第6章 小さな手がかり (後編)

 探偵に電話をして、今からもう一度相談をお願いしたい、と頼む。相談料が必要なら払う、とも言った。アヴェンダドールを飛ばして事務所に行くと、探偵が中途半端な笑顔で出迎えた。この前の自信満々ぶりから少し変わっている。

「ご相談の依頼はもちろん受けますですよ。しかし、解決を依頼されたらどうしようか迷っているのです。私が考えるに、この件は解決策を思い付いても、そのための証拠を集めるのにひたすら時間がかかるからです。理由はおわかりいただけると思いますがね」

「わかりますよ。関係しそうな書を全て集めるとおっしゃっていた、そのことですね。確かにそこは警察か私の仕事でしょう。しかし、解決策はあるのですか?」

 もはや書を集めるという段階ではなくて、容疑者を絞り込んでいるのだが、それは言わない。証拠をどうするかを聞きたいだけだ。それが彼女の言う「解決策」だと思う。

「この前の件の後で、書道のことを少し学習したのです。インターネットの動画などを見て。それで一つ思い付いたことがあるのですが、それが本当に有効なのか、少し自信がないのです。書道を実際にやったことがありませんし、実演を見たこともないですから」

「実演は私がお見せできますが、今は道具がないので……」

「わかっておりますとも。しかし、実演するふりはできるでしょうね。道具がそこにあるとして。エアー書道とでも言いましょうか」

 エアーギターならぬエアー書道! そんなパントマイムもどきをするつもりはなかったが、何か手がかりが得られるのなら良しとしよう。

「いいですよ、やってみましょうか」

「書くだけではないですよ。その前に、何か儀式のようなものがきっとあるでしょう。そこからお願いしますよ」

「儀式……ですか。まず、着替えます」

 麗羅が真剣な顔で言うと、探偵は笑いをこらえたかのような口の形をした。別に、笑われるようなことでないと思うが。

「なるほど、書道用のワフクに着替えるのですね。それから?」

「畳に座って……」

 正座まではしないが、目の前の低いテーブルを畳と思えという感じで、手振りで示す。それから紙を置いて、硯と筆を用意して、墨をって……もちろん、全部その「ふり」をする。それから、筆を持って、墨を湿して、紙に……

「ホップラ! そんなことをしたら、畳に墨の汚れが付いてしまうのではないですか? 紙はとても薄いのですよね? ハンシというのでしたっけ」

 半紙とは紙の大きさのことで、全紙の半分という意味。掛け軸などでは四尺画仙や、それを縦半分に切った半切はんせつという大きさが使われるが、まあ今はどうでもいい。

「忘れていました。紙の下に、毛氈を敷くのです。おっしゃるとおり、紙は薄いですが、毛氈を敷くので畳は汚れません」

「モーセンとは何ですか?」

 書道を全く知らないだけに、そこから説明するのか、と麗羅は戸惑った。この後、紙や筆や墨の材質まで説明するのだろうか。

「毛氈は布です。毛織物です。毛はたぶん羊毛、羊の毛だと思いますが、それを織って……いやそれとも、フェルトのように圧縮加工するんだったかしら。よく憶えてませんが、そういうものです」

「織物か、織物でないかは、とても重要です。どちらですか?」

 なぜそんなことが重要なのだろう? しかし、今さらのように訊かれると、はっきりとわからない。麗羅の方は、「最初からそういうものがある」という前提なので、毛氈の材質など気にしたことがない。気にするのは紙や筆や墨の方だ。しかたなく、スマートフォンを取り出して調べる。

「……織物ではありませんね。不織布です」

「ではやはりフィルツ、失礼、フェルトと同じですね。では、毛が取れることもあるでしょう」

「そうですね」

 書を終えて毛氈をたたむと、畳の上に短い毛が落ちていることがある。もちろん、掃除してしまうが。

「それが紙の裏に付くこともあるのではないですか?」

「……考えたこともないですが、紙を持ち運んだりするうちに、取れてしまうでしょう」

「しかし、裏が墨で濡れていたら、そのままくっついて固まってしまうこともあるのでは?」

「あっ……」

 実際にそうなっているのを、見たことはない。だが、そうなることは容易に想像できる。今まで、全く気にしたことがなかった。紙の裏は、書家にとってさほど重要ではないから。

「すると、偽筆の裏を調べて、毛が付いていれば、贋作者が使った毛氈がわかるかもしれないということですね。うーん……」

 毛氈も書道具屋で売っているし、紙や筆や墨ほどではないが、高段になればいい物を使いたがる人も多い。弾力が筆の滑りに影響を与えるし、墨の吸収力も重要だ。もうすぐプロというレベルの書家なら、お気に入りの毛氈を使っていたりするだろう。

 現に麗羅は、大学の頃から特定のメーカーの嵯峨毛氈を愛用している。しかし贋作者は毛氈まで真似ることはないだろうし……

「……それを調べるには? 科学的な検査が必要ですか?」

「アキラ様か、警察の科捜研ならできるでしょう」

「アキラ様とは……」

「渡利鑑識事務所の所長にして、世界で最も優秀な鑑識人である、渡利アキラ様ですよ」

 もちろん予想どおりだが、探偵が「アキラ様」と言った瞬間、麗羅の胸がキリリと痛んだ。彼女が、私よりも彼に近いことを、いや、より深く敬愛していることを、誇示しているかのように思えた。嫉妬に近い感情を覚える。羨望ではなく、嫉妬……

