第6章 小さな手がかり (前編)

 朝の目覚めが、こんなに心地よかったのは初めてのことだった。アラームが鳴る前に起き、ベッドの上に座って大きく伸びをする。7時5分前。よくよく考えたら9時間以上も寝たのだ。麗羅は思わず苦笑した。

 昨夜はヘトヘトになりながら8時半頃に帰り着いて、シャワーを浴びてからあり合わせの食事を摂って、ベッドに倒れ込んだらそのまま眠ってしまった。

 あまりにも長く寝ると、起き抜けは頭がぼんやりするものだが、それもない。疲れた分だけ、きっちりと睡眠を摂ったということだろう。

 顔を洗い、身支度をして、散歩に出てみた。体力も回復している。朝の光を浴びるのが気持ちいい。山の緑の輝きも、鳥の声も、小川のせせらぎも、全てが身体に活力を与えてくれる。野に咲く花をスマートフォンで撮ってみたが、そんな些細なことが楽しい。世界が一新されたかのようだ。

 家に戻って、音楽を聴きながら朝食を作って、おいしくいただく。昨日の食事が少ない分、たくさん作ったのに、足りないくらいだった。

 あまりにも調子がいいので、9時より15分も前に和室に入る。正座して精神統一していると、創作意欲が身体中にみなぎってくるのが実感できる。昨日、偽書を見たり臨書をしたりしたことが、ちっとも気にならない。むしろ、身体の中の不純物が全て抜けたのではと思うほど。

 そうだ、そういうことなのだ。

 昨日の「あれ」で、心の中の不快感を、きれいに洗い流してしまった。有能な診療士のカウンセリングを受けたかのように。30万円、払った価値があるというものだ。

 筆を取り、張りつめた鋭気を紙の上にほとばしらせる。いつもより出来がいいと感じるのは、気のせいではないだろう。何枚でも傑作が書けそうな気がする。書くごとに気力が高まって、充満した熱情があふれ出す。それはもう、抑えきれないほどに。楽しくてたまらない。

 少し休憩を、と思って時計を見ると、3時間が経過していた。あっという間に感じたが、周りを見れば佳作や秀作が積み上がっている。数日に1点できればと思うような傑作も、いくつか見られる。ほっとしたら、急に疲れが襲ってきた。しかし心地よい疲れ方だ。

 昼にはまだ時間があるので、少し遊んでみる。渡利鑑識の事務所の壁に飾るのに、よさそうな言葉を書いてみよう。うまく書けたら、昨日のお礼にプレゼントしに行きたい。もっとも、お礼だけというのは断られるから、他の名目が必要だけれど……

『和顔愛語』

 色紙などによく書く言葉だが、それがいいと思った。彼の冷たい表情、素っ気ない話し方とは、正反対の言葉。だがその表面からは窺い知れないほどの愛情と優しさが、彼の中には満ちあふれているに違いないのだ。私はそれを知っている、と感じて、麗羅は幸せな気分になり、筆を走らせた。

 しかし、うまく書けない。何枚か書いたが、気に入るものができない。さっき気力を全部使い果たした、というわけでもないだろう。まだあと3時間は書けそうなくらい調子がいい。

 考えているうちに、麗羅は一つの結論に思い至った。彼に見せるものは、彼の前で書きたい。身体がそう願っている。

 困ったことになった、と思ったが、普通の創作には影響がなさそうなので、一人苦笑いするだけで済ますことにした。プレゼントを書くのはいったん諦める。

 午後からは、贋作者のことについて真剣に考える。昨日書いた二つの作を、目の前に並べてみる。こうして眺めると、麗羅が書いたものなのに、麗羅の字ではない。本当に贋作者の筆致を再現できているとして、二つはタイプが違えども凡庸な書で、名のある書家の手蹟には思えない。それでもあるレベルに達しているので、「プロ書家の卵」とでもいうような人が書いたものに似ているのではないか。

 もっとも、書家をプロとアマに分ける基準は曖昧だ。ある段位に達したらプロになれるというものでもない。その個性を少なからぬ人が認めて、書いたものにお金を払ってくれる人がいればプロ、ということになる。

 この二作は、麗羅が第三者の目で見ても、買い手が付かないだろうな、という気がする。そんな書家でも、麗羅の作を真似て偽筆を書くことができるのだから、書の世界というのは危なっかしいものだ。

 とにかく「プロ書家の卵」という線は間違っていない気がする。有名な書家の弟子で、まだ名が知られていない人ではないだろうか。そういう人たちの書を見るには?

 ふと思い付いて、書の雑誌をる。書展が開催されているのではなかったか。思ったとおり、京都文化博物館で府の書道協会展が開かれている。

 京都にはたくさんの書道教室や書道愛好団体があり、個々の会の書展もあれば、協会展のような公募の書展もある。博物館他、いろんな会場で、月に1度や2度は書展が開催されるほど。

 その中で協会展の特徴は、有力な書家の弟子の作が無鑑査で展示されることだ。その展示作に、贋作者の書があるのではないか?

