第5章 ミュンヘン会議

 5時半になって、領事館を退庁しかけたときにブルーノは電話を受けた。エリーゼからだった。今日の調査結果を報告するので、“ミュンヘン”へ来いと。もちろん、例のビアレストラン“New München”の梅田店だ。

 遠いのに、と思いながら店へ向かう。到着すると、エリーゼ、利津子の他にもう一人女性がいる。『うわー、ほんまにドイツ人や。めっちゃイケメン!』と大きな声で言う。とりあえず、「ドイツ人」と「イケメン」だけはブルーノにも聞き取れた。

「ブルーノに紹介しましょう。こちらはフラウ・フジコ・田名瀬です。警察官です」

「マイン・ナーメ・イスト・フジコ・ニヒト、イスト・フジエ」

 日本人独特の悪い発音だったが、言いたいことはわかる。「私の名前はフジコではありません、フジエです」。しかしどうしてエリーゼは間違った名前をわざわざ紹介するのだろう。そっちの意味がわからない。

『彼はこの春から赴任した領事で、アイリちゃんの上司に当たる人物です。とても有能な人と思いますので、お付き合いしてみますか?』

『え、そんな話あんの? うーん、でも結婚してドイツで住みましょうって言われたら苦労するような気がするから、気が進まへんなー。アメリカ人やったら考えるけど』

 テーブルには既にビールと食べ物が並んでいる。もちろん、ブルーノの分だけがない。注文をすると、エリーゼが「今日の報告をします」と言う。

 トバというところに行ってきたこと。そこにホーオージ家の別荘があり、2月にイレーヌがそこを訪れたこと。その前に怪しい人物が訪れていたこと。そこにはBGSの皿があったが、後に盗まれていたこと。怪しい人物は、以前エリーゼが事件の調査の際に作った名刺をなぜか使っていたこと、など。

 個々の事象については理解できるが、つながりがほとんどわからない。それがなぜ報告なのか。

「単純なことですよ。アイリちゃんは怪しい暗号文を見つけた。それを使いそうな人物に心当たりがあった。調べようとしたらその人物の足取りと一致した。そのせいでアイリちゃんが怪しく見えてしまうことになった。暗号文はまだ解読できていないので何が行われたのかわからない。そこで止まっているということです」

「それを警察に調べてもらうのか」

「無理ですね。犯罪が行われたという証拠がないのに、警察を動かすわけにはいきません。ここへフジエちゃんを呼んだのは、その怪しい人物の共犯者を特定するためです」

 そこへブルーノのビールが運ばれてきたので、「プロスト!」。乾杯するような喜ばしいことが、何かあるのだろうか。

『さて、フジエちゃんに聞きたいことがあります。昨年末に、美術館の館長が誘拐監禁されるという事件がありましたね。あの犯人はどうなったのでしょうか』

『どうって、うちらで確保して、奈良県警に引き渡して、そっから先はよう知らへん』

『カクホされた後でコウリュウされていますか?』

『んーとね、あれは扱いがちょっとややこしくて、拘留されてるか、ようわからへんねん。まず犯人が二人おったやん』

『はい、ストーカーと、その親戚の女性ですね』

『そう。ストーカーの目的は、館長さんその人をゲットすること。これは刑法225条の営利目的等略取及び誘拐罪に該当で、1年以上10年以下の懲役。やから拘留されてるはず。ところが女性の方な。館長さんを誘い出したんは彼女なんやけど、目的がストーカーへの引き渡しで、その後の監禁に加担してないから、営利に該当するかが微妙やねん。逮捕の罪状は、その後の窃盗未遂やったかな』

『シーカ様が持っていたネックレスを奪おうとしたことですね』

『そう。でも、それ自体は監禁の必要性がないやん。単に館長さんが遠くへ行って、すぐに帰って来られへん状況を作ればええだけで。それで、絵を見せるからっていう理由で連れ出して、実際に絵を見せてんねん。嘘はついてへん。そやから、ストーカーが監禁するとは思ってなかった、誘拐の共犯には当たらへん、って言い逃れしたかもしらへん』

