第1章 屏風と評論家 (後編)

 住吉橋町の蔵には、30分ほどで着いた。その間、エリーゼと不二恵はずっと雑談していたが、すみれと詩歌はほとんど黙ったままだった。

 蔵の鍵を開け――一日に2度開けたのは初めてのことだったが――2階へ皆を案内する。不二恵は「なんかお宝がいっぱいありそうー」とはしゃいでいる。

「フジエちゃん、不用意に触ってお皿を割ったりしないでくださいよ」

「わかってます。私、友達の家に行って洗い物とか手伝ったらよく割るんで、絶対触らへんことにしてるんです」

「歩いているだけでぶつからないように気を付けないといけないのではないですか」

「そうですねえ、私、中に入らん方がええかなあ」

「入り口で見張りをしてもらう方がいいかもしれませんね」

 エリーゼと不二恵が不穏な会話を続けているが、2階の屏風の前に来ると自然に二人が黙った。

「宇佐美様に見ていただきたいのは、こちらです」

「真贋を判定するというわけではないのですね」

「はい。たぶん絵の構図と思うのですが、不自然なところがあるようなので、指摘していただければ」

「金屏風ってド派手で嫌味なものと思ってたんやけど、これはええ感じやなー」

「フジエちゃんは黙っておいた方がいいのではないですか。シーカ様の鑑定の邪魔になります」

 しかし詩歌は気にする風でもなく、腕を組み、右手の人差し指を唇に軽く当てながら、しばらく黙って金屏風を眺めた後で言った。

「確かに、神坂雪佳らしさがよく出ている画風だと思います。光琳の燕子花図の特徴をよく研究していると言えるんじゃないかしら。例えば、左隻と右隻で草の位置を上下にたがえて遠近感を出すところも、ちゃんと踏襲していますし。構図は『四季草花図屏風』に似ているのでは」

 詩歌は肩に提げていたバッグからタブレットを取り出すと、タップやフリックを繰り返した後で、すみれに見せてきた。『四季草花図屏風』の画像が表示されている。六曲一双の屏風絵で、京都の細見美術館所蔵。光琳の『燕子花図』とは違って、これには四季折々、色とりどりの植物が描かれている。確かに構図もよく似ている。

 気が付くと、エリーゼが横から覗き込んでいた。不二恵は口を半開きにしたまま金屏風に見入っている。

「燕子花図は葉を一筆で描くところに特徴がありますが、この屏風では草の茎や葉を細く丁寧に描いています。その辺りは草花図と共通点が見られます。それに花びらの一片一片が実に繊細です。そこだけ洋画や油絵の要素を取り入れたかのような感じで。それで、これが不自然かというと……」

 詩歌はタブレットをすみれに預け、また腕を組んで指を唇に当てるポーズで考え始めた。邪魔をしない方がいいかすみれは迷ったが、渡利が「狭苦しく見える」と言っていた、と補足することにした。

「渡利……鑑識事務所の?」

「はい。ご存じでしたか?」

「ええ、以前、ちょっとしたことがあって。彼がこれを雪佳の模写と言ったのですか」

 ちょっとしたこと、と詩歌が言ったので、つまり彼女も渡利鑑識事務所に何かの依頼をしたことがあるらしい、とすみれは気付いた。こんな専門家が、何を鑑定してもらったのだろう。まさか絵画ではあるまいと思うが。

「そうです。何か疑問点でも?」

「いえ、雪佳の写しであることは疑いありませんが、『狭苦しい』ですか……」

 また詩歌は黙ったが、今度は10秒もしないうちに口を開いた。

「確かに、狭苦しさというか、バランスの悪いものを感じますね。とにかく、花が多すぎます。何の花でしたか、矢車菊ですか。矢車菊は、ヨーロッパの絵画でも花畑として描かれていたりしますが、これほど群れているところはさすがに……例えば華道の先生に聞いたら、1、2本抜いてはどうかと言われるかもしれませんね」

「華道ですか」

「例えば右の2せん……屏風では1枚のことをせんと呼ぶのですが……この2せんに、全部で何本の花が描かれているのやら……これほどたくさん描く必要があるのか、という感じですね」

「はあ」

 また考え込む詩歌の横で、エリーゼが花の本数をドイツ語で数えている。

「……例えば私なら、この3本をなくしてはどうか、とアドバイスするでしょう」

 詩歌は屏風に近付いて、一番右のせんの左上辺りに描かれた、連結部に近い花を三つ、手で隠した。すると一気にバランスがよくなったのがすみれにもわかった。

「雪菊が模写をするときに描き足したのでしょうか?」

「それは……ないと思います。雪佳の元絵からして、描き足した可能性があります。雪菊は忠実に模写したのでしょう」

「なぜそう思われるんですか?」

「なくしてはどうかと言った3本は、後から描かれたものではないからです。絵の重なりから、それが判断できます」

 詩歌が指差すところを見ると、確かにその3本よりも、後に描かれたと思われる花があった。絵の具が上塗りされているのだ。その部分だけを描き直したわけでもないらしい。

 それから詩歌は屏風から少し離れ、また考えた後で言った。

「……こうして見ると、どのせんにも余分な花があるような気がします。一番左は全部で6本ですが、それですら何となくバランスの悪さが……しかし、絵として成立するぎりぎりのところで踏みとどまっている、という感じですか」

