第1章 真筆と偽筆 (後編)
驚く麗羅に、そのベテラン骨董商は自信ありげに言った。
「書だけやのうで、書画骨董、何でも見れる仕事人なんですわ。羽生先生のお師匠はんの
「そうですか。しかし、その人だけに任せるわけには……」
「そやから、まずその男に真贋の一次選別をしてもらう、その後で羽生先生に確認してもらう。そういう手順でやった方が、きっと早い思いますんや。それに、羽生先生のご気分が悪うなるのも避けられると……」
果たして、そんなことをしてもいいものかどうか、麗羅には判断が付かなかった。しかし、さっきから30分も経っているのに、まだ気分が晴れない。このまま続けていたら、15分見るごとに30分の休憩、などというとんでもないことになってしまう。
それに見るのは会場内の作品だけではない。別室に置かれた、20点ばかりの予備の作品も見ないといけないのだ。全部を1時間程度で終わらせ、その後入れ替えスケジュールの相談をするつもりだったのに、予定の3倍以上かかってしまいそうだ。
だが、迷っているよりもやってみる方が早いと判断したのか、ベテラン骨董商はさっさと電話をかけて話し始めた。「渡利鑑識事務所」という言葉が聞こえた。鑑定家ではなく、鑑識なのだろうか。それもよくわからない。
徒歩5分というのは大袈裟だったらしく、10分ほどして、若い男が来た。見たところ、20代だろう。麗羅よりもきっと若い。白いポロシャツにベージュのチノパンという、とても鑑定家とは思えない風貌だ。薄い色のサングラスをかけていて、笑顔もない。麗羅に挨拶すらしなかった。
そしていつの間にやら、ベテラン骨董商が筆と紙の用意をしていた。ここで字を書くところを見せて欲しいと麗羅に言う。
「どういうことです? 私の書を見たことがない人に、鑑定させるんですか? それに、今はとても書く気分じゃないし……」
「いえいえ、渡利はんはあなたの書の鑑定ができると自信を持ってはります。しかし、万全を期すために、あなたが書いているところを見たいと。それで運筆を目に焼き付けて、鑑定の参考にすると」
そこまで説明されても、麗羅には何が何だかわからなかった。それに、何を書けばいいというのか。
「お名前を……」
小学校の書道の授業のように、普通の半紙に名前を書けと!
「字の出来は問題やないそうです。とにかく、書くところを彼に見せていただければ」
「わかりました。やってみます」
これ以上議論するのは、時間がもったいない。名前なんて、1分もあれば書ける。それに、だいぶ気分も治ってきた。やって見せて、無駄ならそれでもいい。
麗羅はジャケットを脱ぐと、筆を持ち、墨で湿した。どちらもあり合わせだが、構いはしない。そして半紙を目の前にして、背筋を伸ばし、大きく息をつく。
たかが名前を書くだけでも、精神統一は必要だ。いや、名前こそ疎かにするべからず。全ての基本と麗羅は思っている。普段は畳に正座して書くが、椅子に座っていても、立っていても、書くときにすることは同じ。
左手を紙の隅に添え、右手で筆を構える。右の後ろから視線を感じた。そこに渡利という男が立っているのはわかっていた。運筆を見るためには、その位置がいい。師も同じようにして見ていた。しかし……
姿勢を整えて、いざ書こうとした瞬間、全身を不思議な感覚が襲ってきた。
(何なの、これは……)
一瞬、金縛りに遭ったかのように、身体が動かなくなった。見えない手が身体の中に入ってきて、心を鷲掴みにしているかのような……今までに体験したことのない、不思議な感覚。しかし、なぜか不快ではない。
すぐに心が高揚してきた。集中力が高まっているときに感じる
心臓がドキドキする音が、自分で聞こえた。昂奮しているのに、とても気持ちいい。まるで、ある種の快楽を感じている時のようだ。
だが、手は滑らかに動き始めた。手が、いや、腕が筆と一体化したかのようだ。勢いよく、一気に書き上げる。本当に久しぶりに、自分の名前を大きく半紙に書いた。たぶん、小学校以来……
書き終わっても、まだ心は高揚していた。満足のいく出来だった。名前を書くのに満足するなんて、何年ぶりだろうか! 思わず安堵の息をついてしまった。
「書けましたが……」
麗羅は筆を持ったまま、右後ろを振り返ったが、そこに鑑定家の姿はなかった。慌てて辺りを見回す。
「すぐにお作を見てくると言うて、会場へ行かはりました」
ベテラン骨董商が代わりに言った。
「私も一緒に見に行った方がいいでしょうか?」
麗羅は腰を浮かせながら訊いた。
「いいえ、先生はまだ待っといてください。彼が選別してますから、その後で見に行かはった方がええ思います」
「はあ……」
言われたとおり、麗羅は座って待つことにしたが、実際はもう立って歩き回れるほど気分が回復していた。それどころか、さっきの気持ちのいいドキドキが治まらない。気が付くと、ブラウスの脇にしっとりを汗を掻いていた。見られるのが恥ずかしくて、慌ててジャケットを着た。まだ昂奮して身体が熱いのに。
