第3章 薬屋と大使館 (後編)
落胆するエリーゼを尻目に、イレーヌが話を続けた。
「他に調べてきたことを言いますね。エミル・オートは1868年、シュレスヴィヒ・ホルシュタイン州のトリッタウ生まれ。ベルリンの学校で日本語を習得し、93年に通訳として東京の公使館に着任。その後、横浜や神戸、長崎、台湾の領事館でも働きました。1913年に神戸領事館の領事に就任。翌年、戦争が始まったためドイツへ帰国。終戦後の21年に横浜の総領事に就任。23年に神戸の総領事に就任し、34年まで務めました。これは歴代でも最長の任期で、それに次ぐのは73年から10年間務めたヴォルフガンク・ガリンスキー。他は3年から7年くらいです。また、オートは通算で35年も日本にいたので、日本語がとても上手だったそうです。引退したのは肝臓の病気のせいで、帰国して秋に手術を受けましたが、数日後に亡くなりました。もう少し時間があれば、日本について本を著していたかもしれません。これも残念なことです」
「惜しかったですね。さて、こうなると、スミレ様の方で証拠を見つけなければなりません」
「どういうことでしょう?」
すみれが訊くと、エリーゼは足を組んで、いつもの自信ありげな笑顔に戻って言った。
「とても高価な贈り物をしたのですから、お返しがあるのが普通ではないですか。お礼の手紙1枚で済ませるようなものではないでしょう。文化交流なのですから、総領事館は日本のものをいただいたら、ドイツのものを何かお返ししたに違いない、と私は思っているのです」
「ということは、蔵の中を探せば、そういうものが出てくるかもしれないということですね」
「そのとおりです。では、どんなものを贈るのがふさわしいでしょうか? 金屏風という日本的なものに、ヤグルマギクというドイツのショーチョーを描いて贈ったのですから。お返しはその逆であるべきです。つまり、ドイツ的な芸術品に、日本のショーチョーを描いて贈ったのであろうと考えます。アイリちゃん、100年ほど前のドイツで芸術品というとどんなものがあるのですかね?」
エリーゼの質問に、イレーネは紙をクリアファイルにしまいながら答えた。
「その頃だと建築かしら。ヴァルター・グロピウスがバウハウスを設立したのが確か1919年で、その頃の日本でもユーゲントシュティールの……日本ではフランス風にアール・デコという方がわかりやすいでしょうけど、その影響を受けた建物が流行したと聞いてるわ。神戸の風見鶏の館とか」
「屏風のお返しに建築というのは大きすぎるではないですか。他にはないのですか」
「建物の一部のデザインを設計するということもできたんじゃないかしら。ただ、建物ならそれも戦争で焼けてしまったかもしれないわね。他には、絵画と彫刻と……でも、お返しにするなら陶器か磁器はどうかしら。マイセンやローゼンタールにはユーゲントシュティールの器があったと思うわ」
「またトージキですか。しかし、それが適当というのならしかたないですね。それに日本のショーチョーを描くとすると何でしょうか。桜ですか?」
「あら、菊でしょう。だって皇室の象徴は菊だし、屏風は雪菊さんが仲介して贈ったのでしょう? 矢車菊と日本の菊、種類も合ってるわ」
「ヴンダーバー、素晴らしい! さすがアイリちゃんなのです。では、スミレ様、これからクラへ行って、菊が描かれたドイツ製のトージキを探そうではありませんか」
「今からですか? ええ、私は構いませんけれど……」
洋食器はかなりあるはずなので、エリーゼが手伝ってくれるとしても、今日中に探せるか心許ない。手伝いが欲しいが、すぐに呼べる人はいなさそうだ。梅村の社員を使うわけにもいかないし。
「梅村様、もし陶磁器が見つかったら、お知らせくださいますか。ドイツと日本の古くからの交流を示すものとして広く宣伝したいと思いますし、本国にも報告しますから」
「わかりました」
挨拶をして、イレーネと別れた。すみれはJRと南海を乗り継いで堺に戻ることにしたが、エリーゼは例によってバイクで行くと言った。蔵の前で待ち合わせて、中に入る。この1週間で4回目だが、こんな頻繁に入ることは今までになかったことだ。
マイセンの皿があったのと同じ、1階の洋食器置き場を探そうとしたら、エリーゼが「屏風のお返しなのですから、屏風の近くにあるのではないですか」と言う。それもそうかと思い、上と下を手分けして探すのも効率が悪そうなので、先に二人で2階を探すことにした。
「でも、この辺りの陶磁器は全部箱に入っているんです」
「しかし、リツコ様のマイセンの皿は柿右衛門の箱に入っていたのですよ。昔の人はちょうどよさそうな大きさの箱があったら、とりあえず入れてしまうとも考えられます」
「そうかもしれませんね」
箱はたくさん積み重なっているので、エリーゼに手伝ってもらいながら一つずつ見ていく。皿の裏側のマークを見たりする必要はなくて、“菊の絵柄”が入っているかどうかを見ればいい。蓋を開けるだけで済むから、意外に早く見ることができる。箱の積み下ろしの方が時間がかかるくらいだった。
