第5章 偽筆の臨書 (後編)

 では、嫉妬と逆の感情とは? 負の感情の逆だから、もちろん正の感情だ。

 嫉妬から負の感情を除くと、羨望になると言われる。嫉妬が相手を堕とそうと思うのに対し、羨望は自分を高めようと思うことだとか。

 だがここではそれは違う気がする。嫉妬と羨望は矢印の角度が90度違うイメージ。そうではなくて、180度違うものを探さなくては。

 持たざる人が、持つ人を思う気持ち。それが嫉妬。持つ人が、持たざる人が思う気持ち。それは?

 許し、許容。少し違う気がする。負の感情を受け容れてあげられる気持ち。慈悲。あるいはもっと広い心。……寛容? それはいささか広すぎるかもしれない。

 だが他に思い付かないのではしかたない。書いているうちに、わかってくるかも。

 再び紙の上に筆を走らせる。いつもより、広い心で。茫漠として、つかみどころがなくなるほどに感じたが、どうか。

 書き終えて、うまくできたかどうかわからないが、また渡利の方をおずおずと振り返る。最初の姿勢から、微動だにしていない。いいとも悪いとも言わないが、よければきっとそう口にするだろう。書でも、同じだった。師が頷くまで何度でも書き続けた。今回もそうしよう。

 気持ちがたかぶってくる。偽筆の気持ち悪さも忘れてしまった。そちらを見ずに、ひたすらに「寛容な心」で書く。少しずつ変えながら。十枚。二十枚。途中から数えるのをやめた。次第に無心になっていく。それが自分でわかる。

 無心の自分と、それを外から眺めている自分。後者は彼と同じ位置から、前者を見ているかのような。きっと彼が私の魂の一部を抜き取って、横に立たせているのだ。そんな非現実的な、オカルティックな状況を思い描きながら、書き続ける。

「でき……た……?」

 何十枚目か。目の前に、自分とは違う筆跡の書ができあがった。偽筆とも全く違っている。同じなのは書かれた言葉だけ。このオリジナルがあれば、その偽筆と言うべきだろう。そういう作品。

 見たことがあるようで、ないような手蹟。しばらく眺めてから、麗羅はおもむろに右を振り返った。そこにはやはり動かない渡利の姿があった。静かに立ち上がり、歩いてきて、畳の横に立った。

「結構でしょう」

 麗羅は思わず大きくため息をついた。緊張感が一気に解き放たれていく。書と、渡利の顔を、交互に見ながら呟いた。

「これが贋作者の筆跡なんですか」

 もしこれを麗羅の作として発表したら、「新境地を開いた」という評価が付くかもしれない。しかし、自分では気に入らない。何かが足りない。おおらかで、雄大ではあるが、ある意味で凡庸だ。

 何より「羽生麗羅らしさ」がない。それを言葉で説明することはできないが、「私の字ではない」ということだけははっきり言える。そして今後目指すものではないことも。

「完全ではないが、これに近いはずです。特徴が少ないが、出ていることは出ている」

「ええ、私もわかります。生意気な言い方かもしれませんが、その特徴は魅力的ではないですね」

「ところで、もう1点持って来ているようですが」

「…………」

 忘れていた。緊張感を解放してしまった。時計を見る。3時間経っていた。いつの間に、という気がする。家で創作しているときでも、これほど集中力を切らさずに続けることはめったにない。

 おまけに、急に空腹まで感じてしまった。お願いだから、お腹が鳴らないでほしい。恥ずかしいから。

「時間が……あればやりたいのですが。しかし……あと1時間しか……」

「こちらはこの後、予定が入ってない。5時過ぎに、稀に飛び込みの依頼が来ることもあるが、それは断ることができる」

「そ……そういうことなら、このまま続きをやらせてもらえますか。ただ、少し休憩を……」

「洗面所は出て右の奥」

 渡利はそう言って部屋を出て行った。訊きたいことを、先に言ってくれて助かった。

 正座から立ち上がると、足がよろけた。痺れているわけではないし、腕以外に疲れているはずがないのに。集中しすぎて、エネルギーを使い果たしたのだろうか。

 洗面所から戻ってくると、畳の上にミネラルウォーターの瓶が置いてあった。渡利の気遣いがうれしかったが、そういうものを用意しなかった自分にも呆れる。エナジーバーももっと持ってくればよかった。予備を持って来たのは墨汁だけだ。

 水を飲む。炭酸入りだった。爽快感で頭がすっきりする。15分ばかり休憩してから、再び集中力を高めていく。今度は渡利を呼ぶ前に、偽筆の文字を観察する。この気持ち悪さは、何なのか?

