第6章 黒鷲暗号

 翌日の早朝、総領事館へ出勤したブルーノは、こっそりと勲章をすり替えておいた。もちろん誰にも気付かれていないはず。

 昼頃、ブルーノの元にエリーゼから電話がかかってきた。業務中だったので声を忍ばせて話したが、仕事が終わったら探偵事務所に来いとのことだった。暗号が解けて、イレーヌ……スミ一等書記官が無罪放免されるような情報が出て来たのだろうか。

 午後からはそれが気になって、仕事が手に付かなかった。5時になって早々に退出した。地下鉄を乗り継ぎ、コスモスクエア駅からはまたタクシーに乗って、エリーゼの事務所へ。鉄製の階段を、ガンガンと音を立てて駆け上がり、白いドアをノックした。

ヴェア?」

 なぜかドイツ語で問いかけ。「ブルーノ・クラムだエス・イスト・ブルーノ・クラム」と言うと、ドアが細めに開いて、目をしかめたエリーゼが顔を覗かせた。

少しお待ちをヴァルテ・アイネ・ミヌーテ

 ドアが閉まって、また開いて、「どうぞお入りなさいビッテ・コム・ヘライン」。

「暗号が解けたのか?」

 中に入るのももどかしく、そう言ったが、ソファーに女性が座っているのが見えた。一昨日以来、二度も会っているフラウ・利津子・砂辺だ。彼女はまだ、この件に何か関係があるのだろうか。

「ブルーノ、どうぞ気にせずお座りなさい。リッちゃんはこの件でたくさんお手伝いしてくださったので、私の推理を聞く権利があると思ってお呼びしたのです」

「しかし、外部に漏らさないよう頼んだのに……」

「これは秘扱いするようなものでないからですよ。70年以上も前の暗号文書が、アイリちゃんに関係するはずないではありませんか」

「70年以上前だって?」

 ブルーノは聞き返したが、エリーゼは何も言わず、手振りでソファーを勧めてくる。訳がわからないながらも、利津子の横に座って聞くことにした。

 座ると、隣の利津子が微笑みながら優雅に頭を下げる。日本の女性らしい仕草だと思う。ブルーノも、釣られて頭を下げてしまった。

「さて、暗号の解読についてです」

「ドイツ語でいいのか?」

何ですってヴァス?」

「フラウ・砂辺がいるのに……」

 これまで彼女か、他の女性がいる時は、ブルーノのことをそっちのけで、日本語で話していたではないか。なぜ今日はドイツ語なのか。

「構わないのですよ。リッちゃんは、ドイツ語の聞き取りができます。それに、暗号の解き方を話すのに、それほど難しいドイツ語は必要ありません。至って数学的な手順で解くのですからね」

「そういうものかね」

「さて、暗号の解読についてです」

 エリーゼが、さっきと同じことを言い直した。それから、デスクのところに行って、紙を持ってきた。ブルーノと利津子に1枚ずつ配る。勲章のデザインが、至って簡略化されて描かれていた。八つの稜を持つ星型と、中央で弧を描く"Suum Cuique"の文字だけだ。鷲すら描いていない。

「暗号は、やはり黒鷲勲章に関係がありました。勲章に暗号が書かれているというわけではありません。ただの鍵なのです。そのデザインが関係しています。"Suum Cuique"と書いてありますね。Sは、どこにありますか?」

「どこって……左の稜の付け根だろう」

 八つの稜のうちの、一番左。時計の文字盤なら、9に当たる位置だ。地図の方位マークなら西。

 そこから、半円を描くように"Suum Cuique"。途中のCは文字盤の12、あるいは方位なら北のところ。最後のeは文字盤の3、方位で東の位置。これに何か意味があるのか。

「それが、S=1の意味です」

「…………」

「1247は、そこから右回りに数字を振るということを意味しています。ブルーノ、昨日あなたが、描いて教えてくれましたね? まさにそのとおりだったのですよ。ただ順番どおり、1472と書くとあまりにもあからさまなので、1247としたのです。逆回りなら、1→6→3→8を並べ替えて1368とでも書くのでしょう」

