第4章 伊勢二人旅 (後編)
大阪へ帰る近鉄特急の中で、利津子は鳳凰寺財団の、別荘を管理している部門に電話をした。昨年12月24日から鳥羽の別荘に1泊した、岡田利津子と鳥羽太郎を紹介した職員は誰か?
しかし、該当の職員はいない、という答えが返ってきた。財団の紹介として泊まるには、財団専用の予約用電話番号で別荘に直接申し込めばよく、“鳥羽太郎”は宿泊者が確定しないときに使う仮押さえ用の名前だというのだ。
つまり、誰かはわからないがその人物は専用の電話番号を知っていたのであり、財団の内部事情に詳しい人間のはず、ということになる。桑名は財団と関わりがあるのだろうか。
「財団の適切な部門に直接聞いてみた方がいいですね。電話だときっとたらい回しにされてしまいます」
「よろしくお願いします。今回はリッちゃんがいて大助かりですよ」
「エリちゃんのお役に立てて嬉しいですよ。何だか私まで探偵になった気分です」
「リッちゃんが一人で解決してしまったら、私の立ち位置がありませんねえ」
「それを言うなら立場ですよ」
「ホップラ!」
幸いにして鳳凰寺財団の本部は難波のすぐ北、心斎橋にある。近鉄特急を大阪難波駅で降りて、利津子とエリーゼは財団本部へ向かった。
一面ガラス張りの立派なビルに入り、受付で利津子が理事の肩書きの付いた身分証明書を見せて、まずは人事部門へ行く。
若い理事の訪問に驚く人事担当者に、桑名貴光が財団と関係しているかを調べてもらったが、「ない」という明白な答えが返ってきた。
「ちなみに、梅村すみれさんは? 梅村製薬のご令嬢なのですが」
「その名前は名簿にありません。梅村製薬の会長さんや社長さんは賛助会員の名簿に載っていますが、これは名目だけというか、スポンサーのようなもので」
「会長さんや社長さんや、その代理の方が、財団に連絡してくるということはないんですね?」
「はい。こちらから案内を差し上げるときは書簡ですし、その応答も書簡だけです。詳しくは総務部門に……」
総務部門の担当者を紹介してもらい、確認したが、そのとおりだった。
「行き詰まってしまいましたね」
探偵気分になって張り切っていた利津子は少ししょげてしまった。しかし笑顔を取り戻したエリーゼが、顔の前に人差し指を立てながら言う。
「まだもう一つ、手がかりがあります。あの偽名ですよ。あそこだけでなく、他でも使ったと思うのです。偽名であっても統一した方が、間違いが少ないですからね」
「どこで使ったんでしょう?」
「西洋美術史研究家ですから、最適なところがあるでしょう。鳳凰寺私設博物館です」
「なるほど!」
そこで総務部門の担当者に、博物館の管理部門の担当者を紹介してもらい、さらにその人の紹介で博物館への訪問を取り付けた。
時刻は4時半。博物館は中之島にあり、閉館は5時なので、急がねばならない。地下鉄に乗って駆けつける。
5時前に着いたが既に館長は不在で(名目だけの館長なのでほとんどいないらしい)、館長代理が対応してくれた。それが女性で、利津子よりも若い30歳ちょうど。逆瀬
館長室のソファーに座り、さっそく話を聞く。
「西洋美術史研究家の岡田利津子さんのご訪問は、確かに受けました。私自身がここが応対しました」
「それはいつですか?」
「12月の下旬だったと思いますね」
スケジュール表を調べてもらうと、12月25日だった。鳥羽に泊まった翌日だ。訪問の申し込みを受けたのはその2日前。
「誰かから紹介されたのですか?」
「もちろん、財団からですよ」
博物館の管理部門を通じて、ということらしいが、それが誰かはわからず。しかも、連絡は電話で受けて、聞いたのは新米のキュレーターだったらしい。そのキュレーターは働きがよくないので、3月で解雇してしまったとのこと。鳳凰寺の縁者や推薦者を優先して雇うのだが、たびたびこういうことがあって困っているそうだ。
「博物館の人事部門に岡田さんの経歴を調べてもらいましたが、在野の研究家で、神和女子大学で非常勤講師を務めておられるというので、信用しました」
