第12話 スペイン金貨の謎

第1章 大ニュース

「もしもし、エリちゃんですか。私、砂辺利津子です。今、エリちゃんの事務所の近くまで来てるんです。ちょっとびっくりするようなお話があるんですけど、今からそっちへ行って構いませんか?」

 南港共同法律事務所のビルを出た利津子は、コスモスクエア駅へ向かって早足で歩きながら、エリーゼに電話をかけた。

 今し方、マイセンの18世紀の皿を渡利に鑑識してもらい、本物で、大変価値が高いと言われて喜んでいたのだが、その後に受付係(初めて見る若い少女)から聞いたある情報により、喜びが吹っ飛んでしまった。

 400メートルもある歩道橋を、駆けるように歩いて駅に着いた。エリーゼの事務所へ行くならタクシーを使いたくなるところだが、働き始めてから倹約することが身についてしまったので、新交通ニュートラムを使う。四つ先のポートタウン東駅まで7分乗れば、そこから歩いて10分のはず。

 ポートタウン東駅を降りた後、念のためにバスターミナル横にある交番で道を聞いてから、利津子は事務所にたどり着いた。

 建物の裏手に回り、鉄製の階段をなるべく静かに上がって、「湾岸探偵事務所」と書かれた白いドアをノックする。以前教えられた「オクラホマミキサーの最後のリズム」で。

 返事はなかったが、内側のチェーンを外す音がしてから、ドアがゆっくりと開いた。

「ようこそいらっしゃいました、リッちゃん。大変お急ぎのようですが、依頼がない人の訪問を受けるのは久しぶりですよ。例外は警察関係者だけなのです」

 大きく開かれたドアの中には、上機嫌の笑顔のエリーゼが立っていた。髪型が、美容院へ行った直後のようにぴしっと決まっている。口紅すら塗らないのに、爽やかな色気が感じられた。

「ごめんなさい、渡利さんの鑑識へ行ったときに、びっくりするお話を聞いたものだから、エリちゃんもご存じなのか確かめようと思って」

「電話でお話ができないようなことですか?」

「あら、そういえば、電話でもよかったかしら」

 とにかく驚いていたので、エリーゼに電話して、「別にいらしても構いませんですが」という返事を聞いて、すぐ切ってしまったのだった。エリーゼはその後に「電話でお話が……」と聞こうとしていたのかも。しかし、折り返しかけてこなかったのは、相手をしてくれるということなのだろう。

「ひとまず、お入りなさい。コーヒーも用意しておりますですよ」

「ありがとうございます。お邪魔します」

 ドアをくぐると、既にコーヒーの香りが漂っていた。ソファーに座り、コーヒーを淹れるエリーゼと、その周りの様子を眺める。この部屋、物はたくさんあるのに綺麗に片付いていると思っていたのだが、今は前にも増して片付いて見える。以前より棚の書類が減っただろうか。

 エリーゼがコーヒーカップを持って来てくれた。

「どうぞおあがりなさい」

「ありがとうございます」

「それで、びっくりするようなお話とは何でしょうか?」

 エリーゼが向かいのソファーに座って足を組む。利津子は居住まいを正して、背筋を伸ばした。

「さっき、渡利さんのところへ行ったんです」

「何か鑑識していただきましたか」

「はい、18世紀のマイセンのお皿を。透かし絵皿なんです。周りが金彩で、中に多色で風景が描かれていて」

「価値のあるものでしたか」

「はい、J・F・メッシュという有名なペインターで、私は知らなかったんですけど、バイロイトの工房にいらした方だそうで」

「それ以外に何か特別なことがあるのですか?」

「いいえ、別に何も」

「では、何にびっくりされたのでしょう?」

「ごめんなさい、お皿のことじゃないんです。その後、下の受付で、鑑識事務所は8月から3ヶ月間お休みだって聞いて、驚いてしまって」

「そんなに驚くことではないでしょう。アキラ様だって、ウアラオブをお取りになりたいと思われたのですよ。おや、ウアラオブは日本語では何というのでしたっけ」

「バケーションですね」

「それはアメリカ英語でしょう。イングランドではホリデイです。日本語では何でしょう。チョーキキューカですか?」

「この季節なら、単に夏休みでいいんじゃないかしら?」

「なるほど、学校も夏休みなのでしたね」

「そういえば、受付にいた女の子は高校生に見えましたけど、鳩村さんはお辞めになったんですか?」

「辞めてはおられませんよ。ときどきレイちゃんに代わってもらうのですよ」

「彼女、レイちゃんとおっしゃるんですか。名字は?」

「アソウです。私がこの事務所へ入れた、唯一の未成年ですよ。私は未成年からの依頼は受けないのですが、特例で相談に乗ったことがあるのです。ただ働きさせられそうになりましたですよ」

