第4章 四行詩と風景 (中編)
すみれは、麗羅の言っていることが、一瞬わかりかねた。
「鑑定書を……ですか?」
「はい、それが欲しいのです」
「そういうことでしたら、他にも鑑定書がいくつかありますから……」
「いいえ、屏風と花瓶と、その二つだけで結構です。花瓶はまだなのでしたね。すぐに鑑識、いや、鑑定してもらいましょう。近くに、とてもいいところがあるのです。紹介しますから、今から私の車で行きませんか?」
麗羅の表情が、そわそわした感じになった。遠足に出発するのを待ち遠しく思う小学生……
「今からでも構いませんが、どちらへ?」
「大阪南港の、咲洲です。渡利鑑識事務所というところです。書画骨董、何でも鑑定してもらえます。私の書の鑑定も、彼に依頼しているのですよ」
「すると、贋作事件の時に……」
「やあ、ご存じでしたか。あれはお恥ずかしい次第でした。ええ、アキラ、いえ、渡利所長なら確実に真筆と偽筆を選り分けてくれるのです。最近は偽筆もほとんどなくなって、おかげで彼に会いに行く機会が、いや、そんなことより」
麗羅が熱心に誘うので、すみれは花瓶を鑑識事務所へ持って行くことを承諾した。出る前に、麗羅が箱の蓋を取り、裏を見て「読めます」と言った。
「書いた人も、わかりますよ。とても有名な人です。しかし、結果を教えるのは後にしましょう。もちろん、誰でも読めるように、紙に書いて、差し上げます。鑑定書ならぬ、解読書とでも言うべきですかね」
それを言うときの麗羅は、とても楽しそうな表情だった。花瓶の箱を持って、すみれは蔵を出た。扉の鍵を閉めるときだけ、箱を麗羅に預けたが、麗羅は和錠に少し興味を示した。
マンション前に戻り、すみれは麗羅のアヴェンダドールの助手席に乗った。麗羅は運転席に座りながら、ダッシュボードの上からサングラスを取ってかけた。どこかで見たことがある形、とすみれは思ったが、思い出せなかった。
「花瓶を乗せているのだから、安全運転をしなければいけませんね」
麗羅は言ったが、走り始めるとみるみる加速し、フェニックス通りから堺港線へ時速80キロで突っ込んでいく。右手に運河、左手に堺の南台場跡が通り過ぎる。麗羅が「鑑識事務所に予約を」と言うので、すみれはスマートフォンで電話をかけた。年齢不詳の女性に、今度は「磁器の花瓶」の鑑定を申し込む。
車は大浜入口から阪神高速湾岸線に乗り、二つ先の南港南出口で降りた。こんな短い距離で、高速道路に乗るとは! 1分1秒でも早く着こうというのだろうか。咲洲に渡り、工場地帯へは入らず、住宅街の中を駆け抜けて、重厚なビルの前に着いた。看板には「南港共同法律事務所」とある。鑑識事務所が入居しているビルだ。
「私はここで待っていますので、お一人でどうぞ。何も難しいことはありませんよ。受付で依頼票をもらって、4階へ行くだけです。用もないのに付き添いで行くと、アキラ、いえ、渡利所長があまりいい顔をしないのですよ」
麗羅が少し寂しげな表情で言うので、すみれは「はあ、では一人で参ります」とだけ返事し、車を降りた。ビルに入り、受付へ行くと、声と微妙にイメージの合わない受付係が愛想よく迎えてくれた。
「先ほど電話した梅村ですが……」
「はい、梅村様、毎度のご利用ありがとうございます。磁器の鑑定ですね。これをお持ちになって、4階へどうぞ」
毎度、というのは、数日前に屏風の鑑定を依頼したことを指しているのだろう。ともかく、エレベーターに乗って4階へ。出てすぐの部屋のドアが開いていて、渡利が立っていた。殺風景な部屋に入り、ソファーに向かい合って座る。箱を開けて花瓶を取り出し、テーブルに置く。渡利が抑揚の少ない声で言った。
「鑑識の対象は?」
それを全く考えていなかったことに、すみれは気付いた。花瓶の真贋の鑑定……だけでいいのだろうか。
「
「本物です。デザインはコンラート・キーゼルの“
「はい、それは別の方に読んでいただきましたから」
「箱の鑑識は」
蓋の裏の書き付けに気付いたらしい。どうしたものか、とすみれは迷った。それは麗羅が読んでくれることになっている……
「……清水焼の箱のようなのですが、本当にそうでしょうか?」
「それを答えると鑑識料が発生します」
磁器の鑑識とだけ申し込んだから、それは別料金、ということだろうか。
「料金は……」
「千円です」
「では、そのことだけ教えていただければ」
「清水の箱ではありません。銘が入っていないし、作りも似ていない。白木の箱に表書きを書いただけ。ただ、箱自体は花瓶よりも古い時代の物と思われる。よって考えられるのは、元は実際に清水焼の花瓶を入れていたが、後にそれを流用した、ということ。箱書きと、裏の書き付けは筆者が違う」
「裏の書き付けが……読めるのですか?」
「はい」
「それも別の鑑識料が必要ですか?」
「いや、箱の鑑識に含みます」
「……でも、それは結構です。他の方に読んでいただくことになっているので……」
「そうですか。では、それを省略した鑑定書を発行します」
花瓶と箱の、二つの鑑定書ができあがった。どちらにも「省略」とされた項目がある。花瓶は「表面書き付け」、箱は「蓋裏書き付け」。すみれが2千円を払うと、領収書も2枚出て来た。「磁器花瓶鑑識料として」「陶芸桐箱鑑識料として」。鑑定書はともかく、領収書がなぜ2枚に分かれたのか、よくわからない。