その経歴はエリーゼが用意した架空のものと利津子は思っていたのだが、実在する人だったのかしら、と気になった。しかし今それをエリーゼに聞くわけにはいかない。
玄葉が、岡田利津子からもらった名刺を見せてくれたが、それは利津子が桑名に渡したのと全く同じだった。利津子はエリーゼの方をちらりと見たが、いつものように不敵な笑みを浮かべて玄葉の話を聞いている。
「どういう話をしに来たのですか?」
エリーゼが尋ねた。
「さあ、それが……何となく茫洋としていて。この博物館の収集品は、いつ頃から鳳凰寺平蔵が集め始めたのか、と、美術そのものとは関係のない質問をしたり……」
「しかしそういうことはホーオージ・ヘイゾー様の伝記に載っていたりするのではないですか」
「ええ、私もそう思って、資料をいくつかご覧に入れました」
「資料はこの部屋に置いてあるのですか」
「いいえ、資料室があります。展示中の美術品に関する資料の他に、鳳凰寺平蔵の美術関係の蔵書や、当館の歴史資料というか日誌というか」
「お客様をここへ待たせて、あなたがそこへ本を取りに行ったのですか」
「はい」
「その時、お客様は何か不審な動きをされませんでしたか」
「不審というと……」
「資料を取って戻って来たら、部屋にいなかったとか」
「いえ、いらっしゃいましたよ。ただ、お連れ様が席を外してらっしゃいましたが、しばらくして戻って来ました。お手洗いに行っていたと」
「お連れ様? どんな方ですか」
「40代くらいの男性です。鳥羽太郎さんとおっしゃって、岡田さんの指導者とのことで。同じく在野の研究者で、岡田さんのお父上とご親交があったとか」
さっそく、鳥羽太郎の名前が一致した。つまり、桑名のことだ。
「その名前はご存じでしたか」
「いいえ、初めて聞きました。関西地区に住む美術史家の名前は一通り知っているつもりだったのですが」
「でも美術に詳しかったのですよね」
「はい、大変博識なのは話していてわかりました。岡田さんがご質問に来られたのに、いつの間にか鳥羽さんの方が主になって話していることもありましたね」
「顔を憶えていますか」
「憶えていますが、口で説明するのはちょっと」
「私が説明しますよ」
エリーゼの説明に対し、玄葉は「そうです」「そのとおりです」を連発した。もちろんそれは桑名の顔の説明で、鳥羽太郎イコール桑名貴光であることは間違いなさそうだ。
「トバ様がここにいなかったのはどれくらいですか?」
「5分くらいでしょうか。体調があまりよくなくて、水を探して薬を飲んだとおっしゃっていました。水ならこの部屋にあったのですが」
玄葉が執務机を見る。そこに水差しが置いてあった。ガラス瓶の口にグラスが伏せてあるタイプだ。
「その後、どれくらいいましたか」
「そんなに長くはいらっしゃいませんでしたね。10分か15分くらいでお帰りになったと思います」
「資料室を見せていただけますか」
「資料室を? ええ、別に構いませんが」
「もう5時を過ぎてしまいましたね。残業をさせてしまって申し訳ないことです」
「とんでもない。来客はたいてい閉館間際なんです。一人で応対するのも慣れてますから」
館長室を出て、玄葉の案内で資料室へ行く。といっても館長室のすぐ隣で、ドアは錠付き。入ると図書館によくあるような、鉄製の無骨な本棚が並んでいた。ただ本棚の容量に比べて資料は少なく、だいぶゆとりがあるようだ。
美術の資料は大判の本や分厚いハードカバーが多いが、歴史関係と札が付いた棚には、段ボール箱や木箱が置いてあったりもする。
「鳳凰寺家の昔の資料もあるのですかね」
「ありますよ。一部は天保山美術館にお渡ししましたが、それは主に絵画に関するものだけで、他の美術品や全般的な資料はここに残しています」
「なくなった資料はありますか?」
「何ですって?」
エリーゼの質問に、玄葉が目を大きく見開いて驚く。若いので表情がはっきりしていてわかりやすい。しかし利津子には、エリーゼの質問の意図がわかった。
