第5章 調査報告 (後編)
「三浦はん、あんた、話が上手やなあ。それに外国人やっちゅうのに難しい日本語もよう知っとって」
エリーゼの話を聞いて、裕助が感嘆の声を漏らす。確かにうまいのだが、輝紗は聞いていて話を作りすぎのような気がしていた。しかしエリーゼは得意気に胸を反らして言う。
「お褒めいただきありがとうございます。友人に素人作家がいて、私の扱った事件を短編小説にしてくれているのですよ。それを読んで日本語の学習をするのです」
「そんな小説があるなら読んでみたいもんや」
「残念ながら非公開です。ほんの何人かの友人にお見せするだけなのです」
「ところで蘭堂は謙虚なところがあると思ったようやけど、それは見せかけなんや。お客様の前ではそういう態度を取るんやが、親しゅうなると何かにつけて偉そうにしよるんやで」
「そうでしたか。しかし私がお会いしたのは二度だけなので、どんな性格でも気にしないのですよ」
「二度ということはもう一度行ったんやな」
「そうです。後でちゃんとお話しします」
「そら、すまん。先走ったつもりはないんや」
裕助はずいぶんエリーゼと打ち解けているようだ。相手の話を一方的に聞いているだけだというのに。
蘭堂に、ヨーロッパ各国のワインについて杏が尋ねる。
日本で最もポピュラーなのはフランスワイン。これは間違いない。輸入される本数が一番多いし、名の知れた銘柄もほとんどはフランスのものである。ボルドーやブルゴーニュという産地名は、ワインに少しでも馴染みのある人なら誰でも知っているだろう。シャンパンはスパークリングワインの代名詞だ。
個々の銘柄を知らなくても、『シャトー○○○』という名前ならワインだと思うに違いない。シャトーはフランス語で城の意味だが、ボルドーではワイン生産者のことを指す。醸造所が城のように大きいためだ。
しかし世界で最もワインを多く生産しているのはイタリアである。そもそもの起源は中東辺りであろう。葡萄自体が、暖かい地方の原産だ。地中海気候で温暖なイタリアでワイン造りが盛んなのは当然と言える。
イタリアの次に多いのが、フランスとスペイン。2位と3位はよく入れ替わるようだ。この3ヶ国だけで、世界の半分のワインを生産している。
イタリアもスペインも料理がおいしい国だ。ワインもおいしくて当然である。日本人はもっとイタリアワインやスペインワインに注目すべきである。
「本当はもっとたくさん話したのですが」とエリーゼが言う。
「調査の内容とは関係ないので、これくらいにしておきましょう。この後、3本のワインを試飲していただきました」
「それは何のために」
「後でちゃんとお話しします」
「三浦はん、あんた、気を持たせる話し方するなあ。面白いからええけど」
「お褒めいただきありがとうございます」
杏が3本のワイン瓶を取り出す。ハーフボトルで、ラベルを剥いで、有名な銘柄のワインを詰めてきたものだ。デカンタしたのと同じで、ちょうど飲み頃になっているはずである。グラスは蘭堂が三つ用意してくれているので、それに注ぐ。
まず1本目はイタリアの赤ワイン。飲んで銘柄を当ててもらおう、という趣向だ。
蘭堂はグラスを傾けて色を見て、鼻を近付けて香りを嗅ぎ、それから少し口に含んだ。
「ふうん、甘味が豊かやな。それでいてタンニンの苦みと果物のような酸味も強く感じられる。これは陰干しした葡萄を使ったんやろう。北イタリアやな。ヴェネト。アレグリーニのアマローネ・デッラ・ヴァルポリチェッラ・クラッシコ。2012年か」
当たっていた。2本目はスペインの赤ワイン。
「ほう、バニラのような甘い香り。厚みのある果実味で、タンニンの苦みも適度や。これはわかりやすい。リオハやな。マルケス・デ・リスカルのティント・レセルバ。2014年」
また当たっていた。3本目は白ワインだが、国名は伏せておく。蘭堂も慎重に色と香りをチェックする。それから口に含む。
「甘口やな。白で甘口と言えばドイツワインなんやが、引っかけか? いやいや、ドイツで合ってるやろ。貴腐葡萄から作られる芳醇な甘味。優雅な酸味。洗練された上品な仕上がりや」
もう一口飲んで、満足げな笑みを浮かべながら蘭堂は言った。
「モーゼル。エゴン・ミュラーのシャルツホーフベルガー・リースリング・アウスレーゼ。2018年」
「お見事でした」
杏が褒めると、蘭堂は控えめながら得意げな笑みを見せた。
「その3本やったら私でも銘柄と年を当てられそうやな。しかし聞いてるだけで飲みとうなるわ」
「あの、お父さん、3本ともこのお店から三浦さんたちに持っていってもらったんだけど、必要経費で落としてもいいかしら?」
「何や、そうやったんか。別に構わへんけど、試飲以外の残った分はどうなったんや?」
「ええと、三浦さん……」
「後で私とアン様でおいしくいただいたのですが、いけなかったでしょうか?」