「あら、彼女もここへ。じゃあきっと、渡利さんのところで何か鑑識していただいたことがあるんですね」

「アキラ様の夏休みに驚いたという話をしていたのではなかったですか」

「ごめんなさい、話が逸れてしまって。渡利さんって、お休みを取らないっていうイメージがあったものですから」

「こちらではお休みですが、海外でお仕事です。アキラ様は以前、ロンドンでお仕事をされていたのですが、日本へ来られたので、イングランドの人々が困っているのです。あるお方の要請で、3ヶ月間だけお仕事に行くのですよ」

「そうだったんですか! あるお方って、偉い人でしょうか。エリザベス女王?」

「私は知りませんよ」

「でも、渡利さんがこちらのお仕事を休まれるのはご存じだったんですね」

「もちろんです。私が受ける依頼では、アキラ様の鑑識能力が必要になることが多いですからね。ハト様を通じて、ちゃんと連絡があったのですよ。先月、リッちゃんと一緒にアイリちゃんの婚約披露の会食へ行きましたが、その直後です」

「あら、そんなに前から。そうですね、直前のお知らせだと、皆さんお困りになりますよね」

「湾岸署の人々も、きっと困っていると思いますよ。しかし警察は、カソーケンを使えばいいと思いますね。それとも、3ヶ月待つか」

「そうですね。警察のお仕事って、元々時間がかかりますから、3ヶ月くらい遅れてもあまり影響がないでしょうね」

「ところで、私もちょうどいい機会なので、夏休みを取ろうと思っているのですよ。1ヶ月間です。ドイツのウアラオブは2週間のことが多いですから、長い方ですね」

「あら、エリちゃんもお休みを! そういえば総領事館の人たちも、2週間のお休みを交替で取るみたいでした。私はまだ新人だし、秋の季候のいい時期に旅行をしたいので、10月にしてもらいましたが。エリちゃんはもしかして、渡利さんに付いていくんですか?」

「アキラ様は一人で何でもできるお方ですよ。私が付いていく必要はないのです」

 エリーゼはそう言ったものの、その笑顔が、いつもよりも緩んでいるように利津子は感じた。付いていかないけれど、偶然を装って同じところへ行く?

「じゃあ、どこかへ旅行? それとも、ドイツのご両親のところへ帰られるのかしら」

「私の帰る場所はもうドイツにありません。行き先はまだ決めていないのです。しかし、1ヶ月もここを空けるので、依頼の合間に片付けをしているのです。重要な物はありませんけれど、事件の記念になる物をいくつか置いていますのでね」

「記念品ですか。過去の事件の?」

「そうです。私が日本へ来てからの物ですが」

「面白そうですね! 私の事件の記念品は何かありますか?」

「お皿の写真と、蔵の写真です」

「写真しかないんですか。蔵は梅村さんの?」

「そうです」

「お皿を記念に1枚お分けすればよかったですかね」

「リッちゃんのものではなく、ホーオージ財団のものなのでしょう?」

「そうでした。他に、記念として差し上げられるようなものはなかったです……」

「ほとんどの事件ではそうですよ。事件の証拠物件の一部をもらえるなんて、めったにないことです」

「じゃあ、何か珍しいものをいただいたことは?」

「それを聞かれると思ってましたよ」

 やれやれという顔をしながらエリーゼが立ち上がったので、利津子は慌てて「もしお忙しいのなら、見せていただかなくても結構ですよ」と言った。

「忙しくはありませんよ。こうしてリッちゃんをお客様として迎えているのですから」

「そうでした。ありがとうございます」

「私の一番の記念品をお見せします。これです」

 エリーゼはデスクのところへ戻ると、抽斗から小さなものを取り出した。ソファーへ戻って、テーブルの上に置く。コインだった。記念硬貨や古銭でよくあるように、5センチ四方の四角い厚紙に丸い穴を空け、透明フィルムを貼ったケースに入っている。

「金貨ですね! どこの物ですかしら。ずいぶん古そうですね。周囲が削れてしまっています」

 四つ葉のクローバーのような形の中に、十字様の模様が描かれている。周囲どころか表面も一部削れているが、文字は問題なく読める状態だ。"HISPANIA RVM REX 1712"だろう。

「古いスペイン金貨です。エスクード・デ・オロ、金のエスクードと呼ばれるものですよ。額面は1エスクードです」

「これもどこかの古い蔵から出てきたんでしょうか」

「いいえ、ヨットの船室の金庫の中から出てきたのです」

「あら、ヨットの! じゃあ、どこかの海で宝探しでもしていたんでしょうか。ぜひお話を聞きたいです!」

「依頼者が来たら中断しますけれど、構いませんか?」

「今日は誰か来る予定があるんでしょうか?」

「予定はありませんが、急に来ることもあるのですよ。特に、警察から」

「田名瀬不二恵さんとかですか。ええ、構いませんよ、中断になっても」

 利津子が少し前屈みになると、エリーゼは足を組み替えた。

「これは私が日本へ来て、最初に解決した事件なのです」

「エリちゃんは探偵のお仕事で日本へ来たんですか?」

「そこから話を始めなければなりませんね」

 利津子は期待を膨らませながら、エリーゼの次の言葉を待った。


(続く)

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