第4章 ロンドンの二人 (後編)

 車に乗っている間に、ノートン警部から事件の概要を聞く。

「昨夜のおそらく夜半に賊が侵入した。侵入経路はわかっているが、警備システムがなぜ切られていたのかはまだわかっていない。それはもちろんこちらで調べる。盗まれたのは6階フィフス・フロアの『アッシュクロフト卿ギャラリー』にある勲章。根こそぎではないが、特に価値の高い物ばかりを狙ったようだ。受章者ごとにガラスケースに入っているが、それを一つずつガラス切りで割って、中身を盗んでいった。足跡も調べているが、おそらく3人組だろうと考えている。遺留物もこちらで探して、髪の毛などがあればもちろんDNAの採取をするのだが、その他に鑑識が見落としていそうなことがあれば指摘してもらいたい」

 何が盗まれたかはともかく、法医学フォレンシックサービスでできないことを依頼してくるのも、いつもどおりだった。エリーゼは後席でアキラの横に座りながら、今日も何もすることがないのかな、とぼんやりと考えていた。

 ものの十分ほどで現場に着いた。帝国戦争博物館インペリアル・ウォー・ミュージアムと呼ばれる場所はイングランド内に五つあって、この「IWMロンドン」の他は、テムズ川に浮かぶ軽巡洋艦ベルファスト内、大蔵省庁舎地下のチャーチル博物館内、そしてマンチェスターとダックスフォードにある。

 中に入り、リフトで6階に上がると、アッシュクロフト卿ギャラリーがある。実業家で政治家のマイケル・アッシュクロフト卿が500万ポンドを寄付し、2010年にその名前を付けて開設された。ヴィクトリア十字章クロスとジョージ十字章クロスが200以上収められている、らしい。残念ながらエリーゼは見に来たことがない。

 中に入ろうとしたら、入り口横の壁の「THE LORD ASHCROFT GALLERY」の表示に落書きがあるのが見えた。"ASHCROFT"の"CROFT"を横線で消して、その上に"es to ashes"とあまりうまくない筆記体で書いてある。ノートン警部はドアの前に立って、まずドアを見てくれ、と言いたそうな感じだったが、アキラは壁の落書きの方を見ていた。もちろん、エリーゼもそちらの方が気になる。

「ああ、それか。失礼なことをする賊だ。『灰は灰にアッシュズ・トゥ・アッシュズ』という言葉に変えていったようでね。おおかた、戦争の勲章なんて灰にでもなればいい、というつもりなんだろう。盗んだのも売りさばこうというんじゃなくて、焼却処分するつもりなのかもしれんと睨んでいるんだがね。それが何か証拠になりそうか? 筆跡鑑定に使うには短すぎるだろう」

「筆致に癖がある。何か引っかかる気がするが……」

 アキラはしばらく睨んでいたが、「後で何とか思い出してみる」と言ってノートン警部の方に向き直った。

 エリーゼも、確かに何となく気になる字体だと思った。しかし、自分でもなぜ気になるのかよくわからない。それを見ている間に、アキラがドアを調べていた。匂いは残っているが、記憶にない、と言っているようだった。どれくらいの人の匂いをアキラが憶えているのか、エリーゼは知らない。

