第5章 解けない暗号

 エリーゼはまた長い脚を組み替えながら言った。

「クララさんに"La silla del diablo"のことを言うと、彼女が何か悪いことを思い出すかもしれないのです」

「悪いことというと……」

「彼女の証言を思い出して下さい。嵐の夜、操舵室から外を見た。そこには3人がいた。何か話をしているようだったけれど、声は聞こえなかった、と言ったのでしたね」

「はい、そうでした」

「でも、本当は聞こえていたとしたら? 本当は外ではなく、操舵室かリビングでの話が聞こえて、私が想像したように、アリスさんの取り合いをしていて、デイヴさんの本心を聞いてしまったのだとしたら? 思い出せないのではなくて、話を聞いたショックのあまり、忘れたくなって忘れてしまったのだとしたら?」

「あっ……」

 それは確かにあるかもしれない、と利津子は思った。いわゆる“抑圧された記憶”。思い出したくない記憶が、無意識的に封印されてしまうこと。

 記憶というのはつながりがある。一つのことを思い出すと、連鎖的に思い出していくのはよくあることだ。嵐の夜の記憶は、何につながっているのか。警察の聞き取りで使われた言葉では、つながらなかった。"La silla del diablo"という言葉がつながるか、つながらないか、それはわからない。

 しかし、もしつながって、思い出したら。思い出したくないことを思い出すのは、当人にとってよいことなのか、悪いことなのか? それは「思い出してみないとわからない」。つまり、誰にも判断できないのではないか……

 ふと、利津子の頭に悲劇的な光景が浮かび上がる。操舵室で話し合うボブとデイヴ。それを密かに聞いてしまったクララ。二人の男はアリスを巡って争い、嵐のデッキに出て、デイヴがボブを海に突き落とす。嫉妬したクララは、ボブを助けるためと言ってアリスをデッキに誘い、やはり海へ。そして、アリスを助けようとしたデイヴを、クララはやはり……

 その一連のストーリーのどこかで、クララが"La silla del diablo"という言葉を聞いていたとしたら?

「つまり、クララさんのお父さまは、彼女のためにいいことだと思って暗号の解読をエリちゃんに依頼したけど、その結果を知らせることが、彼女の悲しい記憶を呼び覚ますかもしれない。だから話してはいけない、と渡利さんは考えたんですね」

「そういうことです。アキラ様がヒントを下さったのは、もちろん私が暗号を解くためでしたが、そうして謎を解いたからといって、事件がよい終わり方をするとは限らない、と後で教えて下さったのですよ。私も理解していたつもりなのですが、アキラ様の居場所がわかったので、喜びで飛び上がってしまって、つい忘れるところでした」

「えーっと、飛び上がって、じゃなくて、舞い上がって、ですかね。それはいいとして、じゃあ結局、解読結果を報告しなかったんですか?」

「私の間違った日本語を直していただいて、いつもありがとうございます。解読結果は、約束どおりスペインへ行って、ご両親だけに報告しましたよ。『金貨からわかるのはこれだけです』というお断りを付けて」

「ご両親はクララさんに言ったんでしょうか」

「言わなかったと思いますね。結果を聞いた後、お父上は私の感謝の言葉を述べてから、こう言ったのですよ。『しかし、これは聞かなかったことにしたいのです』と」

「それはどういうことでしょう?」

「スペインへ戻ってから、クララさんと話をして、真実の一部を知ったのではないかと思いますね。航海中に、クララさんとデイヴさんの関係がどのように変わったのか。宝が本当に見つかったら、どうなっていたのか。それで、結果がわからない方がいい、と考え直したのでしょう」

「せっかく解読したのに、残念ですね」

「暗号を解くだけが私の仕事ではありません。それによって発生する事態まで責任を持たなければならないのです。リッちゃんのお皿の時もそうでしたよ」

「そうでした。梅村すみれさんの問題まで解決してくださって」

「お父上は最後にこう言いました。『金貨は娘がデイヴのことを思い出せるように、持っておきたい。しかし近い将来、娘が金貨の謎に興味を持つようになっても、解けないようにしたい。だから、あなたが金貨を1枚だけ持っていてくれないか?』と。私はそれを了承しました。そして130枚の中から、何も考えずに摘まみ出したのが、この1枚というわけです」

「そういうことだったんですか。どの文字を表すためのものかもわからない?」

「そうです。可能性としては、奇数の文字、つまりA、I、O、Sのうちのどれかです。アキラ様がご覧になればわかるでしょう。しかし私は知りたくありません」

「私も知らない方がいいと思います」

「そして私は報酬も受け取りませんでした。この金貨が、報酬の代わりの記念の品です」

「どうしてですか。事件を解決できなかったから?」

「そうです。それに私はそのとき“探偵”ではありませんでしたから」

「つまり謎を解いたのは仕事じゃなくて、善意の人助けとして、だったんですね」

「いえいえ、お恥ずかしいことに、依頼を受けたときには正規の料金の半分くらいをもらうつもりだったのです。アキラ様のお手紙のおかげで、目が覚めたのですよ」

 エリーゼが渡利のことを話すとき、目に独特の光が宿る、と利津子は感じた。愛情とは違う、もっと崇高な関係でつながっているのだろうか。

「ところでその後、渡利さんに会いに来たんですか?」

「まだ一度もお会いしていません。私は“イチニンマエ”ではありませんから」

「そうなんですか。もう十分実績があるような気がしますけど」

「東京の探偵事務所では、実績がほとんど作れなかったのです。しかし、通訳から調査員になることはできました。日本に来てからちょうど1年後に、事務所をやめて、大阪に来ました」

