第5章 光の導き (後編)

 博物館の事件からちょうど2週間経った日。ノートン警部から電話でいい報せが入ってきた。

「4人の賊のうち、3人を逮捕した」

 事件前日から3日前までの防犯カメラの映像から、挙動が怪しい「ドイツ系と思われる男性」を抽出し、付近のホテルなどへの聞き込みから足取りを掴んだ。最後は「特徴的な筆記体の"t"」を書く男を調べ上げて、同行していた二人と共に逮捕したらしい。エリーゼの情報が決め手になったとノートン警部は言った。

「ただし、主犯格の男はまだ逃走中だ。用心深くて、3人とはほとんど常に別行動を取っていたらしい。勲章の行方もその男だけが知っているようなので、これから3人を締め上げて行方を追及する。中間報告だが、明日の新聞に載るだろう」

 その言葉どおり、次の日のいくつかの新聞に賊の逮捕の記事が載った。エリーゼの名前は出なかったが、その記事を見ただけでこの上ない満足感が得られた。「行動」以外のことで貢献できることの証だ! 記念に切り抜いて取っておきたいくらいだった。

 さらに、事務所に雑誌の取材が来た。警察は協力者の名前をプレスには教えないはずなのだが、どこからか漏れたようだ。その時はたまたま、アキラは調査で外に出ていて、エリーゼが一人留守番をしながらデータの整理をしていた。めったにない、別行動の日だった。

 本当なら取材は断らないといけないのだけれど、記者がドイツ系の女性で、エリーゼのことを「ドイツ人の誇り」などとおだてるので、名前を出さないことを条件にしてエリーゼは取材に応じた。

 約2週間後にそれは雑誌の記事になった。ただ、名前は出していないが、「ドイツ人の女性民間探偵」と書いてあるので、それがエリーゼであることはこの近辺の人が見れば明らか、という微妙な代物だった。記事に目を通していたアキラが「やれやれオー・ディア」と呟いた。エリーゼは非難されたと思ってがっかりした。

「やっぱりいけなかったかな。もっと曖昧な記事になると思ってたのに」

「出てしまったものはしかたない」

「でも、これで仕事が増えるよね」

「今より増えることはあまりうれしくない」

「……そうだね、アキラが疲れるだけだもんね」

 アキラが鑑識をしているとき、ぱっと見では何気なく――時には気だるい感じで――対象物を眺めているだけに思われる。しかし本当は、五感を総動員して、全身全霊を傾けて真実を得ようとしている、ということがエリーゼにもわかるようになった。

 言うなれば、魂がアキラの身体から抜け出して、対象物に乗り移り、内側からその情報を得ようとしている、というような。ただ、その時間があまりにも短いので、「見た瞬間に答えを出す」ように見えるだけだ。

「しばらくは様子を見る」

「私も、仕事量が長くなりすぎないように気を付けておくわ」

 基本的に、この事務所に「休み」はないし「営業時間」もない。ただ、特に緊急の案件でなければ――緊急である場合、依頼者はその理由を明白に説明できる必要がある――日中つまり朝9時から夜7時まで、という制限をつけているだけにすぎない。

 エリーゼは自分とアキラの拘束時間と負荷から「仕事量」を計算して管理している。もちろん、アキラは体感でそれをわかっているはずだけれど、目に見えるようにしておかなければならない。

 その後、1ヶ月くらいの間の仕事は、数%増えただけだった。それでもエリーゼには、アキラが前よりも疲れているように見えた。しかしアキラに訊いても「問題ない」と言うだけだった。私の独断で仕事を制限した方がいいかな、とエリーゼは思っていた。


 雨が降るある夜のことだった。突然大きな音がして眠りを妨げられ、エリーゼはベッドから跳ね起きた。

 目覚めた瞬間は、何があったのかわからなかった。部屋の灯りを点けようとしたら、どこかでガラスを踏んで割るような音がした。それで窓ガラスが破られたことに気付いた。おそらくリヴィングルームの窓で、そちらに人がいるのだろう。瞬間的に、灯りを点けるのは危ない、と思った。こちらのいる位置がわかってしまうから。

 それからドアの錠が開く音がした! 窓を破られた上に、ドアから入られようとしているのだろうか? シーツにくるまって隠れた方がいいだろうか。しかし、侵入者はおそらくベッドまでやってくるだろう。隠れていたって無意味なのだ。