「それで?」

「"Suum Cuique"と同じように、アルファベットを円形に並べていきましょう。ただし、稜に一つずつとします。Sから始まってZまで、ちょうど八つです」

「…………」

「そしてこれに数字を割り当てます。ただ、ブルーノが昨日描いてくれたように、時計回りにするとアルファベットの順と一致してしまいますので、1はそのままとして、次の4に当たるところを2番目とします。次の7が3番目です。言葉で説明するとわかりにくいので、図にしましょう」


      7

   4  U  2

    T   V

  1S     W5

    Z   X

   6  Y  8

      3


「並べ方はこれでわかりやすいですが、対応関係がわかりにくいですね。数字の順に並べ替えると、こうです」


  1 2 3 4 5 6 7 8

  S V Y T W Z U X


「なるほど、この数字を使って暗号文を文字に置き換えるのか」

「そうです。ちょうどZで終わったので、次はAから8文字を取り出して、数字を振りましょう。ただし、数字は8の次の9からです。もう図は描かなくてもよいですね?」


  9 10 11 12 13 14 15 16

  A D G B E H C F


「さらに、もう8文字」


  17 18 19 20 21 22 23 24

  I L O P M P K N


「しかし、あと2文字残るよ。それは……」

「QとRですね。25=Q、26=Rとしましょう。Rに26でない数字を使っているかもしれないのですが、本文にはちゃんと26が出てくるのですよ。違っていたら少し補正するだけです。さてその本文ですが」


  2213261813242313040413 2324 04090701132410 2621


「04や09などがあるので、2桁ずつ区切ればいいのは明白でしょう。数字を文字に置き換えると、こうなるのです」

 エリーゼが、背中に隠し持っていた紙をテーブルの上に差し出した。


  PERLENKETTE KN TAUSEND RM


 いきなり、拍手の音が聞こえてきた。隣の利津子が、嬉しそうに手を叩いているのだった。

『やっぱりエリちゃんはすごいですね! こんな複雑な暗号が解けるなんて』

『お褒めにあずかり光栄でございます。でも、これが仕事なのですよ。それに、ブルーノがうっかりヒントをくれなかったら、まだ解けていなかったでしょう』

『うっかりの使い方が間違ってるような気がしますけど』

『ホップラ! 何と言えばよかったのですかね?』

『偶然、でいいんじゃないかと』

「“真珠の首飾りペルレンケッテ”や“タウゼント”は読めるが、KNやRMというのは?」

 利津子はエリーゼを褒めているのだと思うが、まだ全てが解けていない。ブルーノは少しいらっとしながら、エリーゼを問い詰めた。

「“タウゼント”の後のRMはもちろん、単位に違いありません。ライヒスマルクだと思いますね。まさかその前の、レンテンマルクではないでしょう」

 ライヒスマルクは1924年から48年まで使われた、ドイツの通貨だ。東西に分かれてからは、西ドイツではドイツマルク、東ドイツではドイツ民主共和国マルクに置き換えられた。エリーゼが言った“70年前”とは、このことだろうか。

「では、KNは?」

「これは歴史上の出来事です。クリスタルナハトはもちろん知っているでしょう?」

 水晶の夜クリスタルナハト、あるいは帝国水晶の夜ライヒスクリスタルナハトは、1938年11月9日の夜から10日の未明にかけて、ドイツ各地で発生した反ユダヤ主義暴動だ。ユダヤ人の居住する住宅地域やシナゴーグなどが次々と襲撃され、放火され、財産が奪われた事件を言う。

 名前の響きは綺麗だが、陰惨な出来事だ。破壊された家や商店のガラスが月明かりに照らされて、水晶のようにきらめいていたところから、ヨーゼフ・ゲッベルスが名付けた、とされている。

 この事件の背景は……いや、そんなことはともかく。

「では、“真珠の首飾りペルレンケッテ”は水晶の夜クリスタルナハトで奪われた品物? それに1000タウゼントライヒスマルクの値段が付いている? ということは……」

「当然、ライヒスマルクを使っていた頃の暗号だということです。つまり、過去の盗品売買の注文書でしょう。アイリちゃんが使うはずがありません。もちろん、これが梅村の蔵にあったということから、そんなことはわかりきっていたわけですが、こうして解けばなおさら関係ないことがわかるというわけです」