ともあれ、すみれは礼を言って、事務所を出た。ビルの外には、アヴェンダドールがなかった。慌てて見回していると、隣のビルの陰から青いボディーがすっと出てきて、すみれの前に停まった。
「失礼しました。この辺りは、路駐禁止なのですよ。だから、一回りしていたのです。どうぞお乗りになって。花瓶は本物でしたか?」
麗羅はサングラスを外しながら言ったが、そのときになってすみれは、そのサングラスが渡利のかけていたものとよく似た形であることに気付いた。お揃い……ということだろうか。まさか二人は……
「はい、鑑定書を頂きました。それから、箱も鑑定してもらったのですが……」
「箱も? アキラ、いえ、渡利所長は、蓋の裏も読めるとおっしゃってましたか?」
「はい、ですが、あなたに読んでいただけるので、解読は不要と言いました。あなたのお名前は出しませんでしたが……」
「それで結構です。箱の鑑定書もいただけるのですか!? ありがとうございます。嬉しいことです。花瓶は
鑑定書をたたんでスーツの内ポケットに入れると、麗羅はアクセルを踏み込んだ。車は耳障りなスキッド音を立て、猛烈なスピードで走り出す。カーブでは遠心力で身体が外に持って行かれる。まるで公道サーキットを走るレーシングカーのようだ。しかしライン取りは滑らかで、危なげない。
それでもスピード違反は明らかで、警察は目と鼻の先だし、今にもパトカーが後ろから追いかけて来るのでは、と思われたが、程なく阪神高速に乗ってしまった。大浜出口で降りて、フェニックス通りを走り、マンションの駐車場で停まった。麗羅はすっきりとした顔をしている。
「それでは、お宅へお邪魔できましょうか」
「はい、どうぞ……」
ジェットコースターに乗っていたかのようで、三半規管がどうにかなったのではないかと思いながら、すみれは車から降りた。少し足がふらつく。麗羅がエスコートのように横から支えてくれた。最上階の部屋に入ると、「紙と書くもの、できれば筆ペンを」と麗羅が言った。
「紙は半紙がよいでしょうか?」
「ああ、お気遣いなく、普通の便箋で結構ですよ。それから、封筒はありますか」
応接間に麗羅を案内し、便箋と筆ペン、それに封筒を渡しててから、すみれはお茶の用意を始めた。コーヒーカップと菓子を応接間に持っていくと、麗羅は興奮の面持ちで鑑定書を見つめていた。
コーヒーを前に置くと、麗羅は顔を上げてすみれを見たが、その目は憧れのアイドルからサインをもらった少女のようにきらめいている。ボーイッシュな風貌に似合わない、女らしい色気すら感じられた。
「裏書きの書き下しは終わりましたよ。旧字体の漢字が混じっていたので、新字体でも書いておきました。これを調べている人は、いつまでに解読すると言っていましたか? 明日ですか。なら、少々意地悪ですが、ギブアップしてから教えてあげるのはどうでしょう。それまで、あなたも見ない方がいいかもしれませんね。ああ、一つだけ」
また顔の前に人差し指を立てる。その指の立て方にもなぜか女らしい艶めかしさがあった。声も愛らしいし、今の麗羅は、完全に“女性”になってしまっているようだ。
「銘はありませんが、書いたのは内藤湖南であることは明らかです。ご先祖にお知り合いがいらっしゃったようですね」
「内藤湖南というと……東洋史学の?」
ジャーナリストから京都帝国大学の講師、後に教授に就任し、いわゆる“京都学派”を創始したのではなかったか。そんな人物がなぜ、花瓶の箱に書き付けを。
「湖南は漢詩を
もちろん、夢中になっているのは鑑定書の方だ。それはすみれの目の前で、渡利が手書きした。達筆とは感じたが、有名な書道家をも魅了するような字かというと、いささか疑わしい。しかし目の前の麗羅は、アイドルのサインどころか、ポスターを眺めるが如く、陶然としているのだった。
10分ばかりも鑑定書を堪能した後で、麗羅はようやく顔を上げて、すみれに封筒を手渡した。蓋裏の文章を書き下した便箋が入っているはず。
「屏風の鑑定書は、明日で結構ですよ。この封筒と引き換えに、彼女から返してもらってください。返さないとは言わないでしょうけれどね」
「はあ」
さっきもそうだったが、麗羅は“調べている人”が女性だと知っている。おそらくエリーゼであることも気付いているのだろう。二人には何らかのつながりがあるのだろうが、それをすみれが聞き出すことはしない方がよさそうだ。
「では、その後であなたへ郵送するなりして、お届けすればよいでしょうか?」
「そんなもどかしいことをなさらなくても、私が取りに参ります」
本当に明日まで待つつもりなのだろうか、と感じるほど麗羅は乗り気になっている。しかし、エリーゼは「解読が終わったら連絡する」と言っただけで、それがいつになるかはわからないので、どうしたものだろうか。
とりあえず、明日中に連絡します、としかすみれには言えなかったのだった。
(続く)
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