第2章 パーティーにて (後編)
しかし、いくら待っても手は挙がらないし、前に進み出ても来ない。輝紗は舞台の前に集まった客の中に分け入った。もちろん、当選者を舞台へ案内するためだ。
人混みのなかにはおらず、探し回った挙げ句、一番後ろの隅のテーブルにあの二人がいるのを見つけた。輝紗はそこへ小走りに向かった。
「あの、抽選に当たられた方は、前へ……」
「いらん。私はもう飲めない。エリ、お前に権利を譲る。私の代わりに飲んでこい」
椅子にぐったりと身を沈めた美形の女性――森村杏が言った。まるで場末の安酒場でくだを巻いている
「おやおや、本当によろしいのですか。昨日は抽選をあんなに楽しみにしておられましたのに」
「一緒に来てくれるはずの男が来られなくなったんだ。当たったからと言って、一人で楽しめるわけがないだろう。分け合って飲むつもりだったのに……」
「そうはおっしゃっても、他のワインはおいしそうに飲んでおられたではないですか」
「だから飲みすぎたと言ってるんだ。こんな状態では、ロマネ・コンティの1945年だろうが去年のボジョレー・ヌーヴォーだろうが、味の違いもわからない。主催者に失礼というものだ」
「いつもはこの3倍飲んでもお酔いにならないのに、今日はよほど心が沈んでらっしゃるのですかねえ」
会場の隅に二人きりでいる理由はわかったが、とにかく舞台に案内しなければならない。外国人――三浦エリに声をかけると「では慎んでいただくことにいたしましょうか」と外国人らしくないことを言いながら立ち上がり、輝紗に微笑みかけてきた。
念のために、森村杏の招待状の番号を確認する。88番であるのは間違いなかった。
舞台へ三浦エリを連れて行くと、全員の注目を一人で浴びているかのように胸を張って立っている。タキシードのボタンが飛びそうなほど、前がパンパンに膨らんでいた。なぜに彼女はこんなに“自信ありげ”なのだろうか。先ほど「慎んで」と言ったはずなのに、そんな態度でもない……
裕助や他の5人は呆気に取られているが、「ではどうぞお召し上がりください」と輝紗が言うと、貴重なワインを味わう栄誉に浴する幸運を思い出したのか、皆、我に返ったような表情になり、それぞれ目の前のグラスを取り上げた。緊張で明らかに手が震えている人もいる。
まず裕助がグラスを顔に近付け、香りを楽しむ。それから口を付ける。100mL入っているうちの半分ほど。会場内はしんと静まりかえり、客は固唾を呑んで見守る。
「うむ! 確かにロマネ・コンティ。芳醇な味わいや。“完全な球体”とよう言われるとおり、突出した味わいはないが全てが完璧に整っている、という決まり文句にはうなずける。確かに素晴らしい。ではもう一口……」
その言葉どおり、もう一口飲んでため息をつく。それは実は香りを楽しむためでもある。
「ロマネ・コンティを表すには他に“ビロードを嵌めた鉄の爪”というものがあるそうやが、まさにその爪で、口の中から喉、そして胃壁までも撫でられるかのような、鋭さと滑らかさを同時に感じさせる、複雑玄妙な味わいや」
確かに普通のロマネ・コンティは裕助の言ったように表現されるのだが、そんな定型ではなく、もっと自由に表現すべきではないか、と輝紗は考えていた。
それに、もっと香りを表して欲しい。湿った木、枯れ葉、なめし革、藁などのいろいろな表現が(日本人にはとても美味しそうに思えないのが難点だが)あり、嗅ぐたびに次々に現れる香りを表現するのも、テイスティングには欠かせないのだが……
「いやいや、他の皆様、お待たせしました。どうぞお飲みください。そしてぜひ感想をお聞かせいただきたい」
裕助の言葉に、5人が次々に飲み「美味しいです」「素晴らしい」「歴史を感じる」「初めての味だ」「評判どおりのシルキーな飲み心地」など、あまり気の利かない感想を述べた。そして三浦エリに順番が回ってきた。
どこの国の人だか(輝紗は)知らないが、日本人よりもワインを飲み付けていると見えて、ちゃんとグラスのステムの下の方を持っている(ただしロマネ・コンティの古酒はブランデーのように温めた方がよいとも言われる)。
そしてテイスティングの基本としてまず香りを嗅ぎ、それからワインを口に少し含み、息を吸って香りと味を楽しみ、飲み下した。だが、その後の表情は「満足した」とは言えなさそうだ。
「オーララ、これがロマネ・コンティの
会場がざわめく中、三浦エリはグラスを持ったまま舞台を降りると、後ろの隅へ向かった。どうやら連れにも一口飲ませようとしているらしい。
しかし客はちょっと混乱、というか白けてしまっているようなので、何とかしなければならない。輝紗は「やはり古いワインの味の表現は難しいものでして」と話し出した。若手の女性ソムリエとして何度か取材を受けたことがあり、テレビや雑誌で顔が出たこともある。パーティーの間にも何人かから声をかけられた。だから注目してもらえるはずだ。