 ベッドルームの窓から逃げるか? だが、ここは4階だ。飛び降りたら大怪我は間違いない。少なくとも動けなくなる。そこを侵入者に襲われるかもしれない。ここにいても、侵入者に襲われたら死んでしまうかもしれないから、どっちも危険なのは間違いないけれど……

 怖くて動けないでいたら、隣の部屋で床を踏み荒らす音がした。声も聞こえる。侵入者どうしが格闘をしているのだろうか? 窓からの侵入者と、ドアからの侵入者が。その隙に逃げられないだろうか? アキラに助けを……いや、あれはアキラの声ではないだろうか? そうだ、アキラが侵入者と格闘しているのだ!

 エリーゼはベッドから飛び出して、リヴィングルームへ駆け込んだ。二つの影が組み合っている。しかし、一方が圧倒的に不利だった。

「アキラ!?」

逃げろゲラウェイ!」

 アキラの声。そして、不利になっている影がアキラだった。しかし、そうなったら逃げろと言われて逃げるわけにはいかない。アキラはきっと助けに来てくれたのだ。私が加勢すれば何とかなるかもしれない。今こそ勇気を振り絞らなければならない!

「フーラァー!」

 掛け声をかけて、エリーゼは二つの影に突っ込んでいった。体当たりでもすれば、侵入者に隙ができるかもしれない。しかし、影が何かを振り回して、それが額に当たった。体当たりはしたものの、跳ね飛ばされて床へ倒れ、背中をしたたかに打った。起き上がれない。逃げることも、加勢することもできないのだ。

 その間に、アキラと思われる影がもう一つの影に飛びかかった。しばらく組み合っていたが、大きな影が小さな影を床にたたきつけた。そして何かを振り下ろした。アキラが危ない! エリーゼは起きようと必死にもがいたが、腹這いになるのが精一杯だった。

 しかし次の瞬間、大きな影は突然「アウチ!」と叫んで飛び退き、振り上げていた何かを小さな影に向かって思い切り投げつけてから、リヴィングルームから逃げ出すのが見えた。それはドアを出ていった。そして小さな影は――もちろんアキラに違いなかったが――倒れたまま動かなくなった。

「アキラ!」

 背中の痛みをこらえてエリーゼはようやく四つん這いになり、影の元へ這い寄った。侵入者が戻ってくるかもしれないなんて、1秒も考えなかった。そこではアキラの匂いがした。それと同時に、血の匂いがした!

「アキラ! 怪我したの!? 何があったの!!」

「君も……怪我を……顔に……」

 思わずドイツ語で呼びかけていたら、アキラもドイツ語を返してきた。自分が怪我をしているのに、しかもきっと大怪我をしているのに、どうして私のことなんか気にするのだろう! 私の顔の怪我は、かすり傷なのに。きっとアキラは、この暗闇で、それが見えているのだ……私は何にも見えないのに。

「アキラ! 血が!」

 身体を触っているうちに、ぬるっとした温かいものに触れた。やっぱり血を流しているのだ。早く助けなければ……薬は? 包帯は? それとも、救急車が先だろうか? 気が動転して、身体が動かない。アキラの苦しい息づかいを聞くだけだった。

済まないエス・トゥト・ミア・ライト……君の美しい顔を守れなかったイッヒ・コンテ・ダイン・シェーネス・ゲジヒト・ニヒト・ベシュツェン

 途切れ途切れに、アキラのかすれ声が聞こえた。そしてそれきり、アキラの身体の力が抜けた。

だめナイン! 起きてアウフヴァッヘン、アキラ! 死んじゃやだスティアプ・ニヒト! アキラ!」

 泣きながら、やっとの思いでエリーゼは立ち上がり、部屋の灯りを点けた。電話をして救急車を呼んだ。頭が混乱して、英語がうまくしゃべれなかった。電話の後で、アキラが血だらけで床に倒れているのを見ても、応急処置すらできなかった。ただ横に座って、声を上げて泣いているだけだった。

 救急車がやって来て、アキラを病院へ運んで行った。警察が来て、部屋を調べて帰った。誰もいなくなった部屋で一人、エリーゼはずっと泣いていた。


(続く)

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