第4章 四行詩と風景 (前編)

 翌日の午後、すみれの元に、知り合いの骨董屋から電話がかかってきた。菊の花瓶が入っていた箱の、蓋裏の書き付けの解読を頼んでいたのだ。エリーゼが気にしている花瓶の表面の詩と、関連があるはずと考えていたから。

 しかし骨董屋は「達筆すぎて、一部しか読めまへんでした」と言い、書道家に頼んではどうか、と提案してきた。

「書道家でないと読めませんか? 書道教室を開かれている方でも……」

「ええ、そういう方でも読めるとは思いますんやが、うちでお付き合いのある書道家に、二、三当たってみたところ、興味を示してくれた方がいてはって」

「まあ、そこまでしていただいたのですか。ありがとうございます。それで、何とおっしゃる方でしょう?」

「ご存じと思いますが、羽生はぶれいさんです」

「というと……女性書家の?」

 女性書家、というよりも、一般には“美人書家”として知られている、新進気鋭の若手だ。25、6歳くらいで、京都に在住。数年前からマスコミに取り上げられて、雑誌で特集されたり、テレビに出演したりしていた。ボーイッシュな風貌と服装で、書風も女性らしい優しさと男性らしい伸びやかさが絶妙に入り交じっているのが特徴だ。

 しかし、一躍有名になったのは去年だったように、すみれは記憶している。確か、彼女の贋作が出回った事件があった。もちろん、警察が捜査に乗り出したが、最後は彼女自身が決定的な証拠を掴み、贋作者を摘発したということだったような……

 贋作事件が公になる前後に、大阪の南港で個展が開催されたので、すみれも見に行ったことがある。桑名と一緒に。どうしても、美術品がらみの思い出には、桑名が登場する。早く忘れたいのだが。

 それはともかく、あの羽生麗羅に解読を頼むことができるというのだろうか?

「彼女がOKしてくださったのですか?」

「いえ、まだ興味があるとおっしゃった段階で、すみれさんの方から頼みはったほうがええんやないかと思いますが」

「連絡先がわかればそうしたいと思いますが、どうして興味をお持ちになったのでしょう?」

「それは話の成り行きというか、雪佳の屏風の件を、羽生先生にちょっと漏らしまして」

「屏風の件を……書家なのに、興味をお持ちだったのですか」

「ええ、あの方は日本画の愛好家で、特に琳派を研究してらっしゃるんです。それで、ついさっき、次の個展のことで相談の電話を頂いたついでに、雪佳の屏風のことを、ポロッとね。ああ、あなたのお名前は出さへんかったんですが、羽生先生はそれをぜひ見てみたいと」

「雪佳の屏風ではなく、写しなのですが……」

「ええ、それもわかった上で、それでも見たいと。屏風のお返しの花瓶に書き付けがあって、能筆で読めないと言うたら、それも自分なら読めるだろうと」

 読めないのは蓋裏の書き付けであって、花瓶ではない。骨董商の話はどこか微妙にずれているようだが、少なくとも羽生麗羅は屏風と書き付けの両方に興味を持ったということか。

「でも、羽生先生にお願いするとしても、わざわざ京都からお越しいただくなんて」

「どこでも飛んで行くとおっしゃってはりましたよ。交通費なんていらんと」

「では、鑑定料とお礼はいかほどお渡ししたら……」

「それもいらんと言うてはりました。むしろ、お金を払っても見たいものやと。それで、電話させてもろうたんですわ。ただ、うちは紹介するだけで、連絡はすみれさんの方から欲しいと」

「はあ……」

 有名な書家に、本当にそんなことを頼んでいいのか。すみれは半信半疑だったが、骨董商に教えてもらった番号に電話をかけた。「もしもし?」と言う声が、宝塚歌劇の男役のように低い。

「羽生麗羅先生でしょうか?」

「そうです。もしかして、梅村すみれ様ですか?」

 電話を待ち構えていたかのような返事だ。声も最初の渋い響きから、少し上ずったように聞こえる。

「はい、梅村でございます。骨董商の方から、羽生先生のことをご紹介いただきまして……」

「ああ! こんなに早く電話をいただけるなんて、なんとお礼を申し上げてよいやら。もちろん、雪佳の屏風と花瓶の書き付けの件ですね? 今から拝見しに参上しても構わないのでしょうか? お宅は堺のどちらです?」