どれくらい待つのか、と思っていたら、5分ほどして会場の中がざわつき始めた。ガタゴトと音がする。書を展示台から外しているのだろうか。そしてもう5分ほど経ったら、誰かが控え室に入ってきて「終わりました」と言った。
「えっ、もう終わったんですか?」
麗羅が見たときは、最初の20点弱に20分以上かかったはずだ。1点に1分。自分の書でもそれくらいは見る。しかし渡利という鑑定家は60点を10分。1点10秒。いや、移動の時間もあるから実際はもっと短いだろう。果たしてそれで本当にわかるのか……
「羽生先生、見に行きましょう。渡利はんがバッテンを付けた作品は外してるので、いや、まだ外してる途中のもありますが、それさえ見はらへんかったら、ご気分が悪くなることはないはずですから……」
「はあ……」
「渡利はんは別室の方も見に行ってます。それで、よろしければ、彼がバッテンを付けた作品を、後でまとめて見ていただけますか。もし彼が間違って真筆にバッテンを付けてたら大変ですから」
「わかりました」
麗羅はしっかりした足取りで会場に戻った。既に見たものは飛ばした。その他のものを見ていると、最初と同じように、書いた当時のことをはっきりと思い出した。
一部の作品――それは展示の目玉になっているものだが――を除いて、古い順に並べてあるので、次々に見ていくと、まるで過去からの記憶をたどっているかのように楽しかった。気分が悪くなる作品は一つもなかった。
別室の作品も同じだった。そして「バッテン」、つまり鑑定家が偽筆と鑑定したものだけが、後で控え室に集められた。気分が悪くなることに備えて、椅子に座ってそれらを見る。どれを見ても嫌な気分がした。10秒と見ていられない。
真筆だと思えるものはなかった。つまり渡利という鑑定家は、一つの間違いもなく麗羅の真筆と偽筆を見抜いたのだ。
偽筆は全部で15点もあった。パンフレット等に写真が載った「目玉作品」に偽筆がなかったのは幸いだ。会場内を全て真筆にすることは可能だったが、代替作を持って来た方がいいだろうと麗羅は思った。ある程度は入れ替えないと、客足が伸びないのはわかっていたから。
「鑑定家の……渡利さんでしたか。彼はどこですか?」
落ち着いてから、麗羅は骨董商に訊いた。別室から控え室に戻ってきたときには、もう姿がなかったように思う。
「彼はもう事務所に戻りましたよ。次の仕事が入ってると言うて」
「戻った? でも、鑑定していただいたお礼をしたいし……そう、それに鑑定料は? 払わなければいけないんでしょう?」
「それは……偽筆が混じっとったのは、我々にも責任があるんで、こっちで頭割りで」
主催者と、骨董商4人で割り勘にしたらしい。麗羅は驚き、飛び上がるようにして立った。気分が悪いのを無理矢理我慢して。
「でも、本来は私が全部確認しなければいけなかったんです! だから、私に払わせてください。皆さんには大変なご迷惑をおかけしましたし……」
「いや、そうは言われても……」
また押し問答になったが、今度は麗羅の強い気持ちが
「それから、彼の事務所を教えていただけますか? 私からお礼を言ってませんでした。ぜひ言いたいんです」
「いえ、羽生先生、その前に……」
すっかり存在感が薄くなっていた主催者が、両手を胸の前に出して、麗羅を押しとどめるようにして言った。
「何でしょう?」
「これだけ多くの偽筆が混じっていたのは、問題があると思います。いえ、先生の書に問題があるというのではありません。もちろん骨董商でもない。先生の書を専門にした贋作家がいるということです。詐欺事件に該当しますから、警察へ訴えないといけません。そうしないと、今後ますます被害が大きくなります」
「あっ……」
確かにそうだ。去年あたりから麗羅が有名になったため、多くの作品が、安からぬ値段で売買されている。実力は認められているのだが、有名になってからまだ日が浅いため、作品を正確に評価できる鑑定家は少ない。そこを狙われたのに違いなかった。
もちろん、作品には真筆証明書を付ける。通し番号もふって、目録と一緒に管理している。ただその証明書は、ちょっと質のいい和紙を使っているというだけで、偽造するのはそれほど難しくない。落款印だって、今の技術なら簡単にコピーできるだろう。その点については、麗羅の方に不備があると言える。
「とにかく、この偽筆を警察へ持ち込んで、被害届を出しましょう。幸い、すぐそこに臨海署がありますから、今からすぐに行きましょう」
「わかりました、行きます」
骨董商の一人に偽筆を持ってもらい、麗羅は大阪臨海警察署へ向かった。警察へ行くのは初めてのことで、少し緊張する。
(続く)
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