第3章 次の鑑定 (後編)

 渡利の言うことを聞いて、もちろん麗羅は驚いた。そうすると彼はあの時、手の動きだけではなく、私の情緒……精神状態まで理解しようとしたということか。

 いやいや! 理解どころか、私の心の中まで入り込んできたではないか。

 もちろん、物理的な接触ではないし、「入り込んできた」というのも麗羅が「そう感じた」というだけに過ぎない。「魂の接触があった」なんて言い出したらオカルトだ。しかし、彼には何かがある……

「そこのところを、もう少し聞かせてもらえませんか。本来の、鑑定から離れてしまって申し訳ありませんが」

「鑑識の手法を説明するのは別に構いませんが、おそらく理解できないでしょう」

「なぜです?」

「美を有限の言葉で定義するのはほぼ不可能だからです」

 それを言われると話が終わってしまう。しかし、麗羅はあの時のことが何だったかを知りたいのだ。

「では、私の話を聞いていただけませんか」

「鑑識とは関係ない話ですか」

「いえ、あなたの鑑定の手法とは関係があります」

「こちらが結論を示さなくていいのなら」

「結構ですとも」

 麗羅はあの時のこと、つまり「運筆を見られているときに、心の中を覗かれているような気がした」ことを話した。渡利は無表情に聞いている。

「……つまり、あなたが『理解するよう努めた』というのは、私の感情に……ええと、何と言ったらいいでしょう。そうだ、シンクロしようとしたというか、そういうことではないですか?」

「シンクロは同期。タイミングを合わせることだから、少し違う。敢えて言うなら同調です。チューニング。あるいはカンノウ。感情に応じると書く『感応』。本来は仏と衆生の心が通じ合うことですが、広義では人と心を通じ合わせることで、そちらの意味が近い」

「そ、それです! きっと、あなたと私の心が感応したせいで、私は心を掴まれているように感じたんです」

 カンノウと聞いて「官能」を想像してしまい、一瞬ドキリとしたのだが、まさしくあれは「官能」的な「感応」だった。そういえば、テレパシーのことを「精神感応」というのではなかったか?

「気のせいですね」

 渡利は冷たく言った。しかし、さっきの説明で、麗羅は独り勝手に得心した。それにしても、心を見られることが嫌でないのはなぜだろう。そうだ、書に関してのみだからだ。

 麗羅自身は、書を通じて自分の心を他人ひとに伝えたいと思っている。もちろん、完全に通じ合える人はほとんどいないだろうけれど、その一端を理解してくれる人が、麗羅の書を求めてくれるのだ。

 そこを渡利は、書という媒介物なしに、書をする姿だけで麗羅の心をしてくれる。それこそ理想ではないか。

「気のせいでも何でもいいです。私の書の心が、あなたに伝わることがわかったので、それだけでうれしい。あなたになら、安心して私の書の鑑定をお願いできます。これからもお願いして構いませんか?」

「ここへ持ち込むのが基本です。出張は点数が多いときだけです」

「もちろん、そうします! よろしくお願いします」

 麗羅は頭を下げて、帰るために腰を浮かせかけたが、肝心なことを一つ思い出した。贋作者の捜査についてだ。警察は言っていなかったが、偽筆からそれを書いた人を割り出すことはできないだろうか? 麗羅にはできないけれど、渡利ならできるかもしれない。それを訊いてみた。

「できる可能性は高い。ただ、今のところ、他の書家の作を見て、贋作者と思えるものはない」

「すると書家ではなく、プロの贋作家ということですか?」

「プロかアマかは不明ですが、書の心得がある者には違いない。それと、この偽筆は臨書と思われる形跡がいくつか見られる」

 臨書とは、手本を見ながら書くこと。普通は、古典作品を見ながら書く。形臨、意臨、背臨の3種類があり、形臨はとにかく手本を忠実に真似ること。意臨は書き手の意図や精神をも考慮し、模倣すること。背臨は手本を記憶した後、見ずに書くこと。今回のは意臨ということになるだろうか。

「すると、私の書の本物かコピーを見ながら書いたということですか?」

「そう」

「それなら書のうまい人なら誰でもできそうな……」

「いや、コピーだとしても等倍でないと認識できないような、細かい点まで真似ている。それができるのは書画骨董の関係者に限られているでしょう」

「なるほど……」

 レンタル品ではないのだから、一般人が簡単にコピーを取れるはずがない。画廊や骨董屋で展示していても、客に写真を撮らせることは普通しない。そうすると、そういう店に懇意のものが、好意で貸してもらったり、写しを取らせてもらったり、ということになるわけだ。