『なるほど、状況的には彼女が主犯と思えるのですが、優秀な弁護士にかかればどうなるかわかりませんねえ』

『そやねん。それで、誘拐の共犯やない、しかも窃盗未遂っていうことになると、懲役でも執行猶予がつくか、下手したら罰金で終わってる可能性もあるねん』

『盗もうとしたネックレスは30万円以下のものですからね』

『そういうこと。でも、奈良県警にも吉野の所轄にも知り合いがおらへんから、聞くんやったら門木さんに頼まなあかんけど、頼みたくないなー』

『よくわかりました。私は吉野の警察署に協力して表彰されたので、事件がその後どうなったか教えて欲しいと聞いてみたのですが、教えてくれなかったのですよ』

『犯罪者にも人権があるから、どんな罪に問われたかは、なかなか教えてくれへんのよ』

『そこでフジエちゃんにお願いがあるのですが、その女性の写真は手に入りますかね?』

『えー、あかんあかん。犯罪者の情報を漏らしたら、私が懲戒になってしまうやん』

『そうですね。そんなことになったらフジエちゃんが可哀想ですから、やめておきましょう。しかしそうなると、どうやって写真を入手すればいいのか』

『どうして写真が必要なんです?』

 それまでエリーゼとフジエという女性警察官がずっと話していたのだが、利津子が割り込んできた。何が話されているのか、ブルーノにはさっぱり理解できない。ただひたすら食べたり飲んだりするだけだ。

『ホーオージ私設博物館の館長と、鳥羽の別荘の人たちに見せて、確認してもらうのですよ』

『今日、鳥羽でやったように、言葉で説明すれば?』

『私はその女性の顔を知らないのですよ。名前だけを知っているのです。フジエちゃんは顔を憶えているのですがねえ』

『ううん、もう忘れた。だってウチのヤマやないし』

『ホップラ! そうなると、あそこにしかありませんか。仕方ないですね、何とかしましょう』

『あそこってどこやの?』

『秘密です。さて、問題は暗号です。まだ解き方がわかっていないのですよ』

 エリーゼはそこで久々にブルーノの方を見て「問題は暗号です。まだ解き方がわかっていないのですよ」と言った。この場にブルーノを呼んでおいて、簡単な報告の後はずっと日本語で話していたので、ブルーノは少し不満に思っていた。調査の依頼を受けたのだから、報告の義務というのがあるのではないか。

 しかしよく考えたら、エリーゼにはまだ前金も払っていない。報告以前に、ブルーノに依頼者としての権利があるのかどうかも不明だ……

「それが一番肝心なことなのに、どうして他のことばかり調べてるんだ?」

「簡単なことです。真犯人を見つけ出せば、アイリちゃんの疑いが晴れるからですよ。それが誰かはわかりましたから、後は警察の問題です。これで私は暗号に集中できます」

「何か手がかりくらい思い付いてないのかね」

「解き方の鍵は、勲章にあるはずなのです。あの星のような形と関係しているに違いありません。例えば星の書き順のような。しかし、あの勲章が、この星のように単純であったらよかったのですが」

 エリーゼがビールグラスを見ながら言う。ブルーノのはジョッキだったが、エリーゼのは持ち手がない、普通のタンブラーグラスだった。しかし、絵柄は同じ。醸造所ブリュワーのものと思われるロゴと文字が入っている。黒い★、その上に"SAPPORO"の文字、下には"DRAFT BEER"。文字はどちらも弧を描くように書かれている。勲章のデザインと似ていなくもない。

「書き順というのは?」

「例えばこの星型は、一筆書きできますね。ああ、こんな風に塗りつぶした星ではありませんよ。かと言って、中が真っ白の星でもない。5本の線で、星型が書けるでしょう。あの書き順のことです」

 エリーゼが指先を宙で動かす。上から左下に行って、右の中程に行って、左に行って、右下に行って、上へ戻る。それはブルーノの方から見た順であって、エリーゼ自身は上から右下へ向けて、つまり“右回り”で書いただろう。