「はあ、いえ、その……」

「今からではダメなのでしょうか? では、明日か明後日か……」

 ずいぶんと気が早い、と思ったからすみれは戸惑っただけで、今から来てもらうには何の問題もない。そのことと、住所を伝えると、麗羅が小さくため息をつくのが聞こえた。

「申し訳ありません。気がいてしまって、礼を失していたようです。平にご容赦をお願いします」

「いえ、それほどまで言っていただくようなことでは……私も、ほんの少し驚いただけですから」

「お気遣い、大変嬉しく思います。とにかく、今から参上します。1時間もあれば着くでしょう。そちらに車を停めるところはありますか?」

「マンションの来客用駐車場が……」

 京都から堺まで車で1時間というのにもすみれは驚いたが、麗羅は興奮気味に別れの挨拶を述べ、電話を切った。

 50分後、すみれが来客を迎える準備をしていると、マンションのエントランスから呼び出しがあった。インターホンのモニターを見ると、凜々しくスレンダーな男性の姿が。しかし、「羽生麗羅と申します」と挨拶があった。

「ようこそいらっしゃいませ。どうぞお入りになってください」

「屏風はマンションのお部屋にあるのでしょうか?」

「いえ、ここにはございません。この近くの、蔵の中に……」

「蔵ですか! 先にそちらを拝見させていただくことはできますか?」

「はあ、では、しばらくお待ちください」

 モニター画面越しでも、麗羅の顔が上気しているのがわかるほどだったので、よほど屏風が見たいのだろう。もちろん、出掛ける用意はしていたので、すみれは蔵の鍵を持って部屋を出た。

 エントランスホールに行くと、ベリーショートの黒髪、ダークスーツの上下に、濃紺のスクエアネックシャツという姿の麗羅が待っていた。女性としては背も高く、颯爽として、本当に“元男役”だったかのようだ。しかし優雅に頭を下げ、すみれに名刺を両手で差し出す手つきは、女性らしい柔らかさが感じられた。そして手もやはり女性らしく繊細だった。

「初めまして、羽生麗羅です。この度は突然押し掛けまして大変申し訳ありません。書家ですが、日本画の鑑賞を趣味にしておりまして、特に琳派に目がないものですから、屏風の閲覧をお許し頂いて、京都より馳せ参じました次第です」

 穏やかな笑みを浮かべているが、目はらんらんと輝き、興奮を抑えきれないのがよくわかる。遠足に出発するのを待ち遠しく思う小学生のようだ。

「遠いところをわざわざお越しいただいて、恐縮です。あの、本当に、お礼など差し上げなくてよろしいのでしょうか?」

「何をおっしゃいます。私の方こそ、七重の膝を八重に折ってでも拝見したいと思っているほどですのに、お礼など頂くようなことではありません。ところで、車はあそこに置いていてよいものでしょうか?」

 麗羅が外を振り返る。すみれもつられてそちらを見ると、ダークブルーのスポーツカー――ランボルギーニ・アヴェンダドール!――が前の道に停まっていた。その横に男が一人立っているが、あれはマンションの管理員のはず。

「ええと、管理員さんの指示に従っていただければ……」

「これは失礼! 1分でも早く屏風を見たくて、彼に鍵を渡せばどこかへ置いてくれるものと勘違いしていましたよ。申し訳ありません、すぐに移動します」

 麗羅は見目よい笑顔を残し、せかせかとした足取りで外へ出ると、管理員に話しかけてから、アヴェンダドールの運転席に納まった。そして1分後にはエントランス前に戻ってきた。もちろん、すみれは外に出て彼女を待った。それからフェニックス通りを渡り、蔵へと案内する。

 それまで麗羅は軽く自己紹介をしてくれていたが、蔵を見て感心したような目をした。

「これですか。周りからは少し浮いた感じですが、蔵自体は風情がありますね。昔の建物が残っているというのは実にいいものです。私が住んでいた京都の町家は、老朽化が問題になって残念ながら壊されてしまったのですよ。だから今は、北山の方に小宅を構えています。蔵の中は涼しくていいですね。空気が優しい。中は二階層なのですか。屏風以外にも、いろいろな骨董や美術品をお持ちのようですね。書に興味はおありですか? そうだ、屏風を見せていただくお礼に、私の書を一幅持参すればよかったですね」