「おそらくアキラ様は、それを正確に指摘して欲しいのでしょう」

 エリーゼが言うと、詩歌はちらりとそちらを見た。

「それというのは、余分な花がどれかと?」

「はい」

「彼自身でもできそうな気がしますけど」

「証拠がなければ鑑識ではないのですよ」

「感覚は証拠にならない? でも、絵の真贋鑑定も、感覚によるところが多いと思いますけど」

 言った後で詩歌はタブレットをカメラモードにし、屏風の写真を撮った。そして画面を見ながら指で“チェック”を付けていく。画像編集アプリに取り込んで、“余分な花”を指摘しようとしているのだった。

「こんなところでしょうか」

 詩歌がまたタブレットをすみれに見せた。屏風の上に花の群れは八つあり、一番右が3本、その隣が2本、その他はどれも1本に“レ”印が付けられていた。こうして見てみると、どの群れもそれぞれ1扇の中に綺麗に収まっていて、隣の扇にまたがっている花は一つもなかった。

「私ができるのはこれくらいでしょう」

「ヴンダーバー、素晴らしいです。さすがシーカ様です」

「ありがとうございました。この写真を頂いてもよろしいでしょうか?」

「ええ、どうぞ。しかしたぶん、探偵さんが必要としているのでしょうから、彼女にメールで送っておきましょう。梅村様は彼女から受け取ることにしてはいかがですか」

「そうします。ところで失礼ですが、他の評論家にも意見を頂くとしたら、誰か適当な方はいらっしゃるでしょうか。渡利さんからは、白土大樹さんというお名前が出たのですが」

「白土……京都ミュージアムの館長ですね。彼なら確かにわかるでしょうが、よほどのコネがなければ依頼に応じてくれないでしょう。ですから私は美術評論家よりも、華道の……お花の先生はいかがでしょうと申し上げておきます」

「わかりました。ありがとうございます。それから、鑑定料はおいくらほど……」

 すみれがおそるおそる聞くと、詩歌は薄く微笑みながら言った。

「絵画の査定では料金は取りませんし、これは査定でもない、私の個人的な意見を述べただけですから、鑑定料なんて不要です。今回は探偵さんへのお礼の意味もありますし」

「スミレ様は価値のある絵画を他にもお持ちのようですから、いつか天保山美術館へ貸し出して展示する、そのとき無料で、ということにしてはいかがですか」

 エリーゼが得意顔で口を挟んできた。お礼と言われたのが嬉しいらしい。

「あら、それはよさそうですね。コレクションを拝見したいところですが、今日は急のことで時間がありませんから、またいずれということで」

「そうですか。今日はありがとうございました」

「フジエちゃん、私は後で一人で帰りますので、シーカ様を美術館まで送ってあげてください」

「りょーかい。じゃーね、エリちゃん。また一緒に食事行こー」

 不二恵と詩歌は蔵を出て行った。エリーゼはスマートフォンを取り出して、屏風の写真を撮った。

「私も写真を撮らせていただきました。ところで、さっき私が花を数えていたことにお気付きですか」

「ええ、宇佐美館長が解説してらっしゃったときですね」

「シーカ様は数が多すぎるとおっしゃいましたね。そこでは私は、花の数が手がかりだと考えたのです。もちろん、すぐに結論は出せません。事務所に帰ってから考えます。ところでスミレ様は他の人のご意見も聞きたいと思われているようですが、どうしてでしょうか。ずいぶんと慎重ですね」

「ええ、一人の意見を全面的に信用するのはよくないと考えているものですから」

 もちろん、桑名のことを信用しすぎて失敗したからだ。

「フェルシュテーエン、理解しますとも。さて、シーカ様は意見を聞くなら華道の先生はどうかと言われましたが、心当たりがおありでしょうか?」

「残念ながら、ありません。友人に聞いてみますが、あなたは誰かご存じですか?」

「私もいないのです。しかし、咲洲のATCで毎月華道教室をやっていて、私はお隣の茶道教室の生徒ですから、茶道の先生を通じて紹介してもらえるかもしれません。辺美やす先生をご存じですか」

「堺の相庵流の? 私はお名前しか存じ上げませんが……」

「安那先生のお家はこの近くですから、これから行って聞いてみることにします。それでは今日はこれで失礼致しますです」

「はい、ありがとうございました」

 エリーゼは帽子を被り直しながら蔵を出て行った。帰りの交通費を払わなくてよかったのだろうか、とすみれは少し心配した。

 マンションの部屋に戻ってから、すみれは何人かの知人に電話やメールし、美術評論家あるいは華道家を紹介してもらえるか聞いてみたが、いい返事はなかった。


(続く)

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