「勲章の星型も、一筆書きできるのでは?」

「八つの角を持つ星型ですから、四角形を二つ組み合わせるのです。一筆書きするには一つの四角形を書く途中で、もう一つの四角形に割り込まないといけません。しかし、それでは書き順が特定できません」

「何言ってるんだ。簡単にできるよ」

何ですってヴァス?」

 エリーゼがカラアゲを口に咥えて、不審そうな目でブルーノを見る。本当に気付いていないのだろうか。

 ブルーノはジャケットの内ポケットからペンを取り出し、書くものを探した。手を拭くための紙ナプキンしかない。そこに、時計盤のように数字を円形に書いていく。ただし一番上が1、円周を8等分して、最後は8だ。エリーゼが覗き込む。つられたように利津子とフジエも目を向ける。

「勲章の形状である八芒星アハターシュテルンの稜は、直角じゃない。何度かはっきり知らないが、鋭角だ。その形を書くには、まず1から4に線を引く」

 紙ナプキンに書いた数字の、1から4に向かって線を引く。

「次は7。以下同様に、三つおきにつないでいく。だから、次は2で……」

 結局、1→4→7→2→5→8→3→6とつないで、1に戻る。八つの稜を持つ星型が描き上がった。

『わあ、きれいな星型。こんなにいっぱいがあるのも、一筆書きできるんや』

『本当、きれいですね。地図に描いてある方位マークのようです』

 フジエと利津子が口々に言っているが、おそらく感心しているのだろうと思う。エリーゼはまだ紙ナプキンを見つめている。しかし、目の焦点が合っていない?

 咥えていたカラアゲが、ポットリと落ちた。前屈みになっていたおかげで、顔の下にあったカラアゲのカゴが、ちょうど受け止めた。

何てことアルター・シュヴィーデ……」

 エリーゼは誰に言うともなく呟いたが、しばらくすると顔を上げてブルーノを見た。表情が全くない。服屋のマネキンでももう少し表情が豊かだろうと言いたくなる。

「なぜ、気付いているのに、気付かないのです?」

何だってヴァス?」

「これがわかっていれば、暗号などあっという間に解けたはずではありませんか。いや、あなたは暗号の作り方がどういうものか、わかっていないのですね。私はわかっているのに、勲章をよく観察していなかったのですよ。私の失策でした。ウェイターを呼んでください」

「何をするんだ?」

「ビールとカラアゲのお代わりを注文するに決まっているではないですか。ただし、ここは私のおごりではありませんよ。割り勘レヒヌンク・タイレンです」

「割り勘はどうでもいいとして、お代わりを注文すると暗号が解けるのか?」

「いいえ、家に帰ってから解きます。解けるに決まっています。今からその、前祝いをするのですよ」

 それから日本語に戻って、利津子とフジエに言った。

『事件は間もなく解決しますよ。リッちゃん、手伝っていただいてありがとうございました。この後、カラオケはどうです?』

『私、最近の歌を知らないんですよ。10年くらい前のヒット曲でよければ歌いますけど』

『はーい、私も行きまーす。その前に、唐揚げもっと食べたい。ここのん、やっぱりめっちゃおいしいわー』

『どんどん食べてください。ビールも注文してください。でもお代は全部自分で払ってくださいね』

『えー、事件が解決するから、おごってくれるんとちゃうの』

『今までそんなことが一度でもありましたか? オウ、いい考えがあります。この事件を解決するのはアイリちゃんを助けることになりますから、後で彼女におごってもらいましょう。豪華な懐石料理を食べてみたいですね。日独友好のために』

『やったー、私も呼んでなー』

『よく考えたら、外交官が公務員に接待するのは禁止されているのではないですかねえ』

 何だか女性ばかりで盛り上がっているようなので、ブルーノはビールを飲んだら帰ろうと思った。くやしいが、日本のビールはおいしい。


(続く)

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