第3章 ワイン鑑定(開栓後)

 ドアにノックの音がした。輝紗が振り返ると、戸口に“鑑識”渡利亮が立っていた。ポロシャツにチノパン。この前と、ほぼ同じ姿。違いはポロシャツの色くらい。

「渡利鑑識の……」輝紗は思わず呟いていた。

「おう、来たか。ロマネ・コンティの45年だ。瓶はどうやら本物のようだが、中身は違うと思う。鑑識を頼む」

「刑事さん! 調べるというのは、渡利さんに頼むことだったんですか?」

 輝紗は驚きながら杏に言った。まさか警察が彼を知っているとは。

「ああん? 言わなかったんだったか? まあ、心配するな。渡利鑑識は府警察の外部委託先で、信用度は折り紙付きだ。科捜研より役に立つ。私が保証する」

「でも彼には既に鑑定を依頼して……」

「そうなのか。いや、どこかに手違いがあるに違いない。渡利、遠慮せず入ってこい。ああ、お前は遠慮なんかしないよな」

「呼ばれたから入るのに躊躇しないだけですよ」

 言いながら渡利はワゴンの方へ歩み寄ってきた。そして瓶を一瞥して言う。

「森村巡査部長、これはエチケットを鑑識済みです。そちらの六軒さんの依頼で」

「そうか。ならやはり瓶は本物なんだな。しかし中身を入れ替えることだって可能なはずだろう。ルディ・クルニアワンの例もある」

「キャップシールもコルクも確認しました。問題なしです」

「それはいつだ。昨日か」

「2週間前です」

「なら、その間に入れ替えられるな。まさか監視が付いてて一瞬たりとも目を離さなかったというんじゃあるまい」

「わかりました。やってみましょう」

 渡利はポロシャツの胸ポケットから銀色の皿を取り出した。タートヴァンだった。テイスティングを依頼したので持参したのか。そこへ瓶からワインをほんの僅か注ぐ。そして香りを嗅いだ後で、小指の先に付けて一舐めした。

 サングラス越しに見えている目が、細まったのが輝紗にもわかった。

 それから彼はチノパンの後ろポケットからメモ帳を取り出し、さらさらと何か書いた後で、ページを破り取って輝紗に渡してきた。なぜ杏にではないのか……

 そこに並んでいたのは、フランス語の単語だった。しかし輝紗はすぐに気が付いた。

「これは……まさか、このレシピどおりに作ったワインが、中に入っていたんですか!?」

 ベースとなるワインはヴォーヌ・ロマネ(ロマネ・コンティと同じブルゴーニュ地方のワイン)の2015年で、それに加える十数種類の調味料や香辛料。それでロマネ・コンティ1945年“のような”味のワインができあがるのだろう。何しろ、本物を飲んだことがある人は、世界にほとんどいない。“本物と違う味”だってわかりはしないのだ。

 だがほんの一握りの“ワインをよく知る人”だけは、飲まなくてもその味を正しくことができるだろう。例えば真崎のような。そして渡利も。

 それに杏と、あの外国人、三浦エリもか。

 彼女はテイスティングの後に「サングリアのよう」と言った。サングリアは赤ワインに果汁、甘味料、スパイス、ブランデーなどを加えた“フレーバード・ワイン”と呼ばれる飲料だ。つまりは純粋なワインではなく、混ぜ物があるとわかった……

「断っておきますが、今のテイスティングから分析したのではないです。ヨーロッパのあるエクスパートが過去にフェイクを見破ったときの、いくつかのレシピを事前に教えてもらっていて、その中から選んだだけです」

「そのエクスパートとは……」

海鷲シー・イーグルというコードネームをご存じですか」

「シー・イーグル? あっ、それはつい先週、真崎さんが教えてくれました! 私がフランスへ行ったときに……それにソムリエコンテストでも、参加者の間で話題になっていました」

 ワインに限らず、食品から美術品まであらゆる物を鑑定する遍歴の鑑定士。実際に彼を見たことがあるというソムリエも、数人いた。「彼よりもワインの知識がある人物は、世界に10人といないだろう」というのが一致した意見だった。コードネームしか知られていないが、日本人だという噂もあるらしい。

「……その方とお知り合いだったんですか」

「情報提供を受けられる立場にあります」

「まさか、彼もクルニアワン事件の見破りに関わっていたとか?」

「それは言えません」

「小娘、そのメモを私にも見せろ」

「あっ、失礼しました」

 杏に言われて、輝紗は慌ててメモを差し出した。元はと言えば彼女が依頼した件だ。それにしても、すっかり立場が下になってしまっている、と輝紗は感じた。彼女が警察官だから、というだけではないだろう。疑問に対して妥協した者と、しなかった者の違いだ……

 杏はメモを見て「ふん」と鼻を鳴らしただけだった。

「理解したが、私が持っていてもしかたないものだな。小娘、今後の勉強のためにこれをやろう」

「えっ、あっ……」

「さて、後は入れ替えた方法を調べるだけだが」

「六軒さん、コルクは」

「あっ、はい」

 二人から次々に指示されて、輝紗はあたふたしてばかりだ。慌ててコルク栓を探す。しかし、どこにも見つからなかった。ワゴンの、瓶の横に載せていたはずなのに。会場内で落としたのだろうか……

