第5章 光の導き (前編)

 別のある日。

 エリーゼは一人でエプソムへ行くことになった。定期的に鑑定を依頼してくる、美術・骨董品の蒐集家からの依頼だ。去年も行ったのだが、その時はアキラに「付いて行った」だけで、エリーゼは何もしなかった。ただ、本当に雑多なコレクションだな、と思っただけだった。

 その時は、2日に分けた。1日目は下見、2日目に鑑定というスケジュールだった。エリーゼが感じたとおり、種類がバラバラでしかも珍品揃いなので、さすがのアキラでもその場で判断できないものがあるのだ。だから下見をして、調べ物をして、それから結果を出すということになる。

 今回はエリーゼが一人でその下見に行った。半分顔を忘れかけていた蒐集家に会って、鑑定する品々を見せてもらう。絵画が十数点、アンティークの大型オルゴール、大理石の鷹の彫刻、チェス駒とチェス盤、明朝の磁器、日本の甲冑、いろいろなメーカーの懐中時計など、全部で24点。

 エリーゼの仕事は、それらをよく見ること、そして色々な角度から写真を撮ることだった。「見る」のはたぶん、真贋はわからなくても雰囲気を感じ取ってみよというアキラからの配慮だと思う。そして写真はもちろんアキラに見せるため。

 さらにアキラから注意されたことが二つあって、「蒐集家の話を聞くな」と「鑑定品に触るな」。前者は、蒐集家は色々と能書きを言うに決まっているので、それが先入観にならないようにということだろうし、後者は触って傷でも付けたら大変だからだろう。

 しかし、画家や作家の名前、いつの時代の作品かくらいは聞いておかなければならない。それらを蒐集家から聞き取りながらタブレットにメモし、その他の能書きは聞き流す。それから写真を撮る。絵画はエリーゼの知らない画家の作品ばかりなので、後で名前と主な作品くらいは調べておく必要がある。

 全てを写真に収めて、次に鑑定に来る日を決めてから、辞去した。しかし、どうも途中からエリーゼの心の中に、違和感が発生していた。一体何なのだろう? それはおそらく、見てきた品の中にあると思われるのだが、それがどれかがよくわからない。帰りの列車やバスの中で写真を一通り見返してみても、やはりわからなかった。

 事務所に戻ったが、アキラはいなかった。ヤードのゴドフリー警部に朝から連れて行かれたのだ。ルイシャムの強盗事件と言っていた気がするが、詳しくは教えてもらっていない。もちろん、情報は後で教えあうことになっているけれど。

 2時過ぎになってアキラが戻ってきたが、ちょうど訪問者があって、鑑定依頼をいくつか受けた。5時になってから、ようやく蒐集家の鑑定品の写真をアキラに見せた。エリーゼは、アキラが写真を見る様子を、じっと見つめていた。さっきの違和感のせいだ。

 もしかしたら、アキラも写真を見ているときに何か反応を示すかもしれない。そうしたら、その写真をもう一度見て、自身の違和感の原因を確かめよう……

 アキラはタブレットのメモと写真を交互に見ていたが、写真はどれも一瞬しか見ていないようだった。しかし、ほんのわずかでも違う反応はないか? エリーゼはいつも以上にアキラを注視していた。もちろん、アキラはそれに気付いているはずだが、いつもどおりの態度だった。

 その注視の中で、アキラの指先が一瞬止まって、少し違う動きを見せた。一度だけ、逆方向にフリックしたのではないか? つまり、次々に写真を見ていく中で、1枚だけ前の写真を見直したのではないか……

 メモと写真を全て見終わった後で、アキラはタブレットをエリーゼに返してきた。しかし、何も言わなかった。それでもエリーゼは、アキラが何の写真を見直したのか、知りたかった。ただし、アキラには何も訊かずに。

「ルイシャムの件は、もう少し後で聞くことにしてもいい?」

「では、夕食の後にしよう」

 今日はアキラが夕食の当番だった。夕食を一緒に摂るときは、2階を使うことにしていた。

 アキラがキッチンへ行っている間に、エリーゼはタブレットの写真を見た。アキラが手を止めた写真が、何番目かはちゃんと数えていた。それはチェス駒とチェス盤だった。そしてそれを見た瞬間に、エリーゼの頭の中に違和感が蘇ってきた。これだったのか!

 しかし写真をじっくりと観察しても、何がその違和感の正体なのかはわからなかった。テーブルはヴィクトリア朝のマホガニー製で、天板がチェス盤になっていて、そこに象牙の駒が初期配置で並んでいる。駒は白と黒ではなく、白と赤だった。

 昔のチェス駒は木や石や象牙で造り、白でない方を赤く着色していたらしい。古いものではその着色が剥げていたりすることも多いが、窪みの部分に塗料が残っているのでわかる、と蒐集家は言っていた。事実、そのチェス駒もそういう代物だった。

 もちろん、赤であることが違和感の原因ではないし、色が剥げていることでもない。駒のデザインは人をモチーフにしているが、その表情が滑稽であるからでもない。では、何だろう?