 麗羅の兄弟弟子は、ほとんどが数人から数十人の弟子を持っている。弟子を取っていないのは麗羅の他、数人だ。そして弟子の作は、無鑑査のものが多い。

 さっそく見に行ってみることにする。プロの書家が、アマチュアの書展を見に行くのは別に珍しくない。それに平日の午後だ、関係者しかいないだろう。変装していく必要もない。

 アヴェンダドールは使わず、バスと地下鉄で烏丸御池へ。そこから三条通と高倉通の交差点まで、徒歩5分。その間、誰にも目に留められなかった。この辺りは平日でも人通りの多いところだが、京都人はあまり他人に構わないからだろうか。女子高校生がいれば、また声をかけられたかもしれない。

 博物館の受付係が、麗羅の来場に驚いて立ち上がる。

「まあ! 羽生麗羅せんせ……」

「しーっ!」

 騒がないように頼み、中に入る。予想どおりガラガラで、暇を持て余したような有閑夫人が数人いるばかり。しかも隅の方にある休憩コーナーに固まって座っていて、作品を見に来たのかおしゃべりをしに来たのかわからないくらいだ。が、麗羅の方を見ようとしないから、逆に都合がいいとも言える。

 一般公募の入選候補作も展示されているが、やはり無鑑査の作を見ていく。実力を認められているだけに、レベルの高いものばかりだ。

 種々多様な作を鑑賞するのは楽しいもので、若々しさの溢れる筆致もあれば、老練な「枯れ」の境地に達した墨跡もある。未熟でも将来性を感じるものもあれば、手本にしたくなるようなものもある。稀に、がっかりするような作品もないではない。そして……

 一つの作に、目を奪われる。おおらかで、雄大だが、ただそれだけ。これが無鑑査とは何事か、と注意したくなるくらいだが、問題はそこではない。見覚えのある筆致。麗羅が再現したものと同じだ。

 もちろん、書いてある文字は違う。しかし、麗羅はその情緒を掴んだから、わかるのだ。これが贋作者の文字だと。

 名前を見る。三田みた明日花。憶えておかなければ。パンフレットに印を付ける。大学生だった。

 もう一つの筆蹟を探す。「見る者を力でねじ伏せる」。男性のもののはず……と思っていたのに、見つけたのは女性の筆だった。

 という名。珍しい名字で、聞いたことがあるような気がする。パンフレットを見たら、公務員とある。麗羅も以前は公務員だったから、どこかで一緒に仕事をしたことがあるのかもしれないが、思い出せない。

 贋作者の候補と思われる人を二人も見つけてしまい、他の作を見る心の余裕がなくなった。会場を出て、再び受付に行く。係に頼んで、出展者の名簿を見せてもらい、二人の所属を確かめる。いずれも名槍会所属とある。それは麗羅の兄弟子である、斎所名槍が顧問を務める書道教室だった! 麗羅もそこへ、何度か指導に行ったことがある。

 血の気が引く思いだった。予想のうちとは言え、まさか師・苅田寧山の筆頭弟子が。兄弟弟子の「長男」で、一門のまとめ役とも言える人が、贋作の黒幕なのだろうか。

 麗羅は斎所を尊敬していたが、斎所は事あるごとに麗羅を軽んじ、苦言を呈していた。それも兄弟子故の愛情の裏返しであり、指導の一環だと思っていたのだが……

 だが、斎所なら麗羅の作を容易に手に入れられるだろう。そして弟子の臨書に使うこともできる。三田と撫養が、偽筆を作ると知りながら書いたのか、それとも斎所が勝手に臨書を売ったのか。それは麗羅にはわからない。それでも、疑いがあるのなら、確かめなければならない。たとえ疑いたくなくても。

 いったん家に戻り、アヴェンダドールで繰り出す。京都府警に行って偽筆を返し、垂井刑事に先ほどの発見を話してみた。しかし半信半疑という顔をしている。「人を絞ってくれ」と言っていたはずなのに。

「そうは言うても、羽生先生が勝手にお書きになった筆蹟と似てるからっちゅうんでは、証拠になりませんよ。何か物的証拠がないとねえ」

「それは例えば指紋とか……」

「一応調べますけどなあ。贋作には無数の指紋が付いてたんで、全部採取してありますからね。そやけど、書いた人は手袋しとったやろと思いますんや。今どきの犯罪者は、指紋のことはよう知ってますから。他に何か思い付きませんか。例えば書いた筆が特定できるとか」

「筆の毛が抜けて書に付くことはありますが、普通は失敗作にするものですよ。よほどうまく書けたのなら、毛だけ取り除くこともあるでしょうが」

「他にええ方法があったら教えてもらえますかなあ」

 それを考えるのは警察の仕事ではないかという気が麗羅にはしたが、一応協力することにした。しかし、書の世界では当然ということであれば、麗羅の方が逆に見落としてしまう事柄もあるだろう。やはり第三者の目が必要だ。探偵、ということになるだろうか。

 南港のあの探偵のことを思い出す。彼女は外国人だ。書道と縁遠いだけに、何か気付くことがあるかもしれない。もっとも、知らなすぎて何も思い付かない可能性も高いが。

 それに、南港に行くと考えただけで、気持ちが少し高ぶる。もちろん、そこに「彼」がいるから。麗羅にとって、咲洲は聖地のようになってしまった。用がなくても、日参したいくらいの場所だ。行きたい。今からでも、ぜひ行きたい!


(続く)

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