特別編 贋作された書の謎

第1章 真筆と偽筆 (前編)

(筆者からの注釈)この話は「第5話 留守番電話音声の謎」よりも以前のものとしてお読みください。



 駐車場へ出迎えに来た女性事務員が、目を見張っていた。

 ダークブルーのランボルギーニ・アヴェンダドールを見たからだろう。日本では珍しい車種。それだけではなくて、書家らしくもなく、女らしくもないと思っているのに違いない。しかし、麗羅はそんなことを気にしなかった。いつものことだから。車の外見は乗る人の好みだ。自分だけがその良さをわかっていればいい。

羽生はぶ先生は京都にお住まいだそうですが、大阪にはあまりお越しになりませんか?」

 展示会場へ向かう途中で、女性事務員が訊いてきた。特に話すことが思い付かなかったから、こんな中途半端な質問なのだろう。本当は住まいよりも、容姿について訊きたそうに見える。

「いいえ、よく来ますよ。私は京都の山奥に住んでいますが、実は海が好きなんです。特に潮の香りが。小さい頃はよく琵琶湖に連れて行ってもらいましたけれど、海を見てみたくて、神戸の須磨に行ってみたいとか、大阪の二色の浜に行ってみたいとか、何度もわがままを言ったものです。どちらも一度ずつしか連れて行ってもらえませんでした」

「そうでしたか。でもここには綺麗な砂浜はありませんけど」

「今は泳がないから、砂浜がなくてもいいんです。海を見られればいいんですよ。そうそう、この近くにはフェリーの『さんふわらあ』のターミナルがあるんじゃなかったですか。船も好きなので、後で見に行きたいですね。ああ、でも個展の準備が終わる頃には、もう出航してしまっているかな」

 大阪・咲洲さきしまの西、ATCことアジア太平洋トレンドセンターのCホールで、明日から書家・羽生麗羅の個展が開催されることになっていた。「新進気鋭の美人書家」という謳い文句を付けて。

 6歳から書道を始めて、15歳で書道師範資格を取得。高校を卒業後、地方公務員として3年間勤務してから、プロの書家に転身。公務員の時には、看板書きも含めて、書に関わるイベントに多数携わっていたので、関西のマスコミにはよく知られていた。

 加えて、男性のような粗野な短髪、ダークスーツの上下に、濃い色のスクエアネックシャツがトレードマーク。話すときも、女言葉はほとんど使わない。「宝塚歌劇の男役スターのよう」と言われ、女性からファンレターをもらうほどだった。

 今日、ここへ来たのは、個展の準備が終わったのを確認するため。謳い文句は誇大だと思っていたけれど、作品には自信があったので、大々的に個展が開催されるのは、麗羅にとってうれしかった。

 実際は昨日も来て、空っぽの状態のCホールを見せてもらい、作品の配置予定図面、それから展示品の目録を確認した。何も問題なかった。

 展示のプロが仕切ってくれているのだから、細々と注文を付けるつもりはない。例えば光の当て方とか、目線からの高さとか。そんなことを偉そうに指示するたいもいるらしいが、新進書家はおとなしくしていればいいのだ。だからすぐに終わるだろう、と思っていた。その後で、『さんふらわあ』を見て、波止場を散歩して……

 天保山でも遊んでみたかった。有名人といったって、顔を憶えている人の数はきっと知れているだろう。帽子やサングラスで隠さなくったって、バレはしない。男装の女が一人で来ていると、少しは目立つかもしれないが。

 会場に入り、個展の主催者と骨董商たちに挨拶する。今回の個展は新作ではなく、既に売った作品を、その持ち主から一時的に貸し出してもらって展示するという趣向になっていた。そのために骨董商たちが奔走してくれたのだから、ねぎらわないわけにはいかない。いずれも顔なじみばかりだ。

 まずは会場内を見渡す。1000平方メートルもあるホールは、美術館のようなフローリング仕様。そこにかなりの余裕を取って、作品が展示されている。60点しかないから、客がいないと「スカスカ」に見えてしまう。しかし、借り出してきた作品なので、傷を付けないように、通路との間隔を広めに取らないといけないから仕方ない。

 もちろん、麗羅が見るときは、目の前まで作品に近付いていい。不思議なもので、見ていると、かなり前に書いた作品でも、その当時の気持ちを思い出すことができる。満足いくものが書けるまでの、失敗や苦悩すらも。

 それだけでなく、当時の生活、例えば気に入って聴いていた音楽や、気晴らしに行った旅行先の風景や、書以外の悩み事までも思い出されるのだった。思い出のアルバム、いやちょっとしたトリップ体験だ。

 二つ、三つと見て、四つ目。しかし、見た瞬間に、麗羅は奇妙な感覚に襲われた。何か心の中が、灰色に曇るような……不安というか、憂いというか、とにかく心が不快に揺らされるような……