 それでもかなり範囲が広いのは否めないが……

「他にわかることはありますか?」

「それは当初の鑑識とは別の依頼になります」

「ええ、それでも構いません」

「残念ながらわかるのは一点だけです。これを書いた者は、あなたの作を忠実に真似たが、情緒までは掴みきれなかった。何の役にも立たない鑑識です。料金を取るに値しない」

「わかりました。それでも参考になります。ありがとうございました」

「鑑識料は千円です」

 麗羅が千円札を差し出すと、領収書が返ってきた。但し書きは「墨書真贋鑑識料として」。

 事務所を出て、地下鉄、JR、地下鉄、バスと乗り継いで帰った。不思議なことにまた女子高校生から声をかけられて、握手を求められた。

 次からは車で行こうと麗羅は思った。女子高校生が嫌なのではない、時間がかかるのが嫌なだけだ……


 偽筆は、翌日に京都府警へ持っていった。垂井刑事は礼を言ってくれたが、捜査の進捗を訊くと「もう少しかかります」だった。たぶん、少ししか進んでいないのだろうなと麗羅は思った。さほどの事件とは考えられていないのに違いない。損をしているのが麗羅なら強く言いたいところだが、そうでないから警察ものんびりしているのだろう。

 しかしその週、他の生活は普段どおりになってきた。毎日創作を続け、ときどき骨董商と会い、まれに新聞や雑誌の記者の訪問を受ける。書の方は、気に入ったものを二点、創ることができた。次の週にまた一つ偽筆の相談を受け、鑑識事務所へ持っていった。

 翌週も同じような生活をした。だいぶ調子が上がってきた、という気がした。

 更にその翌週、偽筆を受け取ったのが遅い時間だったので、翌日に鑑識事務所へ行くことにした。昼一番で、アヴェンダドールを走らせた。南港へ行く日は、なぜか少しドキドキする。悪い感じではく、好ましい胸の高鳴りだ。

 いつも声しか聞いていなかった受付の女性と初めて対面した。どこにでもいそうな中年婦人だ。「ほんまもんの羽生先生やわ!」と喜んでいる。

 握手を求めてくるかと思ったら「お手を傷付けはりませんように」と言いながら受付票を渡してきた。紙で指先を切ることもあるからだろう。意外に細かい心遣いを受けて、素直に「ありがとうございます」と礼を言った。

 4階の事務室に入り、さりげなく中を見回す。見慣れてきたのが、なぜかうれしい。オフホワイトの壁に、光を柔らかく受け止めるグレーのカーペット。デスクと書棚と応接セットという、最低限の調度。わびさびに通じるシンプルさだ。

 麗羅の住居も、シンプルを基本としている。ただし、仕事部屋は和室で、寝室は洋室。同じようにシンプルでも、和洋で少しばかり変化を付ける方が、気持ちの切り替えにいいからだ。この部屋もいい。ここで書をするのも悪くない気がする……

 共通点を見出した。装飾の少ない部屋は、集中力を高めるのに適している。余計なものが多いと気が散る。麗羅は書に、渡利は鑑識に集中するためだ。

 いつものように、渡利の鑑定はほんの5秒ほどで終わってしまう。茶道で、亭主が客に茶を振る舞うときに似ている。亭主は時間をかけて準備するが、客が茶を飲むのはあっという間だ。もちろんここでは、麗羅が「客」で、その客が振る舞うのが「偽筆」という、正反対のものばかりだが。

 とにかく、せっかく1時間かけて来ても、すぐに鑑識が終わってしまうのが残念でならない。もう少しここに居たい気がする。何をするでもなく、ただ居たいというだけ。なぜそう思うのかもわからない。


 鑑識事務所を出て1階に下りると、受付の婦人から「ご利用ありがとうございました」と声をかけられた。

「本物でしたか?」

「いえ、偽筆……偽物でした」

「あら、まあ、そうですのん。うれしそうなお顔してはるから、今日のは本物やったんかと思いましたんよ。失礼しました」

「いえ、お気になさらず……」

 答えながら、麗羅は愕然とした。笑顔になっていたのは、ここに来て渡利に会えたからだ。しかし、偽筆を持ってくるのをうれしいと思うなんて、間違っている!

 なるべく笑顔を崩さないようにして外へ出たが、車を停めたところへ向かって歩きながら、猛省した。

 私はどうしてそんな間違った考えを持ったのだろう。彼に……鑑定家に会いに来ることが、目的化していた。そういえばこの頃は、もっとたくさん偽筆が見つかればいいのに、と思い始めていた。目的と手段を取り違えている。

 捜査が進展しないことは、関係しているだろう。偽筆は新たに見つかるけれど、それが贋作者を絞り込むための、材料になっていないからだ。それ自体は麗羅のせいではない。しかし、麗羅自身で他にできることはないだろうか? 警察がやりにくいようなことを、麗羅か、あるいはその代理人でできないだろうか?

 代理人……渡利が何かしてくれればと思うが、彼は真贋を見極めることができるけれども、それ以上はしない立場の人間だ。では、他に代理人はいないだろうか。それは一般には、探偵と呼ばれる人ではないか。

 なら、探偵に頼んでみよう、と麗羅は思った。京都に帰ったら、探偵事務所を探してみる。もちろん、依頼者の秘密は守ってくれるだろう。たとえ麗羅のような有名人でも。

 しかし、その前に警察の状況をもっと詳しく知りたい。京都府警の垂井刑事に訊くべきだが、どうも最近、麗羅のことを避けている気がする。捜査が進展していないので顔を合わせにくいのか、それとも捜査をすること自体が嫌なのか……


(続く)

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