第6章 エリーゼの未来

 エリーゼは一人で泣き続けていた。目に入るもの、耳に入るもの、全てを拒否した。

 ずっと目を閉じていた。ドアにノックがあっても答えなかった。電話がかかってきても出なかった。お腹が減っても何も食べなかった。

 日が暮れて、夜になっても、真っ暗な部屋の中でエリーゼはまだ泣いていた。アキラが帰ってくるまで、何もしたくなかった。帰ってきたら、謝ろう。アキラを助けられなかったことを。

 またドアにノックがあった。誰かが何か言っている。ダイス。ダイスと聞こえた。その言葉だけは耳に入った。ダイスの声は久しぶりに聞いた。ダイスの元を去って、アキラのところに来たのだった。アキラがいなくなったから、ダイスが来たのだろうか。それでもエリーゼの身体は動かなかった。

 ドアが開いた。錠をかけていたはずなのに。部屋の灯りが点いた。目を閉じていても、それはわかった。

「リースヒェン! いるのなら返事くらいしろ!」

 やっぱりダイスだった。ダイスの声が耳に入り、目を開けると姿が見えた。もう一人誰かいる。アキラだろうか。違った。知らない女の人だった。

「ダイス……」

「大変な目に遭ったらしいな。その様子じゃ、朝から何も飲み食いしてないんだろう。それじゃあ倒れちまう。飯を作ってやるから少しでも喰え」

「アキラは……?」

「ジュン、話してやれ」

 ダイスはキッチンの方へ消えていった。後には知らない女の人が残って、エリーゼの横に片膝を突いて声をかけてきた。日本人で、髪が短くて、パンツスーツをファッション雑誌のモデルのようにスタイリッシュに着こなしていた。

「アキラは何も心配ないわ。まだ病院にいるけど、警察が保護しているから退院できないだけ。運動は得意じゃないけど、よけるのはうまいから、傷は浅かったのよ」

 女の人はドイツ語で話しかけてきた。見かけどおりの明るく爽やかな声だった。アキラは無事だった! エリーゼの心の中に少し、光が射してきた。もう一度アキラに会えるのだ。ところで、この人は……

「……誰?」

「ジュン・ワタリ。ダイシュウのパートナーで、アキラの母よ」

「アキラの……お母さんムッティ?」

 そういう人を想像したことはないけれど、アキラのイメージとは全然違っていた。この人とダイスからアキラが生まれそうにない。アキラの態度はダイスよりも冷たい。この人の性格はアキラにはひと欠片かけらも伝わらなかったのだろうか。

 ジュンに促されて立ち上がり――歩くときに足がふらついたが――エリーゼはソファーに座った。ジュンは隣に座った。

「この共同住宅ヴォーヌンクの周辺も今は警察が警戒してるけど、あなたを見舞うために、断って入ってきたの」

「ありがとう、ジュン……でも、どうしてアキラが怪我をしたことを知ってるの? イングランドにはいないはずなのに。それにこんなに早く来て……」

「運がよかったのよ。ちょうどルーアンにいて、フランス軍の仕事をしていたの。軍のロンドン偵察部隊から情報が入ってきて、『わし座アクィラ』が襲撃されたようだって教えてくれて。最速なら4時くらいには来られるはずだったんだけど、『アキラは絶対大丈夫だから』ってダイシュウが言って、仕事が終わってから来たのよ。そうしたらこんな時間」

「アキラは……そんなに有名なの? 軍の情報になるなんて……」

「あら、彼、教えてくれなかったの? いかにも彼らしいわね。軍に有名なのは、彼やダイシュウのセンシングで感知されないように行動するための研究を、軍でしてるからよ。味方じゃなくて、敵として見られてるわけ。ダイシュウ、まだ食事できないの? リースヒェンのお腹が鳴ってるわ! もう少し待ってね。ダイシュウは意外と料理がうまいから」

 確かにおいしそうな匂いがしていて、何か食べたい気持ちになってきた。アキラの無事がわかって安心したからだろう。

「待っている間に、この部屋の話をしましょうか。去年までは私の部屋だったのよ。あなたと交替するまでは。それまで、ここでアキラと組んで仕事をしていたの。彼が18歳になるまでの予定でね。そうしたらダイシュウが、あなたを彼のパートナーにするって言い出して。その3年前からダイシュウがあなたを連れ回してたのは知ってたけど、まさかアキラのパートナーにするつもりだったとは思わなかったわ。アキラは好き嫌いが激しいから心配だったけど、ダイシュウが、彼はあなたのこと絶対気に入るはずだって言って」

「でも……私、アキラに好かれていたか嫌われていたか、わからない……」

「アキラは何か言ってたか?」

 突然ダイシュウの声がした。手に持った皿は山盛りのソーセージヴルスト焼きジャガイモブラットカルトッフェルン、それにシュヴァーベン風ラビオリシュヴェービッシェ・マウルタッシェン