「とにかく、それが解決策ですか」

「他には、墨の成分を調べることを考えました。墨その物ではなく、墨を溶く水の方です。まさか、あなたと同じ水を使っているのではないでしょうからね。乾いていても、きれいな水に溶かせば、成分は調べられます。しかし、同じ水を見つけても、普通の水道水なら証拠としては弱いでしょうね。その点、モーセンなら同じ物を見つけるのが可能ではないですかね。きっと普段からそれを使っているでしょうから」

「わかりました。それも、あなたが探すのは効率が悪いということですね。警察に頼むのがよさそうです」

「ご理解いただき、ありがとうございます」

 探偵は、ようやく以前の得意そうな表情に戻った。それを見るのが、何となく悔しい。麗羅自身が毛氈に気付かなかったことではない、彼女が何に対して自信を持っているかがわかるからだ。

「何を鑑定できるか」。それはの能力をよく知っているからこそ、導き出すことができたのだ。麗羅は彼の能力を知らなすぎる……

 だが、それについて麗羅がこれ以上の興味を持つことが、許されるのだろうか?

「……相談料をお支払いします」

「まだそれが役立つと決まったわけではないですよ。警察に行って、科捜研でそういうものが鑑識できるかを確認していただいて、ニセを作った人が捕まったら、いただきましょう。値段だけ先に言いましょうか、5千円です。普段なら、前金として受ける金額です」

「お心遣いありがとうございます。しかし、今払いますよ。ただで二度も相談するのは気が引けますから」

 南港には何度も来たいが、ここにもう一度来たいとは思わない。麗羅と彼女の「差」を感じさせられるのが、気に入らないから。なんと心の狭いことかと自身で思うが、それがさがというものではないだろうか?

 相談料を払い、もう一度礼を言って、探偵事務所を辞去した。その足で、臨海署へ行く。本当なら京都府警へ行くべきだが、垂井刑事ののらりくらりした受け答えは、どうも麗羅は苦手だった。同じようなでも、田名瀬刑事の方がまだましに感じる。

 もっといいのは門木刑事で、顔は頼りないのだが言うことは信頼できる。なぜそう思うのかというと、門木刑事がのことをよく知っていそうだからだろう。そして男性は嫉妬の対象にならない。全てはを基準にして、麗羅の得手不得手や好き嫌いが決まってしまう気がする。

 今日は門木刑事がいた。面会して、毛氈のことを相談してみる。

「全部の偽筆の裏に付いてるわけやないやろうけど、20もあったら何個か付いてそうですなあ。京都府警に言うときますわ。ん? 現物があるのは10くらいやったかな? まあそれでも何とかなりますやろ」

「ところで、本当に毛で何かわかるのですか?」

「毛氈のいうたら、高級品では羊毛でしょうな。しかし、同じ羊のが混じってるかどうかより、染料の方が決め手になるんちゃいますか。習字の毛氈は、紺色とか海老茶とかに染めますやろ。その染料を分析して、化学式を出せば、メーカーがわかる」

「なるほど」

「ただ、もっと人を絞りたいて京都府警も言いますやろな。何か他に気付いたことはありまっか?」

「それは垂井刑事には伝えたのですが」

 書展での発見を、門木刑事にも話す。興味深そうに聞いた後で――そう思えるのは門木刑事は相槌の打ち方がうまいからだろう――口を開く。

「そういう女の人は、証拠はあるんやでっちゅうのを匂わせて絞り上げたら、たいていは自白するもんですけどなあ。しかも二人おったら、もう一人は正直に言いよったで、と脅したりとかね。まあ、垂井の尻は叩いときますわ。個人的に、よう知ってるんでね」


 しかし「尻叩き」の効果は1ヶ月経っても現れなかった。要するに、京都府警からは何の連絡もない。麗羅の方から状況を尋ねるのも煩わしいので、ずっと放っておいた。

 放置した理由はもう一つある。新たな偽筆が発見されないこと。だから京都府警に行く機会もない。

 1ヶ月間の、最初の2週間は調子がよかった。その前の好調をずっと維持してる感じ。しかしだんだんと落ちてきた。それは秀作の数にはっきりと表れている。

 理由は麗羅自身でわかっていた。に会いに行けないから。彼のが不足していた。一瞬だけでも見て欲しいのだ。

 依頼で事務所を訪れても、彼が麗羅を見るのはほんの僅かな時間であることはわかっている。1時間かけて行って、面会時間は1分ほど。それ以外のほとんどの時間、彼の視線は偽筆の方に注がれている。

 もちろん、彼の仕事は麗羅を遇することではない。依頼された物を鑑識して、意見を述べること。それはわかっている。彼の視線が依頼者へ注がれるのは、部屋へ迎え入れるときと、見送るとき。それだけだ。

 麗羅はそれだけでもいいと思っている。しかし、今は会いに行く名目もない。この焦燥はいったい何なのだろう? 『夢で逢えたら』という歌があるが、麗羅は彼に会うことではなく、見られることを望んでいるのだ。夢に彼が出てきたって、その視線を感じることなどできないではないか!

 とにかく、もはやじっとしていられない。行動を起こすときだ。だが彼のところへ行くのではない。事件の解決のために動く。

 何をすればいいか。偽筆の裏に付いた毛氈の毛が証拠になるというのなら、贋作者の別の作を入手すればいい。そして付着物を比較する。

 では、贋作者とされる二人の作を入手するには?


(続く)

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