァンを使ってみましょう」と言い、さっき取り出した瓶のコルクに射した。

 ちなみに瓶にはエチケットが付いていて、シャンベルタンの2010年。ロマネ・コンティと同じくブルゴーニュ地方のジュヴレー・シャンベルタン村で作られる特級ワインで、「ブルゴーニュの王」「ナポレオンが愛した銘柄」として知られている。ヴェスタでは1本10万円。

 しかしこれは、輝紗が提供したものではない。後で実費を請求されるのだろうか。心配しつつも、黙ってエリーゼがワインをグラスに注ぐのを見守る。なかなか慣れた手つきだ。ソムリエの大事な資質の一つである“不動の手ステディ・ハンド”で、瓶を大きく揺らさないように持っている。

「どうぞ試飲テイスティングなさってください」

 エリーゼの勧めに従い、グラスを取る。まず色と香りを確認するが、輝紗は不思議なものを感じた。これがシャンベルタンだろうか?

「こ、これは……」

 先に一口飲んだ裕助が、ひどく驚いている。輝紗も一口含む。衝撃的な味だった。

「これは、どういうことや! “完全な球体”! “ビロードを嵌めた鉄の爪”! シャンベルタンなんかやない。これは……まさか……」

 裕助の驚きは、輝紗にもわかる。これはまさしくロマネ・コンティだった。そして新しいヴィンテージでは味わえない、なんとも形容のしがたい深み。嗅ぐたびに次々に現れる、様々な香り。一口飲むだけで感じる、この至福。そして現地の景色が写真のように目に浮かぶ……

「いかがでしょうか。これを試していただいた後なら、ロマネ・コンティ45の味が想像できるのではないですか」

 それを言うエリーゼの得意気な表情も、輝紗は全く気にならなかった。

「想像も何も……これはロマネ・コンティの1945年と違うんかいな! そら、私は初めて飲むけど、そやかて……」

「先ほども申し上げましたとおり」

 エリーゼは裕助の言葉を遮るようにして言った。裕助が黙る。それ以上は話すなと言われたかのよう。

「これが本物のロマネ・コンティ45であることを、私は証明できないのです。ご覧のとおり、シャンベルタンの瓶に入っています。キャップシールが最初から剥がれていて、コルクに傷が少し付いていたのが気になる程度で、他に不審なところは何もありません」

「しかし、そうすると、これはいったいどこから……まさか、蘭堂のカーヴから……」

「それはいくら何でも無理だと思いますが、どう思われますか、アン様」

「ああ、無理だ。現職の刑事である私が保証する。コルクの一つくらいならまだしも、ワイン瓶を盗むなど……」

 二人は否定している。しかし、きっと蘭堂のカーヴから盗み出したに違いないのだ! さっき「視線が教えてくれた」とエリーゼは言った。そこにあった「キャップシールが剥がれていて、コルクに傷が付いていた瓶」がそれなのだ。

 ただ、どうやって家に忍び込んだのか、それは全くわからないが……

「いや……ああ、そういうことなら、ぜひお二人にも飲んでいただいて……」

「いやいや、社長、それは困ります」

 裕助の言葉を、今度は杏が遮った。

「これはあなた方だけで飲むべきなのですよ。別の記念日に、ご家族で。大きなパーティーで他人に振る舞うなど、なさらない方がよろしい。要らぬ嫉妬を招くだけです」

「はあ……」

「それより、エリに依頼料の残りを支払ってやってください。ただ、今回は私が手助けしたので、少しばかり分け前があるらしい。何でしたら現物支給でも構いません。お薦めのワインを1本飲ませていただければ、それで結構」

「アン様、それは私が言うべきことですのに」

「いやいや、お二人にはこれから1年間、この店でワインを飲み放題ということにさせていただくくらいはせんと……」

 裕助は気前のいいことを言っているが、それはさすがにサービスが過ぎるのでは、と輝紗は思った。1年どころか1ヶ月ほどで、二人で店のワインを飲み尽くしてしまうのではないか……


(第13話 終わり)

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