「あっ、これはもしかして……」
1時間ほど探したところで、「花瓶 清水」と書かれた縦長の箱の中に、清水焼とは似ても似つかない洋風の花瓶が入っていたのを見つけた。
取り出して底を見ると、青い棒状のマークの下に"KPM"の文字。ドイツの
「これかもしれませんですね。どこかに説明はないのでしょうか」
よく見ると、花瓶の周りにカタカナか記号のようなものがたくさん書き付けてある。そして中には、くしゃくしゃに丸めた紙が何枚か。緩衝材だろうか。それに、蓋の裏に書き付けがあった。5行に渡って書かれているが、ところどころにある漢数字やカタカナは読めるものの、漢字は達筆すぎてほとんど読めない。
「これを読めばわかるでしょうか」
「アハン、蓋の漢字は読めませんが、花瓶に書かれた文字は読めそうですよ。これはオットー・エックマンというドイツ人がデザインした書体です。今日、アイリちゃんが言ってましたが、ユーゲントシュティールの時代に作られて、今でも芸術の分野で使われているのですよ。縦書きに見えますが、花瓶をこのとおり横にすれば読めます」
「まあ、本当に。アルファベットですね」
カタカナの“ヨ”に見えたのが"m"、“コ”に見えたのが"n"という具合だった。エリーゼはそれを読み上げた後で、持っていたメモ用紙に書き下した。
Am Suminoe wo ich den Kiefer Wind so kühl fühle,
auf der Brücke des Sumiyoshi-Schreins,
Ich überblicke das Wolkenmeer,
es wäre eine himmlische Aussicht.
「"Suminoe"や"Sumiyoshi"という単語がありますが、これは大阪の地名でしょう?」
「住之江と住吉ですか。とすると、これは大阪のことを書いた詩でしょうか」
「フーム、私は詩についてそれほど詳しくないですが、これはドイツの詩の形式に合っていませんよ。4行の詩が4組というのが形式の一つです。それに、1行目と3行目、2行目と4行目がそれぞれ……何というのですか、単語の最後の発音が同じになるのです」
「韻を踏む、ですね。ええ、何となくわかります。他の外国の詩でも、定型詩は行末に韻を踏むのが普通ですから」
「私の考えでは、これは日本の詩をドイツ語に訳したのではないかと思います。ちょっと訳してみましょうか。
住之江において私は松の風が涼しく吹くのを感じる
住吉神社の橋の上から
私は雲の海を見下ろす
それは天国のような景色だろう
こんな意味の日本の詩があるでしょうか?」
「さあ……もしかしたら、古い和歌でしょうか。それにしては長いですし、思い当たるものがありません」
「まさか、宝のありかを示す暗号ではありますまいね」
「宝……まさか。お返しがこうして存在しているのに、この上に宝なんて」
「花瓶の中に入っている紙に、何か書いていますか?」
すみれは中の紙を取り出していちいち広げてみたが、古いドイツ語の新聞であることがわかっただけだった。日本の居留地で発行された新聞だろうか。それはそれで歴史的価値がありそうだが、詩の解読のヒントにはなりそうにない。エリーゼも読んだが、手がかりはないと言う。
「困りましたね。これでは、調査を終わることができません」
エリーゼは花瓶を目の前の棚の上に置き、腕を組んで考え込んだ。
「えっ、どういうことですか? お返しと思われる花瓶が見つかったのだから、
「お返しと決まったわけではありませんですよ。予想していた物が見つかったというだけです。それに、暗号の贈り物なのですから、お返しも暗号に違いないのです」
「ええと……その暗号を解こうとしておられるのですか?」
「ヤー、ゲナウ、そのとおりです」
エリーゼの表情が活き活きとしてきた。なぞなぞを出され、喜んで考えているときの子供のようだった。
「でも、既に屏風の暗号を解いていただいたのに……」
「この暗号を解くことを、依頼していただく必要はありませんよ。これは私のキョージの問題ですから。ただ、今日一日で解くのは難しいです。あと二日はかかりそうですね」
「はあ……」
エリーゼは嬉々とした顔で、花瓶と箱、蓋を写真に撮り、「新聞を持って帰らせてください」と言った。
「花瓶を発見したことを、アイリちゃんに報告していただいても構いませんよ。でもきっと彼女は、暗号が解けた後で取材に来ると言うでしょう」
「はあ」
エリーゼが帰った後で、すみれは愛理に電話してみた。花瓶を発見したことを喜んでくれたが、そこに暗号が書かれていて、エリーゼが解こうとしている、と言うと、愛理は小さくため息をついた後で「彼女はいつもこんな感じです」と呟いた。呆れ顔が目に浮かぶような声だった。
(続く)
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