「でも、コルクやキャップシールには何も異常がなかったはずなんです。この前、鑑定依頼したときのままで……」

「抜栓にはナイフを使いましたか」

「いえ、エアー式です。コルクが破損すると困るので」

 ワインの栓を抜く方法はいくつかあるが、ソムリエは“ソムリエナイフ”を使う。キャップシールを切る刃と、コルク抜くスクリューがセットになったものだ。しかし普通は刃の付いていない、スクリューのみのオープナーが使われることが多いだろう。

 その他に、注射器のような穴の開いた針をコルク栓に刺して瓶内に気体を送り込み、気圧で栓を浮かせる“エアー式オープナー”がある。古いコルクだと、スクリューでは破損してしまうことがあるが、エアー式ならその心配がない。

「……あの、どうしてコルクを調べるんですか」

「抜く前に入れ替えたか調べるためです。念のために伺いますが、抜いた後に入れ替える機会があったんですか」

「半日前にここで抜栓して……」

 今日振る舞うワインは、全てこの控え室に置いていた。輝紗がここにいない間は鍵をかけていた。鍵を持っていたのは輝紗だけ。

 パーティーが始まってからは鍵を開けっぱなしにしていたが。ソムリエやウェイター、ウェイトレスが頻繁に出入りしていた。しかも無人になったことや、誰かが一人きりになったことはないはず。瓶の中身を入れ替えるなどという怪しいことをしていれば、確実に誰かが気付いただろう。

 それに何より、輝紗は抜栓した直後にテイスティングして、違和を感じたのだ。だから抜栓する前に入れ替えられていたことになる……

「コルクがないということは、コルクに異常があるのを知られたくない者が持って行ったということだろう。瓶の中身を入れ替えるより簡単なはずだぞ?」

 杏が言ったが、輝紗もそれを認めるしかないようだ。コルク栓は、ワゴンを会場に運んだときに、盗られたのだろうか。

「わかりました。コルクは探しておきます。でもこの場ではもう何もできません……」

「森村巡査部長、鑑識終了です。ワイン銘柄1種及び出張費で2000円」

「すぐ近くから歩いて来たんだし、出張費を負けておく気はないか」

「警察官なんだからルールは守っていただきましょう」

「領収書をもらおう」

「もちろん」

「いかん、財布を署に置いてきたんだった。明日でいいか」

「即金もルールなんですが」

「小娘、2000円を持っていないか」

「えっ、私が?」

「お前のためにやってやったようなものじゃないか」

「でもバーの更衣室へ財布を取りに行かないと……」

「しかたないな。渡利、少し待て」

 杏はまたスカートの中からスマートフォンを取り出し、かけながら部屋を出て行った。渡利はメモ帳に挟んでいた紙切れを取り出し、何か書いている。領収証か。二分と経たないうちに杏が戻って来て、渡利に2000円を差し出し、領収証を受け取った。

「では失礼します」

「この後、飲む気はないか。エリも呼んでやるぞ」

「飲むのは休みの前の日だけにしています」

「休んだことなんかないじゃないか。それよりなぜエリをほったらかしにする。早く助手に迎えてやれ。見ていてイライラする」

「彼女が来たがらないんですよ」

「条件を付けているんじゃないのか」

「特に何も。彼女が勝手に言ってるだけです。それでは」

 渡利は出て行った。最後の方の会話は、輝紗には訳がわからなかった。

「全く、よくわからん行動をする男だ。五感は全て信用できるというのに」

 森村が呟く。あなただってよくわかりませんよ、と輝紗は言いそうになった。突然乗り込んできて勝手に鑑識を呼ぶなんて。しかも輝紗に鑑識料を出させようと……

「アキラ様はお帰りになりましたですか」

 また白いタキシードが戸口から顔を覗かせた。もちろん三浦エリ。笑顔だが、多少怯えている感じがしないでもない。

「おう、エリ、渡利からなぜ逃げる」

「私はまだアキラ様にお会いする資格がないのですよ」

「奴は来るならいつでも来いと言っていたぞ」

「お優しいのでそうおっしゃるだけなのです。それに甘えて、今の状態で行ったらすぐに愛想を尽かされてしまいます」

「お前もよくわからん女だな。まあいい。今から飲み直そう。事務所を開けられるか」

「私の事務所は禁酒禁煙なのです」

「ではお前のマンション」

「アン様をお迎えできる状態にありません。いつものように女子寮の来客室ではいけないのですか?」

「あそこで飲んでるとただ酒をたかりに来る奴がいて敵わないんだが、まあいいか。行くぞ。小娘、ムッシュ真崎に恥をかかせないよう、ちゃんと勉強しろよ」

 輝紗が何も言い返せないうちに、森村は大股歩きで(マーメイドドレスを着ているとは思えないほどの足捌きで)出て行った。三浦エリは帽子(戻ってきた時から被っていた)を取って胸の前に当て「失礼いたしますです」と言って去った。

 一連の展開は「何だったの、いったい」と言いたくなるくらいの怒濤の流れだった。輝紗は急に疲れを感じてきた。

 それにしても、わからない。抜栓せずに、瓶の中身を入れ替えることなど、できるのだろうか?

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る