「なるほど。間違った解き方で、"PERLENKETTE"なんていう単語が出てくるはずはないからな。しかし、BGSベーゲーエスの皿は、この件と何の関係があったんだ?」

 ブルーノが聞くと、エリーゼは“やれやれ”という感じで両手を広げてみせた。

「もちろん、勲章の代用品ですよ。皿の裏に型を取って、使ったのです。当時、勲章は貴重品ですからね。その皿を入手することができれば、黒鷲団の顧客になれたのではないかと思います。鷲のマークが付いた皿ですから! そして、ホーオージ博物館の資料には、ヘイゾー氏がそのことを調べて書いていたと思うのです。熱心に勲章を集めていれば、それを知る機会もあったでしょう。暗号のことを他人に自慢していたくらいです。もちろん、ずっと過去に使われたもので、今になってもまだ使われているとは思いもしなかったでしょうね」

「イレーヌ……スミ一等書記官も、ウメムラの皿を調べているうちに、ホーオージ財団に行き着いたが、途中で止まってしまったというわけか」

「おそらくそうでしょう」

「しかし、どうして黙っているんだろう」

「梅村家やホーオージ家が、過去の盗品売買に関係していた可能性を考えたのですよ。どちらも資産家です。その金で盗品売買をしていたとしたら、ドイツと日本の交流に傷が付くでしょう? 梅村家の金屏風に関する過去の素晴らしい交流、それにリッちゃんが持っていたホーオージ家の赤龍絵皿に隠された秘密を、内外に広く知らしめた後でしたからね。ドイツ人でもあり、日本人でもあるアイリちゃんは、そういう潔癖なところがあるのです」

「確かにそうだ。私も彼女のそういうところが……書記官として立派だと常々思っていたよ。しかし、彼女のところに勲章が送られてきたのはなぜだ? 彼女が黒鷲団と通じていなかったのだとしたら、誰が送ってきた?」

「もちろん、本当に盗品売買をしている人物ですよ。梅村の蔵から皿を盗み、鳥羽の別荘から皿を盗み、ホーオージ博物館から過去の資料を盗んだ人物です。それができたのは、貴光・桑名という男です。美術に造詣が深いですが、女性をたぶらかすなど、根っからの悪人です。私は一度痛い目に遭わせてやったのですが、性懲りもなくまた悪いことを企てたようですね。協力者は琴絵・羽仁。ホーオージ家の親戚で、真珠のネックレスを盗むために誘拐を企むような女性です。ただ、今回は彼女も桑名にたぶらかされたのだろうという気がしますけれど」

「そうか、盗品売買が始まったのは昨年末からだから、その男が一歩先に調べ上げていた。しかし、イレーヌ……スミ一等書記官が後を追うように調べ始めた。それに気が付いた男は、彼女に疑いがかかるように、黒鷲団の一人の名で彼女に勲章を送りつけた。そして告発文書を総領事館に送ってきた……」

「勲章を送ってきた小包の箱や、告発文書を、アキラエスクワイアに調べてもらえばよいでしょう。きっと桑名の痕跡が残っているに違いありません。4711は、桑名が着けていたのかもしれませんよ?」

「では、“わし座アクヴィラ”……いや、ワタリ鑑識で調べてもらうことにしよう。よくここまで解明してくれた。ところで、この件の依頼について、私は君にまだ依頼料も前金も払っていないんだが?」

 ブルーノが言うと、エリーゼはまた“やれやれ”と両手を広げてみせた。

「私の敬愛するアイリちゃんを救うのに、依頼料を取ることなんてできるわけがないでしょう。後で感謝の印に、懐石料理でもおごってもらえればそれでよいのです」

「カイセキ……は少し贅沢かもしれないが、考えてもらおう」

「それと、あなたとアイリちゃんの関係もはっきりさせてもらいたいですね」

「!」


(続く)

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