 その文字を書いたことは憶えている。書いた時期も思い出せる。しかし、麗羅自身が書いたものとは思えないのだ。思わず銘を見てしまったが、署名もあるし、落款印も押してある。麗羅の書いた文字にだ。まさか、これは……

「これは……私の作品ですか?」

 横にいた主催者に、訊いてしまった。主催者が怪訝な顔をする。ダリのように、端の跳ね上がった髭を生やした男だ。

「もちろん、そのはずです。羽生先生の作品目録にもちゃんと入っていますし、証明書も付いていますが……」

「ええ、目録に入っているのはわかっています。昨日、確認しましたから。しかし、これはどうも私が書いたものではない気がして……」

 主催者が慌てて、作品を借り出してきた骨董商に確認する。骨董商も驚いているが、ちゃんと真筆証明書は確認したし、今の持ち主に売った画廊もわかっている、と言う。それを横で聞きながら、麗羅は自分の方が間違っているのかもしれない、と思って不安になってきた。しかし、この作品を書いたときのことが、どうしても思い出せない……

「申し訳ありません、私の勘違いかもしれません。これはこのままでいいです。確認を続けましょう」

 言いながら、麗羅は隣の作品に移動した。これは、間違いなく自分の書だった。当時の気持ちがすんなりと思い出せて、さっきまでの重い気持ちが少し晴れた。だが、その隣に移動すると、また不安がよみがえってきた。これも自分の書ではないんじゃないだろうか。それともやはり気のせいなのだろうか。

 次々と、時間をかけて見ていったが、10品目がまたそういう不安を呼び起こす書だった。麗羅はだんだん気分が悪くなってきた。下手な書を見ても、こんな気分にはならない。しかし、自分の筆跡に似ていて、しかも自分が書いたのではなさそうなものを見ると、どうしてこんなに気持ち悪くなるのだろうか。

 もう一つ、そういう作品を発見したところで、麗羅は休憩を申し出た。気分が悪くて、とても立っていられなくなったからだ。こんなことは初めてだった。

 控え室に行き――Cホールには専用の控え室が付属している――椅子に座り込んだ。そして主催者に相談した。

「どうしても、自分の書と思えないものがあるんです。まだ全体の3分の1も見ていないのに、四つも……」

「しかし、そんなはずは……」

「ええ、もちろん、骨董商の皆さんが本物であることを充分に確認して、集めて来てくださったのだということは理解しています。持ち主の方々だって、私の真筆であると信じてらしたことでしょう。快く貸し出してくださった皆さんには大変申し訳ないんですが、私が見て、自作と思えないものは、外すということにしていただけないでしょうか」

「いや、しかし……」

「もちろん、そんなことをすれば点数が減ってしまうのはわかっています。もし足りなければ、私が何とか埋め合わせます。全て発表済みの作品という、この個展の趣旨からは外れてしまうことになるかもしれませんが……」

 麗羅が真剣に訴えたので、「ちょっと相談します」と言って主催者と骨董商たちは控え室を出て行った。事務の女性が持って来てくれた茶を飲みながら、麗羅はため息をついた。こんなことなら、事前に確認しておくべきだった、と後悔する。

 作品は昨日今日揃ったわけではない。何週間もかけて集められて、先週には既に全部が集まっていた。しかし麗羅は骨董商たちを信頼して、目録とスマートフォンで撮った写真を見ただけだった。そのときには何とも思わなかった。さっと見ただけだからだろうか。気に入っている作品も伝えたので、それらはいい場所に展示されることになっていた。

 それに、展示するのは60点でも、集めたのはもっと多い。現物を見て展示できないと判断する作品も出るだろうし、会期の途中で入れ替える予定のものもあった。もっとも、貸し出してくれた人の顔を立てるために、どの作品も少なくとも1日は展示するつもりだったが……

 かなりの時間が経ってから、主催者たちが帰ってきた。「羽生先生のご意志を尊重します」と言ってくれた。

「ありがとうございます。確認の続きをしましょう。全部見なければ……」

「しかし、ご気分がよろしくないのでは? 我々が作品を外して、こちらへ持って来て、見ていただくということにしてはどうでしょう」

「そんなことをしたら、皆さんにとんでもない手間と時間をおかけしてしまいます」

 押し問答が始まりそうになったところで、骨董商の一人が咳払いをして、「一つ提案が」と言った。中で一番の年配で、ベテランの落語家のような顔をしている。

「このすぐ近くに、書の鑑定ができる男がいてますんや。それはもう、歩いて5分もかからへんところですわ。その男にまず見てもらうというんはどうですやろ?」

「その人は、私の書の鑑定ができるんですか? そんな人は、聞いたことがありませんが……」


(続く)

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