 麗羅は蔵に入るところから2階に上がって屏風の前に着くまで、ずっと話し続けていた。テレビなどで見かけたときは寡黙な印象だったが、本当は話し好きなのだろうか。だが、屏風の前に来たところで、ぴたりと口を閉じた。そして感に堪えないといった表情で屏風に見入っている。

 たっぷり3分間も黙って屏風を堪能した後で、麗羅はようやく口を開いた。

「雪佳の直筆ではなく、無名の画家の写しだと聞いていましたが、それでも琳派の味わいは損なわれていませんね。実に素晴らしい。本物を見られて、感無量です。正直に言いましょう。私は今日、骨董商に電話する前から、この屏風の存在を知っていたのですよ。とはいえ、写真すら見たこともなく、構図しかわかっていなかったのですがね。誰から訊いたのかは、秘密にさせてください。どうしても実物を見たくて、私の書を扱ってくれる何人かの骨董商にさりげなく訊いてみたら、引き当てたというわけなのです」

「はあ、そうでしたか……」

 この絵の存在を知っているのは、探偵の他に、砂辺利津子と二人の鑑定人くらいか。しかし、探偵と鑑定人は仕事上のことだから、漏らしたりしないだろう。だが、利津子と麗羅が知り合いかというと、どうも違う気がする。接点がなさそうなのだ。

「ところで、この絵は構図に何か問題があると言われたのではありませんか?」

「え? ああ、はい、矢車菊の数が、多いと……それもご存じだったのでしょうか?」

「はい、ですから、構図だけを知っていたのです。おそらくは、これとこれと……」

 麗羅は屏風の中の花を次々に指差した後で、「なくしてはどうか」と言ったが、それは天保山美術館の宇佐美館長が指摘したのと、全く同じだった。

「研究してらっしゃると伺いましたが、やはりそういうこともおわかりになるんですか」

「いえいえ、偉そうに解説できるほどの知識はないのですよ。ただ、書も絵も筆致とバランスが大事なのは同じですから、そこだけはわかるのです。もっとも私は、絵を描くと目も当てられないほど下手で、見てあれこれと言うくらいしかできないんです」

「はあ、でも、おわかりになるだけでも結構なことと思いますわ」

「ありがとうございます。ところで、この絵を鑑……専門家に鑑定してもらったのでしょう? 鑑定書を見せていただけませんか」

「ああ、はい、鑑定書はあるのですが、実は今、ある人に預けていまして……」

「骨董商ですか?」

「いいえ、その、事情がありまして、申し上げるわけには……」

 探偵に預けている、というのは言わない方がいいだろうと、すみれは思った。しかし麗羅は、優しげに目を細めながら、首を少し捻って考える仕草を見せた。

「そういえば骨董商は、この絵には何か謎がありそうだと言っていましたね。ああ! ということは、つまり……」

 麗羅は何かを思い付いたときのように目を見開いたが、すぐに、少し悲しそうな表情になった。

「やれやれ、そうすると、彼女の手の内にあるということだろうか? 何とか手に入れることはできないものかな。うん、そうだ、こうしましょう」

 また明るい表情になって――それは何か楽しい悪戯いたずらを思い付いたときの少年に似た感じで――麗羅は言った。

「花瓶の箱の、蓋の裏の書き付けが読めないとおっしゃってましたね。その人は、その解明もしようとしているのでしょう? しかしきっと、苦戦しているのに違いありません。だから、私がそれを読んで、教えることにしましょう。ただし、条件を付けます」

 麗羅は顔の前に人差し指を立てた。細長く、形のよい指。

「条件とは……」

「鑑定書を私にください。コピーは、あなたの手元に残していただいて結構ですが、原紙を頂きたいのですよ。それから、花瓶を鑑定してもらいましたか? まだなら鑑定してもらって、その鑑定書もください。もちろん、悪用しないことはお約束します。どうです、悪くない取り引きではありませんか?」


(続く)

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