 やはり負の感情であることは間違いない。ただ、嫉妬ではない。それははっきりと違う。我慢しながら見続ける。

 拒否のようなものを感じる。拒絶ではなく、拒否。私のことを否定しようとする気持ち。それなのに私の手蹟に似ているのが気持ち悪い。「こんな字くらい、簡単に真似てやる」。そんな感じ。

 そうだ、これは侮りだ。軽蔑。それだけではない、女性に対する軽蔑。してみると、これを書いたのは男性なのだろうか。それはよくわからない。女性が女性を軽蔑することもある。「女性らしくすることを否定する女性」もいるから。

 そんな気持ち、麗羅としては持ちようがないが、そういう気持ちを想像しつつ、1枚だけ書いてみる。なよなよとした、変な字になった。そこにあるのは「か弱さ」だけ。芯が通っていない。「女の腐ったような」という失礼な表現があるが、まさにそれ。

 その逆の気持ちを考える。それはもちろん、「男性に対する尊敬」。思わず笑みを漏らしてしまう。その対象は、すぐそばにいる。

 いや、正確には尊敬でなく「憧憬」かもしれない。それでもいい。男性の作を見て、ああいう力強い字が書きたいと思ったこともある。その気持ちだ。

 電話で渡利を呼んだ。視線を感じるが、なかなか「感応」しない。私が先走って、情緒を変えてしまったからだろう。少し待ってみようか。その間に、残りの紙を数えてみる。40枚を切っている。そんなに書いたのか、と思うが、現に右の奥には反故ほごがうずたかく積み上がっている。今度は「書き散らす」わけにはいかない。慎重に進めよう。

 渡利はまだ「感応」してくれないが、書き始める。8文字の内、3文字目を書いている間に身体が熱くなってきた。「官能」だ。指先が震えて、字が乱れた。構わない。続ける。

 5枚、10枚と書いていく。「感応」が、さほどでもない。彼が、私の情緒を掴もうとしてくれていないのだろうか。それとも、感応しすぎると私が疲れると思って、加減してくれているのだろうか。きっとそうに違いない。現に、思うように筆が動くようになってきた。

 残りが10枚になろうかというところで、それなりのものができた。男性らしい、立派な字だ。力強さを感じる。ただ、「見る者を力でねじ伏せる」という意図が見られる。そんなつもりで書いたのではない。しかし、結果的にそうなってしまった。

 渡利の方を振り返ったが、身動きしない。「見ていただけませんか」と呼び寄せる。

「どう思われますか?」

「まだ情緒を掴みきっていないようにも思うが、性別の差でこれ以上は再現できないのかもしれない」

「ということは、やはりこの偽筆は男性が書いたもの?」

「その可能性が90パーセント」

 残りの10パーセントは、「特に力強い女性」ということだろうか。自分でも、書いたものは何となく力強さが足りない気がする。腕力そのものか、それとも比喩的な「腕力」、言い換えれば「男性性」というものかもしれないが。

「しかし、もうあと10枚で、これを超えるものを書く自信がありません。今日はこれまでにします」

「そうですか」

「合計で何時間になりましたか?」

 6時半だった。それほど時間を使っていないように思ったのに、2時間以上も書いていたのか。休憩時間を抜くと、5時間15分くらいか。鑑識料がいくらになるのか、すぐに計算できない。頭がぼうっとしている。集中力を使いすぎた……

「すいませんが、少し休憩を……それとも、ここはもう閉めますか?」

「9時までは開いています。ゆっくり着替えと片付けをしてください。その時間は鑑識料には含めないのでご心配なく」

「ありがとうございます……」

 渡利が出ていった後で、また水を飲む。炭酸入りでなかったら、一気飲みにしていたかもしれない。着替えのために立とうとしたら、足に力が入らなくなっていた。こんなので、車を運転して帰れるだろうか。

 先に書道具の片付けを済ませ、座ったまま着替える。ようやく立てるまで回復するのに、20分もかかった。しかし、偽筆を連続で見続けたときよりダメージは少ない……

 渡利の部屋へ行って、鑑識料を払った。5時間で、30万円。法外だが、麗羅自身が望んだことだから納得している。むしろ、こんなに濃密な5時間を過ごせたことに、喜びすら感じる。

「5時間も鑑識に集中していたのに、あなたは疲れたように見えませんね」

「そう見えないようにする方法を知っているというだけです」

 渡利はやはり無表情に言った。言い換えれば「やせ我慢」ということだろうか。男らしさの一端を垣間見た気がして、麗羅は密やかな愉悦に浸った。


(続く)

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