「何も……何も言ってくれない……」

「じゃあ、気に入ってたんだ。あいつは気に入らない時は必ず口に出す。喰えよ。喰いながら話そう」

 エリーゼはダイスの料理を食べてみたが、そんなにおいしいとは思わなかった。これならエリーゼ自身が作った方がもう少しましだ。そういえばアキラが作る料理はエリーゼのものよりほんの少しおいしかった気がする。

 食べながら、ダイスとジュンの話を聞いた。二人はここへ来る前に、病院へアキラの見舞いに行ったらしい。アキラが言うには、窓からの侵入者を追い返すのが精一杯だったそうだ。そういえば、窓から誰か入ってきたのとほぼ同時にドアからアキラが入ってきた。どうしてあんなにタイミングがよかったのだろう。

「そりゃ、あいつがドアの外にいたからだ。階段にあいつの座ってた匂いが残ってた」

 ダイスが事もなげに言った。作った料理の半分くらいはダイスが食べてしまっている。

「……どうしてそんなところに?」

「誰かがお前を襲いに来ると予想してたんだろう。だから見張りのために毎晩あそこに座っていた。おそらく1ヶ月ほど前から」

 1ヶ月前に、何があったろう。もしかして、雑誌に記事が出てからだろうか。エリーゼが、博物館の勲章を強奪した賊の特徴を指摘した記事。賊は一人だけまだ捕まっていないはずだった。その男が襲いに来た?

「窓から入ってくるのも予想していただろうが、お前の部屋の中で見張りをするのは、さすがに遠慮したんだろうな」

「遠慮って?」

「お前、アキラがすぐ横にいるのに寝られるのか?」

「寝られる……と思うけど」

 何か問題があるのだろうか。むしろ、アキラがすぐ近くにいる方が、エリーゼは安心すると思う。そもそも、どうして違うフロアに住んでいるのかもよくわからない。寝室にはベッドをもう一つ入れる余裕があるから、一緒の部屋に住んでもよかったと思うのに。

「あいつはお前同様、ピッキングができるんだが、知っていたか?」

「知らない。そんなこと、言ってなかった」

「だからあいつはいつでもお前の部屋に入ることができたんだ」

「そうなんだ。ダイスもできるんでしょう? それでさっき入ってこられたんだよね」

「それでも気にならないのか」

「アキラなら何でもできると思うから、気にならないよ」

「あいつにそれを言ったことがあるか?」

「言わない。そんなこと、訊かれないから」

「そういうところもあいつらしいな。お前自身が気付いていないのもお前らしい」

 ダイスが何を言っているのかよくわからない。しかし、とにかくアキラは私のことを守ろうとしてくれていたのだ、とエリーゼは理解した。

 1ヶ月間毎晩、ドアの外で見張りをしていたということは、毎日寝不足になっていたということだ。だから最近は疲れているように見えたのか。雑誌にエリーゼのことが載ってから、まだ逮捕されていない一人が復讐に来ることを、心配してくれていたのだ! それをエリーゼには一言も話さずに。

 そして最後にアキラは言った。「君の美しい顔を守れなかった」。私の顔すら傷付けられないように、守ろうとしてくれていたのだ。それなのに、私はあの時、アキラを助けようとして、侵入者に突進してしまった。アキラはそんなことを望んでいなかったのだ。私が無事に逃げられるように、侵入者を食い止めてくれていたのに。

 私はまだまだ、アキラのことがわかっていない……

「アキラはいつ帰ってくるの?」

「襲撃者が逮捕されてからだ。しかし、近いうちに逮捕されるだろう。アキラはそいつの身体にちゃんと目印を残したと言っていた。今は警察がそれを追っかけてる。匂いがわかってるから、あいつも自分で追いかけたいと思ってるだろうな」

「目印を教えてくれたら、私が……」

「お前も保護されてるんだよ。外に出られるわけがない。だから、ジュンをしばらく残していく」

 それだけ言うとダイスは出て行ってしまった。ジュンを残して。ジュンのことはよくわからない。でも、アキラのお母さんなら安心できそうな気がする。性格はアキラと全然違うけれど。

「仕事はしばらくお休みね。あなたは外に出られないから、買い物なんかは私が行くわ」

 その日はジュンの勧めに従って、早めに寝ることにした。ジュンは同じベッドで寝てくれた。未明から起きていたのに、頭の中にずっとアキラのことが思い浮かんで、エリーゼはなかなか寝られなかった。明け方にようやくうとうとして、気が付いたら朝食ができていた。その日の午後に、割られた窓が修繕された。


 2日経っても、3日経っても、アキラは帰ってこなかった。エリーゼはずっと家にいるだけだった。もちろん、依頼人も来なかった。外で警察に止められているのだろう。

 エリーゼは外を見ることもなかった。見るのを止められているわけでもない。見たらずっと外が気になってしまうから。アキラが帰ってくるまで、ずっと外を見続けてしまうかもしれないから。

