第3章 次の鑑定 (前編)
翌日の麗羅の寝覚めは、あまりよくなかった。しかし、今日は創作をすることにしている。約十日ぶりだ。気分が乗らないから、今日はしないでおこう……というわけにはいかない。気分を自分で作り上げなければならない。それを何日か続けることでだんだん盛り上がってきて、満足のいくものを書き上げることができるからだ。
起きる時間はきちんと決めているが、その後は顔を洗うこと以外、特に順序は決めていない。すぐに朝食にすることもあるし、天気のいい日は散歩することもある。寝間着から着替えもせずに音楽を聴くこともある。しないのは二度寝だけ。
しかし、9時になるまでに他のことを全て終わらせる。余計な邪魔が入らないよう、固定電話は受話器を外し、携帯電話は電源を切る。京都の北の山裾なので、それ以外の人工の音はめったなことで聞こえてこない。自然の音は、そのままに楽しむ。
9時になったら作務衣に着替え、和室で正座をして精神統一。墨を
もちろん、一度で満足するものができるはずもなく、何度となく繰り返す。2時間から3時間。改心作ができることもあるし、本望を遂げぬまま筆を置くこともある。今日は後者だった。偽筆のことが頭の片隅に残っているせいだろうか。
ともかくも昼食にする。もちろん自分で用意する。満足したときは調理の手も軽くなるが、そうでないときは箸裁きまで自由にならない気がする。ただ、どちらにしても味はたいしたことがないのは、自分でもわかっている……
午後からは、基本的に自由時間。家の中で静かに読書をすることもあれば、着替えて買い物に行くこともある。しかしその日は、骨董商から電話がかかってきた。今のように名が売れるより前に、何点か作品を扱ってくれたところだ。
たぶん、偽筆のことだろうと思ったら、そうだった。気になっているものがあるので、今から持って行ったら見てもらえるか、という相談。やけに遠慮がちだ。
「今は営業時間中でしょう。私の方から伺いますよ」
「そんな、先生、お忙しいのに……」
「ご心配なく、ちょうどお店の近くに用があるんですよ」
もちろん用などなくて、相手に対する気遣いだ。むしろ、偽筆があるのなら早く手に入れたいと思っていた。
時間を決め、いつもよりは少し目立たない服――といってもスーツは同じでインナーを白にするくらいだが――に着替えて、バス停まで歩いてバスに乗った。画廊は京都の街中にあるので、そんなところにあの目立つアヴェンダドールを停めるわけにはいかない。
本屋で少し時間を潰してから画廊へ行く。気が弱そうな老年の店主が、恐縮しながら出迎えてくれた。裏の倉庫兼事務スペースへ招じ入れられ、余計な時候の挨拶を聞いてから、書を見せられた。掛け軸になっていた。店主の奥さんがお茶を運んできてくれたので、また長々と挨拶する。
3点のうち、1点だけが偽筆だった。見ると嫌な気分になるので間違いない。しかし、顔には出さないように耐えた。何とかならないものだろうか。
証明書では3年ほど前の作となっていて、紙も墨痕もそれくらいの年月を経ているようだ。少なくとも、最近作られた偽筆ではない。
小さな画廊が詐欺に遭うと経営が苦しくなるだろうから、買い取ってあげようかと麗羅は考えていたのだが、いざとなると少し迷う。被害が全体でいくらくらいになるのか、まだわからないから、あまり気軽にお金を出すこともできないし……
「これを調べたいので、少し預からせてもらえますか。もちろん、預かり証は書きますし、こちらのお店の損になるようなことはしません。そうだ、代わりの作品を一つ提供しましょう。先日の個展でも展示して、それでも買い手が付かなかったものなので、売れないかもしれませんが」
もしかしたら例の鑑識事務所へ偽筆を持っていくことになるかもしれない、と思い、比較用として、出がけに2、3点、車に積み込んだものがあるのだった。
「そんな、先生、そこまでしてくれはらんでも……偽物を買い取ってしもうたんはこっちの責任やのに……」
「まあ、そうおっしゃらずに。それに今後、私の作品を買い取る前には、遠慮なく鑑定を依頼して下さい」
平身低頭する店主に預かり証と代品を渡し、店を出た。鑑識事務所は何時まで開いているのだろう。まだ4時にもならないが、大阪南港まで行くのは1時間ほどかかるだろうし、念のために電話してみることにした。この前の中年女性の声がした。
「あらまあ! 羽生先生ですか。先日はご利用ありがとうございました。本日はどのようなご用件でしょうか?」
鑑識に決まっているのに、と思ったが、よく考えたら相手は法律事務所と同居しているのだ。詐欺の件なら法律事務所への相談になるかもしれないし、「どのようなご用件」と訊いてくるのは正しい。
「鑑定の依頼です。先日のように、私の書です。偽筆と思われるので、確認していただきたくて」
「はい、墨書ですね。何点でしょうか?」