「東京の事務所は困ったでしょうね」

「大阪に来ても、すぐに仕事があるわけではありませんから、その事務所の通訳をよく手伝っていました。その頃から、ウェブ会議が使いやすくなりましたからね。こちらにいても通訳ができるのです。今でもときどきやっています」

「なるほど、普通の電話よりやりやすそうですからね。顔が見えたりして」

「大阪臨海署に行って、まずこの咲洲サキシマに、他に探偵事務所があるか尋ねてみました。その時に応対して下さったのが、門木刑事さんです」

「ああ、不二恵さんの上司の。そういえば私も一度だけお会いしていますね」

 桑名のマンションを訪問したときだった。痩せて背の高い、猿顔の刑事を利津子は思い出した。

「リッちゃんは門木刑事のことをどう思いますか?」

「よく知らないので何とも。でも不二恵さんからお話を聞く限りでは、とても優秀な方なんだろうなって」

「その程度ですか。まあ仕方ないですね。一度しか会っていないのでは」

「探偵事務所のことを聞いて、どういうお答えが?」

「ああ、それを話していたのでした。咲洲にはないと。それを聞いて私は、とても驚きましたね」

「どうしてですか。ここが平和だから?」

「日本が平和なのは東京にいて十分わかりました。しかし私の驚きは違います。アキラ様が鑑識だけで、探偵をしていなかったからですよ」

「あら、渡利さんは探偵もできるんですか」

「ロンドンでの仕事は、実は探偵だったのです。鑑識の能力を使う探偵です」

「だからエリちゃんにときどきヒントを。でもどうして日本では探偵をしないんでしょうね」

「探偵は実は危険な仕事です。殺人事件や強盗事件と関係なくても、です。ソコー調査と人捜し、と説明しましたね? それはつまり、人の秘密を探ることです」

「プライバシーを侵害するとか、そんな風に思われるんですね。だからあらぬ恨みを買ったり」

「そういうことです。私もリッちゃんの事件の後は、クワナからの復讐に注意していました。彼が外国へ行ったと聞いて、ほっとしていたくらいです」

「私も注意しないといけませんでしたね。顔を憶えられているでしょうし」

「それで、アキラ様は探偵をしないのだろうと思いました。そうなると、私がぜひやらなければいけません。『近いうちに探偵事務所を作ります。届を出します』と門木刑事さんに言いました。もちろん、彼は驚いていました。ところで、外国人が探偵業の届を出すことができると思いますか?」

 エリーゼの質問に、利津子は首を捻った。

「できるんじゃないでしょうか。探偵って資格がいらないはずですし、就労ビザを持っていれば」

「そのとおりなのですが、サショーは通訳として発行してもらいましたので、私自身が探偵業を開業すると資格外活動になってしまうのです。ですから最初の2年は、ある方と共同経営ということにして届を出しました。ある方が所長、私は通訳兼調査員です。実績を積んで、去年から経営のサショーに変えて、私が所長で調査員となったわけです」

「ある方って誰ですか? 渡利さん?」

「違います。ですが、その方自身は実際に優秀な探偵なのですよ。さて、金貨にまつわる事件の話はこれくらいにしておきましょう」

 利津子がエリーゼに金貨を返すと、エリーゼはそれをデスクの抽斗にしまった。

「もう少しだけお話を聞かせて下さいよ。エリちゃんは“一人前”になったら渡利さんに会いに行くとおっしゃってましたけど、それはいつになりそうですか?」

 エリーゼはソファーに戻って来ず、デスクに腰をもたせかけ、腕を組んで“考えるポーズ”を作りながら答えた。

「さあ、なるべく早くそうなりたいのですが、少なくともあと1年はかかるのではないですか。アキラ様からヒントをいただかずに、いくつも事件を解決できるようになってからです。もちろん、鑑定はアキラ様に依頼しますよ。それだけは私にできませんから」

「そうですか。もし私にできることがあったら、いつでも連絡を下さいね。この前みたいに、お手伝いできることがあるかもしれません」

「ありがとうございます。美術品に関わる調査に協力して下さる方は多いのですが、ホーオージ財団は範囲が広いので特に頼りになります。リッちゃんも、困ったことがあったら私に探偵を依頼して下さい。特別料金で対応しますです」

「あら、タダにはならないんですか?」

「内容によりけりですね。でも1万円を超えることはありませんよ。おや、誰か来たようです」

 エリーゼに言われて、利津子はドアの方を見た。階段を上がる足音がするが、一人ではなさそう。そしてドアに「オクラホマミキサーの最後のリズム」。

「あの叩き方はフジエちゃんですね。そしてもう一人の足音はバンちゃんでしょう」

「警察の方ですね。私はそろそろおいとましましょうか?」

「この時間ですから、あの二人も遊びに来たのに違いありません。リッちゃんもまだいて下さって結構ですよ。一緒にお話をするのが楽しいと思います」

「じゃあお言葉に甘えて」

 エリーゼがドアの方に行くのを見ながら、利津子はコーヒーの最後の一口を飲み干した。もう一杯、淹れてもらえそうだ。今度来るときは、お菓子と一緒にコーヒー豆を持って来た方がいいだろう。


(第12話 終わり)

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