第5章 調査報告 (前編)

 探偵を依頼して1週間後の報告は「聞き込みをしました」だった。蘭堂強と黒川将がどういう人物かを聞き回ったらしい。結果は教えてくれなかった。

 翌週は、報告の代わりになぜか雑誌が輝紗に送られてきた。関西で有名な週刊グルメ誌。『バッカス』のオープン記念パーティーの様子が記事になっていた。ただエリーゼから送ってもらわなくても、輝紗のもとには既にその雑誌があった。取材は輝紗が雑誌社に許可したものだし、記事のゲラ刷りもチェックしたし、発売前に見本をもらっていたのである。

 内容はとても好意的なものであり、「関西にワインブームを引き起こすだろう」などと書いてあった。ロマネ・コンティ1945年が特別に振る舞われたことが写真入りで紹介されていたし、裕助に対する短いインタビューも載っていた。これが報告と言われても、輝紗にはどういうことかよくわからなかった。

 ちなみに雑誌社は、エリーゼに紹介した出版社とは別のところ。同じようなグルメ誌を出しているライバルと言っていい。

 3回目の報告は「ランドー様にお話を聞きました」。ようやくか、遅すぎるのでは、という気さえした。しかし、話の内容は聞かせてもらえなかった。

「いつ報告してもらえるのでしょう?」

 電話をかけてきたエリーゼに、輝紗は尋ねた。

「記事になってからです」

「は?」

「雑誌の取材ということにしたのですよ」

「どういうことです?」

「それ以外にランドー様の家に入る方法がなかったのです」

「…………」

 説明になっているようでなっていない。要するに「今は言えない」と言いたいのだろう。

「記事になる頃というと、来週とか再来週とか……」

「いいえ、その次の週でしょう。編集長がそう言っていましたから」

「ではそのときに報告してもらえるのですね?」

「お約束はできません。今わかっているのは、ランドー様が貴重なワインをどこに保管しているかということだけです」

 ますます意味がわからなくなってきた。

「ではどういう状態になったら……」

「もちろん依頼を完了してからですよ。つまりロマネ・コンティをすり替えたという証拠を見つけたときです。とにかくもうしばらくお待ちください」

 次の週の報告は「クロカワ様にお話を聞きました」。

 その次の週は「ランドー様のところにもう一度行ってきました」。

「前に聞いたことを記事にしたので、内容を確認してもらったのですよ。とてもよい記事だと褒めていただきました。これで出版できます」

 エリーゼは得意気に言った。電話越しにあの表情が輝紗の目に浮かぶほど。

「いったいどういう記事なんです?」

「もちろんワインについてです。発売を楽しみにお待ちください」

「いえ、別にそういう記事は読みたくないですが……報告をいつしていただけるのかと」

「来週までに、最後の仕事を実行する予定です。それが成功したら報告いたしますので、成功を祈っていただけますか」

「何をするおつもりなのかわからなくては、祈ることも……」

「それを言ってしまうとちょっと困ったことになるのです。特にアン様が」

「森村さんが? 彼女が何かしてくださってるんですか?」

「いいえ、何もしません。何も知らないことになっているのです。ですから彼女に聞いてはいけませんよ」

 ますます謎だ。何もしない、何も知らないのに、なぜ困るのか。

 とにかく輝紗はもう1週間待つことにした。


 そのじりじりとした1週間が過ぎて、探偵から電話がかかってきた。

「とても時間がかかりましたが、調査が完了しました。報告をいたしますので、テルサ様だけでなく、ロッケン社長様にもお話を聞いていただける場所を用意してくださいますか。ワインを飲むことができる場所がいいのです」

「ではバッカスの梅田本店ではいかがですか」

「大いに結構です。お店が開くのは11時からでしたか。では明日の開店前、9時ではいかがでしょう。それほど早い時間ではないと思います」

「はい、構いません」

「私の他にアン様もお伺いする予定です。ただし彼女は少し遅れてくるかもしれません」

「了解しました。ではお待ちしています」

 そして翌日の朝、輝紗は裕助と共にバッカス梅田本店へ行った。約束の時間より10分も早く着いたが、エリーゼは既に店の前にいた。前に見たときと同じ、グレーのスリーピース。なぜか大きなクーラーボックスを肩に提げている。

「この中に証拠が入っているのです。後でお見せします」

 エリーゼが得意そうな表情で言う。輝紗は彼女を店に招き入れ、席を用意した。エリーゼは隣の椅子の上にクーラーボックスを慎重に置くと、ちょっと気取ったポーズを作りながら言った。

「ロッケン社長様には改めてご挨拶申し上げます。湾岸探偵事務所の所長で調査員の三浦エリことエリーゼ・ミュラーでございます。お名刺をどうぞ!」

 そして滑らかな手つきで名刺を差し出す。裕助は驚いていたが、やがて笑顔になって名刺を受け取った。きっとこの前もこれくらいのテンションで私に自己紹介したかったに違いない、と輝紗は思った。

「ミュラーということはドイツ系かいな」

「そのとおりです。シュトゥットガルト出身でございます」

「日本語もほとんど完璧やな。たいしたもんや」

 裕助は彼女のことを気に入ったらしい。椅子に座り、輝紗から調査依頼の経緯とこれまでの報告について話す。それが終わるとエリーゼの番だが、クーラーボックスの中から雑誌を取り出してきた。