 ギャラリーの中に入る。警部が言ったとおり、個々の展示ケースがガラス切りで割られている。アキラは次々とそれを見て回ると、警部に言った。

「賊は男4人。少なくとも一人は左利き」

「我々が考えているより一人多いな。根拠を聞かせてくれるか」

「ガラス切りが3種類あった。切り口が全部違う。ダイアモンドの特徴によるものだろう。それと、ガラス切りの使い方の癖も3種類あった。そのうち一つは左利きの切り方」

「それで3人だ。もう一人は?」

「入り口の辺りに立って、見張りをしながら、他の3人がケースから取り出した勲章を集めていた」

「それは足跡からか?」

「それと匂いも」

「足跡は後で我々の鑑識結果と照合しよう。他にわかることは?」

「ガラス切りの使い方がそれなりの腕なのと、靴はり減りのない新しいものを履いているから、おそらく前科がある」

「国内で他に似たような手口があるか調べよう」

「できれば海外も」

「やってみよう。他には?」

「逆に一つ訊きたいが、ヴィクトリア十字章クロスは全部盗まれた?」

「うん、そのようだ。つまり主目的は全部のヴィクトリア十字章クロスを奪うことで、その他のはケースを開けたついでに盗っていった、ということだろう。それが何か?」

「狙うケースに迷いがない。足跡からわかる。手際がよくて計画的だと思っただけ」

「一度は下見に来ているんだろうな。防犯カメラの過去の映像を調べよう。昨夜はカメラどころかセンサー類が根こそぎダウンしているんだ。よほど入念に下見をしたか、あるいは職員に内通者がいるのかもしれんと考えてるよ。ヘイ、アキラ、もう終わりか?」

 アキラがいきなりドアの方へ歩き出したので、ノートン警部が声をかけた。エリーゼは慌てて追いかける。アキラは入り口の横の、あの落書きをもう一度見ていた。気になることがあるようだったが、それを思い出そうとしているらしい。

 エリーゼも見ながら考えていた。知らないうちに、額に右手の指を当てていた。自分でなぜそうしているのかわからなかったのだが、考えていることがそこに集まってくる気がしたのだろうか。

 そしてとりとめもなく考えているうちに、突然、閃いたことがあって「ホップラ!」と小さく叫んだ。それはまさに天啓エピファニーを得たかのようだった。

「どうした?」

 ノートン警部がエリーゼに言った。投げやりな口調だったので、アキラの考えの邪魔をするなとでも指摘したかったのだろう。

「"t"が……この"t"の筆記体シュライプシュリフトは……以前のドイツ民主共和国D D Rの人がよく使ってるの」

 筆記体を表す英語が思い出せなかったが、それはこの際どうでもいい。普通の筆記体では"t"の横線クロスは、縦線の上の方で交わらせる。もちろん、後で書いて。しかし、この落書きの"t"の横線クロスは、縦線の下端の少し左から右斜め上に向けて引かれている。横線クロスを後から書かず、上から下に降ろしてきた縦線に続けて書けるようにしたものだ。

 昔のドイツ民主共和国の、何とかいうデザイナーが考えた字体が元になっていて、ドイツ東部の人は今でもこの"t"を書く人が多い、と学校で習った気がする。習ったのは読むためであって、自分が書くためではなかったが。

 ノートン警部はエリーゼと落書きを見比べた後で、驚いたように言った。

「単に横線クロスを省略したのかと……そういう弱い"t"を書く者は今でもよくいるからな。しかし、そうすると、犯人の一人はドイツ人? 『灰は灰にアッシュズ・トゥ・アッシュズ』なんて書いているから、イングランド人と思っていたが……」

 イングランド国教会の祈祷書の一節に『土は土にアース・トゥ・アース灰は灰にアッシュズ・トゥ・アッシュズ塵は塵にダスト・トゥ・ダスト』とあり、主に葬儀の時に使われる言葉で、普通はイングランドのみで使われる。だが、そのうちの『灰は灰にアッシュズ・トゥ・アッシュズ』は小説、映画、TV番組、楽曲のタイトルにもよく使われるので、イングランド人以外にも知られている可能性は高い。

「ドイツ人か。なるほど、犯行の手口とよく合う」

 アキラが呟いた。それに続けてノートン警部が「やはり他の国にも問い合わせた方がよさそうだな」と言った。

「他のところでもこんなふざけた落書きを残しているかもしれない。この癖は特徴的だから、筆跡と比べることもできるだろう。いい情報だった。ありがとう。二人の協力に感謝する」

 ノートン警部からの謝意は珍しいことではなかったが、「二人のユー・トゥー」と言われたのは初めての気がする。もちろん、アキラだけでなくエリーゼにも感謝すると言っているのだ! それがわかってうれしい、と思っていたら、そこに付け足しがあった。

「Very good job.」

 エリーゼの目は見てくれなかったが、アキラがはっきりとそう言ったのだった。「グッド・ジョブ」は何度もあったが、「Very」が付いたのは初めて……だったと思う。うれしいはずなのに、なぜだかエリーゼは呆然としていた。


(続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る