 エリーゼ自身は、チェスのことはよくわかっていない。しかし、ダイスと一緒にヨーロッパを巡っているときに、チェスプレイヤーや盤駒の蒐集家には何人か会ったことがある。ロンドンでも、確か去年、鑑定依頼が2件あった。

 わかっているのは、駒の並べ方と動かし方、チェスの強豪がヨーロッパの一部の国で神の如く崇められていること、アンティークな盤駒の中には途方もない価値のものがあること。その三つだけだ。

 今日の蒐集家は、このチェスセットはかなりの価値があるに違いない、と言っていた。どこかの田舎のオークションでの掘り出し物であるらしい。解説に特に力が入っていたようにも思う。しかし、その写真をどれだけ見ても、あるいは前後の写真を見返しても、エリーゼの違和感の正体は不明のままだった。

 それでしかたなく、夕食の後でアキラに訊いてみた。

「ルイシャムの話の前に、一つ訊いていい?」

「もちろん」

「今日、私が見てきたチェスのテーブルと駒って、偽物かな?」

「偽物ではないが、欠陥品である可能性が高い」

 アキラのその答えは予想とは少し違っていたが、エリーゼの違和感は当たっていた、ということになる。

「欠陥って?」

「それは実物を見ないとわからない」

 しかし、何かしら問題があるのは、写真からでも感じたということになる。エリーゼは本物から感じたが、それは一体なぜだろうか。

 もう一度、タブレットの写真を見てみる。テーブルやチェス盤に傷があるわけでもなく、駒が割れたり欠けたりしているのでもない。もしかしたら、駒の配置が間違っているのかと思って見直してみたが、それもない。白はクイーンが左でキングが右、赤はその逆のはず……

「何か変だと思ったんだけど、何が変なんだろう……」

「彼は、それに欠陥があることを知っている。だから大事にしていない。君はそれを感じたんだろう」

 そうだっただろうか。彼の説明は一番熱心だったはずなのに。それとも、それが逆に空々しく感じたということ?

「でも、アキラはここで写真を見ただけでわかったんだよね」

「君も現地でそれを見て気付いたはずだ」

 たぶん、そうなのだろう。見ながら、あるいは写真を撮りながら、違和感がじわじわと湧いてきたのに違いない。どこかしら不安定というか、不自然なのだ! チェスに関して素人同然のエリーゼから見ても……

「駒の並べ方を、もう一度思い出してみればいい」

 アキラは言ったが、それはさっき確かめた。白はクイーンが左でキングが右……それとも、クイーンとキングの駒を取り違えているのだろうか。いや、合っているみたいだし、それじゃあ、何が……あれフッフ? あれ、あれ?

「ホップラ!」

 思わず声が出てしまった。白のクイーンが白のマスにない!

 そうだ、盤は右の隅が白になるように配置して、白を持つ先手は左から4番目の白いマスにクイーンを置いて、その右隣にキングを置いて……なのに、写真のクイーンは赤いマスに置かれている。つまり盤が、いやテーブルが、90度回転しているのだ。いくら何でも、蒐集家がこんな間違いをするはずがない。

「どうしてこんなことしてるんだろう……」

「知らない。しかし、それを大事にしようと思っていないのはわかる。鑑定の時に触ったらテーブルが倒れるのか、それとも駒を持ち上げた瞬間割れるのか……」

なぜヴァルム? なぜフヮイ彼がそんなことするの?」

 ついドイツ語が出てしまったので英語で言い直したが、アキラの言っていること自体がわからなかった。鑑定品に触るなと言った理由だけはわかったが……

「彼はオークションで欠陥品を掴まされると、そういうことをよくやる。こちらのせいで壊れたことにして、弁償させたいんだろう。今までに引っかかったことは一度もないが」

「何なのよ、それ!? 悪人じゃないの! 今回の依頼も断ったら?」

「いろいろな点で修練になるので続けた方がいいと判断している」

 鑑定するのが珍品であるだけでなく、そういう騙しのテクニックの参考にもなるということだろうか。アキラはどうしてこうも用心深く、なおかつしたたかなのか……

 しかし、今のやりとりで一つわかったことがある。エリーゼが訴えた違和感に対して、アキラは答えを言わなかった。ヒントだけを言って、エリーゼに自分で考えるように促した。アキラはそうすることでエリーゼを導こうとしているのだ。

 ならば、エリーゼはそれに付いて行かなければならない。それには今みたいにして、違和感を突き詰めて考えていくことがきっと大事なのだ。


(続く)

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