第4章 ロンドンの二人 (後編)
車に乗っている間に、ノートン警部から事件の概要を聞く。
「昨夜のおそらく夜半に賊が侵入した。侵入経路はわかっているが、警備システムがなぜ切られていたのかはまだわかっていない。それはもちろんこちらで調べる。盗まれたのは
何が盗まれたかはともかく、
ものの十分ほどで現場に着いた。
中に入り、リフトで6階に上がると、アッシュクロフト卿ギャラリーがある。実業家で政治家のマイケル・アッシュクロフト卿が500万ポンドを寄付し、2010年にその名前を付けて開設された。ヴィクトリア
中に入ろうとしたら、入り口横の壁の「THE LORD ASHCROFT GALLERY」の表示に落書きがあるのが見えた。"ASHCROFT"の"CROFT"を横線で消して、その上に"es to ashes"とあまりうまくない筆記体で書いてある。ノートン警部はドアの前に立って、まずドアを見てくれ、と言いたそうな感じだったが、アキラは壁の落書きの方を見ていた。もちろん、エリーゼもそちらの方が気になる。
「ああ、それか。失礼なことをする賊だ。『
「筆致に癖がある。何か引っかかる気がするが……」
アキラはしばらく睨んでいたが、「後で何とか思い出してみる」と言ってノートン警部の方に向き直った。
エリーゼも、確かに何となく気になる字体だと思った。しかし、自分でもなぜ気になるのかよくわからない。それを見ている間に、アキラがドアを調べていた。匂いは残っているが、記憶にない、と言っているようだった。どれくらいの人の匂いをアキラが憶えているのか、エリーゼは知らない。
ギャラリーの中に入る。警部が言ったとおり、個々の展示ケースがガラス切りで割られている。アキラは次々とそれを見て回ると、警部に言った。
「賊は男4人。少なくとも一人は左利き」
「我々が考えているより一人多いな。根拠を聞かせてくれるか」
「ガラス切りが3種類あった。切り口が全部違う。ダイアモンドの特徴によるものだろう。それと、ガラス切りの使い方の癖も3種類あった。そのうち一つは左利きの切り方」
「それで3人だ。もう一人は?」
「入り口の辺りに立って、見張りをしながら、他の3人がケースから取り出した勲章を集めていた」
「それは足跡からか?」
「それと匂いも」
「足跡は後で我々の鑑識結果と照合しよう。他にわかることは?」
「ガラス切りの使い方がそれなりの腕なのと、靴は
「国内で他に似たような手口があるか調べよう」
「できれば海外も」
「やってみよう。他には?」
「逆に一つ訊きたいが、ヴィクトリア
「うん、そのようだ。つまり主目的は全部のヴィクトリア
「狙うケースに迷いがない。足跡からわかる。手際がよくて計画的だと思っただけ」
「一度は下見に来ているんだろうな。防犯カメラの過去の映像を調べよう。昨夜はカメラどころかセンサー類が根こそぎダウンしているんだ。よほど入念に下見をしたか、あるいは職員に内通者がいるのかもしれんと考えてるよ。ヘイ、アキラ、もう終わりか?」
アキラがいきなりドアの方へ歩き出したので、ノートン警部が声をかけた。エリーゼは慌てて追いかける。アキラは入り口の横の、あの落書きをもう一度見ていた。気になることがあるようだったが、それを思い出そうとしているらしい。
エリーゼも見ながら考えていた。知らないうちに、額に右手の指を当てていた。自分でなぜそうしているのかわからなかったのだが、考えていることがそこに集まってくる気がしたのだろうか。
そしてとりとめもなく考えているうちに、突然、閃いたことがあって「ホップラ!」と小さく叫んだ。それはまさに
「どうした?」
ノートン警部がエリーゼに言った。投げやりな口調だったので、アキラの考えの邪魔をするなとでも指摘したかったのだろう。
「"t"が……この"t"の
筆記体を表す英語が思い出せなかったが、それはこの際どうでもいい。普通の筆記体では"t"の
昔のドイツ民主共和国の、何とかいうデザイナーが考えた字体が元になっていて、ドイツ東部の人は今でもこの"t"を書く人が多い、と学校で習った気がする。習ったのは読むためであって、自分が書くためではなかったが。
ノートン警部はエリーゼと落書きを見比べた後で、驚いたように言った。
「単に
イングランド国教会の祈祷書の一節に『
「ドイツ人か。なるほど、犯行の手口とよく合う」
アキラが呟いた。それに続けてノートン警部が「やはり他の国にも問い合わせた方がよさそうだな」と言った。
「他のところでもこんなふざけた落書きを残しているかもしれない。この癖は特徴的だから、筆跡と比べることもできるだろう。いい情報だった。ありがとう。二人の協力に感謝する」
ノートン警部からの謝意は珍しいことではなかったが、「
「Very good job.」
エリーゼの目は見てくれなかったが、アキラがはっきりとそう言ったのだった。「グッド・ジョブ」は何度もあったが、「Very」が付いたのは初めて……だったと思う。うれしいはずなのに、なぜだかエリーゼは呆然としていた。
(続く)
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