「さて、これがこれまでの調査結果の一部です。ランドー様に取材した記事が載っています。発売前の見本です」

 週刊グルメ誌だった。付箋が付いたページを開くと、『蘭堂強、ワインを語る』という記事があった。写真付きのインタビューのようだ。

「私と一日編集長の二人で取材に行ったのです。私が写真、一日編集長がインタビューという役割で」

「一日編集長?」

「この方です」

 記事の最後のページを開くと写真があって、蘭堂の隣にモデルのように美しい女性が写っていた。輝紗はこの出版社の雑誌編集長を知っているが、中年の男性だったはずである。

「探偵はん、これは……森村はんとちがうんかいな」

「さすがです、社長様。そのとおりですよ」

「えっ!」

 裕助が意外なことを言ったが、エリーゼがそれを肯定したので、輝紗は驚いて写真をもう一度よく見た。長い黒髪を後ろでまとめ、前髪を目の上で真っ直ぐに切り揃え、赤いアンダーリムの眼鏡をかけている。そして落ち着いた感じのスーツ姿。いかにも切れ者の編集長という感じなのだが、よく見ると確かに森村杏だ。

 パーティーの時は眼鏡もかけていなくて、前髪を分けていたし、化粧も濃いめだった。そしてあのドレス。夜と昼で全く印象が異なる女性というのはありがちだが、森村の場合はまるで変装だ。

「一度、店へ感謝状を渡しに行ったときは、もうちょっと粗野な感じやったけど、美人いうのはどんなしとっても美人なんやなあ」

 裕助は妙な感心のしかたをしている。

「本物の編集長と交渉をして、一日だけアン様が編集長を務めるということにして、取材に行ったのです」

 警察や消防署の一日署長なら聞いたことがあるが、雑誌の一日編集長など聞いたこともない。

 それはともかく、森村とエリーゼで蘭堂の家に取材に行ったわけだ。何のために?

「インタビューの内容は調査とあまり関係がありません。しかし一ヶ所だけ。『ワインの味もわからず、教科書どおりの感想を言うくらいしかできないのに、ワインを扱う仕事をしている大物もいる』とおっしゃっていました。これは社長様があのロマネ・コンティをお飲みになった時のことかもしれませんね」

「まあ、あれは言われてもしかたない。あのとき私はあいつを見て、何やにやにやとおかしな笑い方をしよるなあと思っとったんやけど、やっぱり偽物と知っとったんやろうな」

 裕助が腕組みをして、今さらのように言うので、輝紗も申し訳ない気持ちになった。

「あまりお気になさらないでください。今に見返すことができるでしょう。さて、私がランドー様のお宅に行ったのは、彼が貴重なワインをどこに保管しているかを調べるためでした。それは中間報告のときに申し上げたのですが、ここで最初から詳しく説明することにしましょう。たぶん興味深くお聞きいただけると思いますですよ」

 そしてエリーゼは、まるで物語のように話し始めた。


 杏とエリーゼが蘭堂邸に着き、大きな門の前で呼び鈴を押して待っていると。インターホンから「どちら様ですか」と男性の低い声が聞こえてきた。事前に調べてあるが、蘭堂ではなく、古澤という家政である。ただし蘭堂は〝執事〟と呼んでいるらしい。

「千鶴出版の森村杏と申します。本日、蘭堂強様とお約束があって参上しました」

「伺っております。どうぞお入りください」

 門は自動で開いた。杏とエリーゼが入ると、自動で閉まる。長いポーチを歩いて玄関前に行くと、短い髪を七三分けにし、細い銀縁眼鏡をかけた、三十代前半と思われる優男が待っていた。もちろん彼が古澤。

「ようこそいらっしゃいました」と丁重に挨拶され、応接間に通された。しばらく待たされた後で、和服姿の蘭堂が現れた。愛想のいい笑顔を浮かべているが、その視線で瞬間的にこちらを値踏みしたのを、エリーゼは感じていた。さすが客商売。

「初めまして、編集長の森村杏です。こちらはカメラマンの三浦エリです。本日はお忙しいところ、お時間をいただきましてありがとうございます。どうぞよろしく」

「千鶴出版さんにこんな美人の編集長とカメラマンがおるとは、知りませんでしたなあ。カメラの方は外国人ですか」

 杏とエリーゼが立って挨拶すると、蘭堂は鷹揚に挨拶を返し、ソファーに座るよう勧めてきた。向か合って座ると、蘭堂はもう一度こちらを観察している。しかし視線の動き自体は実にさりげない。

 時候の雑談をしてから、蘭堂が経営する料亭の客入りについて森村が尋ねる。本題のワインに入る前の、準備運動のようなものだ。世界的感染症の影響でしばらく客足が落ちていたが、最近は回復傾向が顕著だ、と蘭堂が語る。

 それからワインに興味を持つようになったきっかけを訊く。料亭経営者だけあって、最初はやはり日本酒や焼酎に興味を持ったらしく、経営に携わる前(先代、つまり彼の父が経営していた頃)は日本全国を料理修業がてら飲み歩いていた。さらに、料亭にも外国料理の技法を取り入れようという父の方針で、海外のレストランも巡った。そのときにワインの歴史の長さや品種の多さを改めて知り、深く傾倒するようになった、とのことだった。

 もちろん、実家の潤沢な資産を自由に使わせてもらえる立場だからできたことで、自分な非常に恵まれていた、と蘭堂は語った。意外に謙虚、というのがその時のエリーゼの印象であったらしい。

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