いずれも高級品で、合計10万円ほどになるのだが(予定の倍だ)、遠慮なく飲んでしまったようだ。依頼料より高く付いている。
「とにかく、蘭堂にええワインを3杯飲ませた。気分ようさせるためやろ。代わりにあいつに何かしてもらおうと」
「さすが社長様、そのとおりでございます。ワイン
杏が頼むと、蘭堂は機嫌のいい顔で「どうぞこちらへ」と言って促す。広い宅内を歩き、階段で地下へ。下りたところに、鍵のかかるドアがあった。鍵は一つしかなく、蘭堂が常に身に付けているらしい。
開けて入ると、蔵と言うより地下牢を思わせる、薄暗い部屋だった。もちろん牢とは違って空調が整っている。ひんやりとしていて湿度も適度。
入り口以外の、三方の壁に棚を設えて、ワインが整然と並べられていた。ざっと1000本ほどか。産地ごとに分けているようだ。薄暗い灯りの中で、エリーゼはフラッシュを焚かずに写真を撮った。
集めたワインは図書館の目録のようにリストが作ってあり、入手した日と値段、飲んだ日が記録されている。それを見ながら、特に高価なものや、思い入れのあるものについて、杏が訊く。ワインの酔いが回ってきたらしく、蘭堂の口が滑らかになって、自慢話が入り始めた。
「ロマネ・コンティ1945年は競り落とせずに、残念でしたね。もし落としていれば、この中でも最高級の1本になったのではないですか」
「いやいや、ええワインが値段で決まるというわけやないんですよ。思い入れというもんが最大の要素です。ドラマ性やね。手に入れるのにどれだけ苦労したかとか、思い出深い出来事につながっているとか、大切な人との記念とか、そういうものが大事なんですわ。このリストを見ているだけでいろいろとよみがえってきて、いつ飲もうかと楽しみになります」
「では一番大事な一品はいつ開ける予定ですか」
「来月の還暦の祝いやね。派手なパーティーを開くつもりはなくて、家族と親しい友人数人だけで、ささやかにやる予定ですわ」
「そのときに開けるのはどれですか?」
「それは秘密や。自慢するつもりもないんですわ」
しかし蘭堂はいかにも自慢気にその一言を言ったのだった。
「……つまりそれを訊くことが目的やったんかいな」
どうやらエリーゼの話はそれで終わりらしいので、裕助が尋ねた。
「そのとおりでございます」
「けど、何もわからんかったと」
「いいえ、ランドー様は何もおっしゃいませんでしたが、視線が代わりに教えてくれました。私もアン様も見逃しませんでしたよ」
「けど、視線で1本が特定できるわけあらへん。だいたいそっちの方にあるということくらいやろ」
「それで十分なのです」
「何のこっちゃ。それで結局……」
「
「警備システム?」
「アン様が女性の魅力を最大限に使って、フルサワ様から聞き出したのです。2週間ほどの間に」
「つまり色仕掛けか。刑事やのに」
「潜入捜査ではよくやるそうですよ。アン様はとてもお上手なのです。扮装も、真面目な生命保険勧誘員から、夜の水商売まで。ただ、本当は大嫌いだそうなのですが」
「とにかく警備システムを調べて、それで?」
「記事の内容を確認してもらうために、もう一度ランドー様のお宅へ行きました。写真を撮り直したいという理由を付けて、私も付いて行きました。その時に、警備システムの情報が正しいかを確認しました」
「確認? 何のために」
「泥棒がワインを盗むことができるかどうか」
「そら、なんぼ何でも無理やろ」
「はい。普通の泥棒では無理というのが私の結論でした」
「そらそやろ。それに、別に何か盗んでくれとは依頼しとらんで」
「ワイン瓶の中身をすり替えた証拠を探せということでしたね。例えばこのような」
エリーゼがクーラーボックスの中から何か取り出してきて、輝紗と裕助の前に置いた。コルク栓だ。古くて変色しているが、文字が焼き込まれていて、かろうじて読める。"DOMAINE DE LA ROMANÉE-CONTI"。
「ロマネ・コンティのコルク栓!?」
「しかも1945て書いてあるで!」
輝紗と裕助はほとんど同時に叫んでいた。裕助がテーブルの上から拾い上げて、エリーゼを見る。
「こ、これはこないだのパーティーの最中に、いつの間にやらなくなったという……」
「間違いないと思いますですよ。日本で他にロマネ・コンティ45があるとは思えませんから」
「これがいったいどこに……」
「ランドー様のワイン
「やっぱりあいつが! となると、すり替えられたロマネ・コンティもそこに……」
「さすがにそれはポケットに入れるわけにはいきませんでした。そもそも、どうやってこの店の
しかしそれについてもエリーゼは自信がありそうだった。
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