 5日目になって、ジュンが新聞を買ってきてくれた。「ブルームズベリーの襲撃者レイダーを逮捕」とある。エリーゼの部屋に侵入し、アキラに怪我をさせた男が捕まったのだった。

 けれど、ジュンが警察で聞いた話では、「博物館の賊の残り一人とは別人」だとのこと。証拠はまだないが、その賊から金で雇われたのだと警察は見ているらしい。だからアキラはまだ帰ってこられない。次の日になっても同じだった。もちろん、仕事の再開の目処もなかった。

 1週間経って、夕食の後に、エリーゼはジュンに訊いてみた。

「アキラはいつ帰ってくるの?」

「当分帰ってこないわ」

「病院に入ったままなの? どうして私はお見舞いに行ってはいけないの?」

「もう病院にはいないわ」

「じゃあ、どこか別の家に隠れてるの?」

「イングランドにいないのよ」

 エリーゼは驚いて飛び上がりそうになった。どうして私に何も言わないまま、そんなことになってしまうのだろう!?

「どういうことなの!」

「ダイシュウが考えたの。アキラはしばらく別のところで仕事をさせるって。あなたと二人で仕事ができるだろうと思っていたけど、まだ早かった。もう少し人間的に成長して、あなたを守りながら仕事ができるようになるまで待とうって」

「アキラはどこへ行ったの!?」

 思わず立ち上がって目の前のジュンに食ってかかった。ジュンは驚きもせず、穏やかな目をしていた。

「危険がもっと少ないところ」

「だから、それはどこなの!?」

「それを訊いてどうするの?」

「私もそこへ行きたい!」

 エリーゼは叫んでいた。アキラは私の光なのだ。私を導くのは彼であって、彼の他にはいない。私は彼の世界に必ずたどり着くと決めたのだ。

「そう言うと思ったわ。でも、ダメよ」

「どうして?」

「彼と一緒にいると危険だから。あなたを守るのが彼の役目でもあるのよ。たぶん彼は、あなたのことを好きになるあまりに、判断に迷いが出たんでしょうね。まだ大人になりきれてないのよ」

「私のことを好きに……」

 そんなこと、あるはずがない。アキラがそんな目で私を見たことは一度もなかった。私は彼の生徒であり、彼は私の教師なのだ。ずっとその関係が続くと思っていた。ずっとその関係を続けたかった。

「アキラが行った先に危険が少ないのなら、私だって危険な目に遭わないわ!」

「でも、あなたはそこで仕事ができないのよ」

「どうして?」

「言語を知らないから」

「どこの言語? 何だって学習するから!」

 イタリア語だってフランス語だってスペイン語だって英語だって覚えた。それは全てダイスがさせてくれた学習のおかげだ。今ならわかる。あれはやはり必要な学習だった。社会を知ると共に、言葉の基礎知識になった。それさえあればどんな言語だって習得できるはずだ。

「でも、とても難しいのよ。ヨーロッパの言語に比べて」

「だから、どこの言語よ!」

「日本語」

 ダイスと一緒にヨーロッパを回っているときに、エリーゼは何度も日本人を見かけた。彼らの言語の響きは独特だった。英語で話したこともあるが、その響きもまた独特だった。聞き取りやすいけれど、こちらの言葉はなぜか通じにくい。ロンドンにいる日本人もそうだ。

「でも、日本人は英語をしゃべれるんでしょう?」

「旅行者は英語で何とかなるけど、住もうとしたら日本語を習得するのは必須。中途半端な日本語では相手にしてもらえなくなる。そして言葉には表せない裏の意味を汲み取る必要がある。そこが話したり聞いたりする以上に難しいところ」

「でも私、日本語を学習する! ジュンは日本語ができるんでしょう? 教えてよ!」

「教えてあげてもいいけど、日常会話レベルでも学習時間は88週が必要と言われてるのよ。しかも、もし日本にずっと住むなら、仕事を持つ必要がある。それに使えるレベルにはさらに44週必要ね」

「それでもする! 絶対に1年で、ううんナイン、半年で会話できるようになるから!」

「会話だけでそれで、読み書きができるようになるにはもっとかかるんだけど……まあいいわ、せっかくだから、最上級に丁寧な日本語を教えてあげる」

「ありがとう! じゃあ、さっそく今夜から」

「今夜から? なら、おやすみの挨拶から。グーテン・ナハトは『おやすみなさいませ』」

「オヤスミナサイマセ」

「『おやすみ』『おやすみなさい』でも通じるけれど、『おやすみなさいませ』の方がより丁寧な言い方よ。繰り返して」

「オヤスミナサイマセ」

 早く日本語を憶えて、日本語で夢を見られるようになりたいと、エリーゼは思った。そうしたら、アキラに会いに行ける。アキラとまた一緒にいられるようになる。アキラに導いてもらえる。私の未来へ……

 そして「アキラエスクヮイア」を日本語で言う日が来ることを、エリーゼは心から望んだ。


(第11話 終わり)

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