墨書、という言い方を、久しぶりに麗羅は聞いた。なぜか耳に新鮮に響く。相手はいろんなものを鑑識しているらしいから、判別しやすいように「書」ではなく「墨書」としているのだろう。
1点、持ち込みで、本日、と相手の質問に従って答えていく。時間は、と訊かれたところで麗羅の方から訊き返す。
「そちら、何時まで開いているんですか?」
「基本は
車なら南港まで1時間足らずで行けることはわかっているのだが、あいにくここまではバスで来てしまった。鉄道でどれくらいかかるのかが、全く読めない。
時間は後で連絡することにしていいか、と言うと、「5時から7時の間にしときますんで、それより遅うなりそうなら5時までにお電話ください」と返ってきた。
地下鉄、JR、地下鉄と乗り継いで、南港へ向かう。その間、なぜかどこでも女子高校生から声をかけられて、握手をした。個展には女子高校生など来なかったように思うが、なぜだろうか。
ともかくコスモスクエア駅に着いて、スマートフォンで検索した道に従い、事務所ビルへ向かう。すぐ近く、しかも一直線だったので、迷うことはなかった。
5時45分。思っていたよりもかかった。「南港共同法律事務所」の受付には、誰もいなかった。どうしたものかと思ったが、「渡利鑑識事務所は4F」と書いたプレートがあるのを見つけて、エレベーターに乗った。
下りたところの目の前にある部屋のドアは開いていた。ドアの内側に、例の鑑定家が立っていた。先週見たように、無表情で。麗羅が来るのを、そこでずっと待っていたのだろうか。いや、きっとエレベーターが動いたのを見て、席を立ったのだろう……
「鑑定を申し込んでいた羽生です。よろしくお願いします」
麗羅は自然に頭を下げた。依頼に来たとは言え、相手は年下で、威厳があるわけでもない。むしろ、威厳や権威なんかに頭を下げない。彼に頭を下げたのは心の中まで知られてしまっているからだ、と麗羅は思った。
話をしたわけでもない、単に書いているところを見せただけなのに、それでも「心を覗かれた」と実感してしまったからだ。他人にも、それどころか自分自身にも説明がつかないことだが……
部屋に入り、ソファーを勧められて座った。目の前には書きかけの依頼書が置いてあった。記入されているのは日付と名前と依頼内容「墨書真贋鑑定」だけ。その横に名刺が添えてある。麗羅は持って来た書――が入った紙バッグ――をテーブルの上に置いてから訊いた。
「住所や電話番号を書かなければいけないのですか?」
「任意です。今記載してある項目だけが必須。その他は書きたくないというのでも結構」
「いえ、書きます」
彼を専属の鑑定人にしたいと思っているのだから、麗羅自身の情報を開示するのは当然だと思った。住所と電話番号を書く。固定も携帯も。職業は生年月日や性別は……書く欄がなかった。なぜか、彼の歳を聞いてみたい気がしたが、やめておく。
「さっそく、見ていただけますか?」
依頼書の上下を反転させ、渡利の方にそっと差し出しながら訊く。
「どうぞ」
紙バッグから桐箱を二つ取り出す。一つは真筆。「これは参考用です。必要であれば見てください」と言って横へ避ける。もう一つが、今日受け取ったばかりの偽筆だ。
渡利は白い手袋をはめると、箱を開け、中から掛け軸を取り出して、無造作とも思える手つきで、しかし滑らかに広げた。
「偽筆ですね」
全体を見たのはほんの3、4秒だった。
「私も自分でそう思ったんですが、確認のために持って来たんです。お手間を取らせて申し訳ありません」
そういう言葉がすらすらと出てくるのが、麗羅自身でも不思議だった。卑屈になっているのではない。彼を心から信頼しているからだと思う。おかしなことだ。今日会ったのが2回目、しかも前回は5分ほどしか一緒にいなかったのに!
「お気遣いなく。こちらはこれが仕事ですから」
「一つお訊きしていいですか?」
「どうぞ」
「私の書の真贋を見分けるポイントは何なのでしょう? 私自身は、見て、書いた当時の記憶が呼び起こせるものが真筆、気分が悪くなると偽筆なんです。あなたの場合は、いったい何を基準に?」
「同じです」
「は?」
しかし、真筆はもちろん彼が書いたのではない。ならば、記憶を呼び起こせるはずがないではないか。偽筆を見て、麗羅自身と同様に気分が悪くなるというのは、まだ何となくわかる気もするが……
「あなたの真筆を何点か見て、あなたがどういう情緒で書に望んでいるかを理解するよう努めました。先日は運筆を見せていただいた。そうして書を見て、あなたが書いている姿が想像できれば真筆、できなければ偽筆です。特に偽筆は、見ていると気分が悪くなりますね、不思議と。他の書で、そういうことはあまりない」
(続く)
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