「瓶にはまだ少しばかり残っていますが、残念ながら飲むことはできません。澱のせいで、ひどい味に決まっているからです。ですが、香りを表現することくらいは……」
そして瓶の口から香りを嗅ぎ、「最初に濃厚な果実、特に柑橘系のみずみずしい香り。それからしっかりした樽の香り、スパイシーさやローストの香り、それにジャムを煮詰めたような甘さ……」
会場の客が、その言葉で香りや味を想像し、白けた雰囲気が緩和されたのがわかった。何とかなった、と輝紗は安心し、裕助を見た。満足そうに頷いている。それから蘭堂の顔が目に入った。しかしなぜか“にやけて”いるように見える。まるで茶番を見ているかのような……
実は輝紗自身も、先ほどの言葉を納得した上で紡ぎ出したのではなかった。本当なら、もっと複雑玄妙な香りを期待していたのだ。抜栓した直後はそうでもなかったが、時間が経てば表れてくるのかと。そして目を閉じるとワインの味を表す“風景”が頭の中に浮かんできて、それを“見ながら”言葉で描写する。それが素晴らしいワインを飲んだときに、輝紗がすることだった。しかし今は違っていた……
こっそりと、会場の後ろに目を移す。森村杏がグラスに口を付けているのはわかったが、満足しているかどうかは定かではない。
しかし今は置いておくほかない。会場からの拍手を受けた後で、輝紗は「では最後にデザートワインをもう一杯だけ皆様に……」と案内する。ハンガリーのトカイ・アスー・エッセンシア2013年を用意してあるのだった。
パーティーが終了し、客が散会した後、会場の片付けの途中で輝紗は控え室に行った。ロマネ・コンティを乗せたワゴンがそこにある。胸に掛けた銀のタートヴァン(ソムリエが持つ試飲用の小皿)に、ほんの少しワインを注ぎ、テイスティングをする。やはり納得がいかない。風景が見えてこない……
「おい、そこのソムリエ」
呆然としていると、後ろから声をかけられた。低いが、女性の声。振り返るとダークブルーのマーメイドドレスが、ドアにもたれ、腕を組みながら輝紗を見つめていた。刑事の森村杏……
「そのワインが、本物のロマネ・コンティ45年というんじゃないだろうな。もしそうなら、私は『バッカス』には行かんし、『ヴェスタ』にも二度と行かんぞ」
「あの……それはどういう意味でしょうか?」
輝紗は訊き返したが、彼女の疑いはもっともだ、とも思った。どうにかしてこのワインを調べ直さなければならない……
「そのワインを調べたい。ほんの少し分けてもらえるか」森村が続けざまに凄んでくる。しかし輝紗と同じことを考えているようだ。
「警察の方だと伺っていますが、科捜研にでも出すのでしょうか?」
「いや、もっと確実な奴に頼む。今から呼ぶ」
森村はどこから取り出したかスマートフォンの画面を見つめている。
「今から? しかし、お分けできる量は……」
「心配するな。小さじ1杯、いや半分もあれば十分だ。澱が入っていようが……もしもし」
返事を聞く前に、森村は電話を架けてしまっていた。
「森村だ。ワインの鑑識を頼みたい。テイスティング。場所はATCのDホール控え室。5分以内に来られるか。よし、わかった」
女性刑事はそれだけ言うと、ドレスの裾を少したくし上げ、膝のすぐ上に留めていたバンドのようなものにスマートフォンを挟み込んだ。あんな持ち歩き方があるものだろうか。
「アン様、お帰りにならないのですか」
戸口に白いタキシードが現れた。三浦エリ。しかし森村は彼女とは目を合わさず、「エリ、お前だけ先に帰っていいぞ」と呟く。
「やはりロマネ・コンティに疑問をお持ちなのですね」
「うむ、それで“一人科捜研”を呼んだ。帰らないなら、奴と久しぶりに話でもするといい」
「ホップラ! アキラ様がお越しになるのですか?
「構わんじゃないか。よく似合ってる。私もドレス姿なんて奴に見せたくないが、背に腹は代えられん。おい、どこへ行く?」
「姿をお見せできませんから、隠れるのです」
「しょうがない奴だな。ところで……ん?」
三浦エリの姿が戸口から消えてから、森村が輝紗の方を見た。ぼんやりとしていた視線が、急速に凝縮する。
「そうか、どこかで見たことがあると思ったら、六軒輝紗だな。近頃評判の」
「はあ、どうも……」
「ムッシュ真崎の弟子だろう。それなのにロマネ・コンティの味もわからないとは呆れたものだ」
「そんな……いくら何でも失礼じゃないですか。突然現れて……」
「ムッシュ真崎なら、出す前にテイスティングしておかしいと気付くに違いない。そして予定変更を六軒社長に提案しただろう。もっとも、壇上に上がった5人は気付かないだろうから、出してしまえということになったかもしれないがな」
輝紗も、テイスティングで納得がいかなかったことを、裕助に言ういうべきだっただろうか。とにかく今は、返す言葉もなかった。
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