鳥羽イコール桑名であるなら、席を外していると見せかけ、玄葉の後から資料室に忍び入って、何らかの資料を盗んだと思われる、ということだろう。ドアは鍵がかかっていたが、玄葉が資料を取りに行ったとき、すぐ後で戻すために、一時的に鍵を掛けなかったかもしれない。
「例えば、50年くらい前の資料もここに置いてあるのでしょう? その中で、何かなくなっているか、調べて欲しいのです」
「そういう古い資料は、私も何があるかはっきり把握しているわけではないので……」
「もちろん、なくなった資料に何が書いてあるかはわからないとは思いますが、『何かがなくなった』ことだけを確かめることはできますかね」
「はあ」
まだ意図がわかりかねているのか、玄葉は首を捻っていたが、おもむろに部屋の一角へ進むと、そこの本棚を見渡し始めた。昔の資料の置き場であるらしい。古そうな段ボール箱や、色が褪せたり陽に焼けたりしたファイルバインダーが並んでいる。
やがて玄葉はそのうちの一段に目を留めると、指差し確認のように人差し指を立てて、左右に動かし始めた。
「……ここのところのファイルが、一つなくなっているかもしれませんが……」
「それは何が書かれていたか憶えていますか?」
「はっきりとは憶えていませんが、他のファイルと見比べる限り、ドイツから美術品を購入したときの記録じゃないかと思います。イギリス、フランス、イタリアなどのはこうして残っているので……」
玄葉はイギリス、フランス、イタリアと言ったが、そこには英國、佛國、伊國などの文字が並んでいた。すなわち、獨國が欠けていると言うのだろう。
「二人はドイツの美術品の話もしましたか」
「いえ、全く。でもドイツの美術は日本ではあまり注目されないので、話題が少なくても不自然ではないです。目立った美術品といえば、陶磁器くらいですから」
「陶磁器の話はしましたか?」
「しなかったように思います」
「
「BGSというと、ドイツ国境警備隊の? ああ、この前砂辺さんからお問い合わせのあった。はい、確かにありました」
「それを他に問い合わせてきた人はいますか?」
「さあ、問い合わせがあっても、キュレーターが調べて答えていたら、私にはわからないので」
もしかしたら、3月で解雇になったというキュレーターが答えたのかもしれない。
「ではドイツの勲章は?」
エリーゼの話がころころ変わるので、玄葉の表情もくるくると変わる。
「たくさん置いていますよ。ドイツに限らず、各国の勲章を置いています。当館の目玉展示と言ってもいいと思いますね。鳳凰寺平蔵は一時期、軍服や勲章の蒐集に凝っていたらしくて、日本でも有数の勲章コレクターでした。他館から依頼を受けて貸し出すことも多いですよ。お見せしましょうか?」
「ぜひ」
玄葉に連れられて、展示室へ行く。もちろん閉館後なので貸切状態だ。2階の一室が勲章や、いろいろな時代の戦争に関わる芸術品の展示スペースになっていた。
展示ケースの一つをエリーゼが見入る。利津子が覗くと、プロイセンの“黒鷲勲章”“赤鷲勲章”とあった。隣にはナチス・ドイツの“
「これは本物ですか? レプリークではないでしょうね」
エリーゼの質問に、意外なことを聞く、という表情で玄葉が答える。
「もちろん、本物です。ドイツのシュトゥットガルト博物館から譲られたものですよ。鳳凰寺平蔵が直接先方に出向いて交渉したんです」
それは展示ケースの上のパネルにも書かれていた。エリーゼは読めなかったのだろう。しかしなぜか満足そうな表情を見せている。
「なかなか結構な展示でした。玄葉様、本日はご対応いただきありがとうございました。これにてお
「そうですか。私の説明はお役に立ったのですかね。砂辺さんとミュラーさんはいったい何を調べてらっしゃるのですか? 岡田利津子さんに何か不審な点でも?」
「不審なのはお連れ様のトバ・タローの方なのですよ。いずれ説明に参ります」
エリーゼは手に持った帽子を胸に当て、軽く頭を下げた。別れの挨拶であるらしい。
(続く)
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