第1章 屏風と評論家 (中編)

 すみれは蔵の前からタクシーを呼び、運転手にエリーゼの探偵事務所の住所を告げた。

「南港東8丁目……咲洲さきしまのあの辺りは工場ばっかりのはずで、探偵事務所なんかあるんかいなあ」

 運転手は首を捻りながら車をスタートさせた。「近いんで下道で行きまっせ」という言葉どおり、府道大阪臨海線で大和川を渡り、住之江通りを西へ行って南港、北に上がって咲洲に入った。

 南港中央公園を右に見た後でその端の角を曲がり、工場地帯へ。巨大な配送センターの建物の脇に、中小企業の無機質な四角いビルが並び立つ。運転手は「ほんまにここなんかなあ」という不安そうな言葉を吐きながら、白い建物の前で車を停めた。2階建ての、見るからに中小企業の事務所という感じ。テナントビルではないし、探偵事務所という看板が上がっているわけでもない。

「お客さんが言わはった住所はここですんやけど」

「はあ」

「ほんまにうてんのか、確かめた方がよろしいんとちゃいますか」

 すみれ自身もそう思っていた。名刺をもらっているから、間違いないとは思うのだが。スマートフォンで電話をかけると、エリーゼが明るい声で「窓からタクシーが見えておりますよ。建物の裏の階段をお使いください」と言った。

「では、すぐに参ります」

 料金を払ってタクシーを降り、言われたとおり建物の裏手の階段を登って、“湾岸探偵事務所”とプレートが貼られた白い鉄の扉をノックした。

「はいっ!」

 エリーゼの元気のいい声が中から聞こえた。ドアが細く開いて、茶色いショートヘアが覗く。

「ウメムラ・スミレ様、いらっしゃいませ。少々お待ちください」

 いったんドアが閉まり、それから大きく開け放たれた。

「どうぞ!」

 エリーゼは今日もスリーピース風の紺のベストにスラックスだった。ブラウスは輝くような白。

「お邪魔いたします。すいません、急に電話してしまって。渡利さんに鑑定いただいたら、すぐに終わってしまったので。今日一日かかるのかと思っていたのですが……」

 中に入って、部屋の内装に驚く。趣味のいい壁紙に、落ち着いた色のカーペット。デスクに書棚に応接セット。窓際には観葉植物。まるで梅村の本社ビルの社長室だ。なぜ内装だけこんなに凝っているのだろうと思うほど。

「アキラ様の鑑識がすぐに終わってしまうことを、お知らせしていませんでしたね。カイン・プロブレム、問題ありません。今日の午後はこの件のために空けてあったのですよ。さて」

 まるで午前中は来客があったかのような言い方だったが、実際のところはわからない。エリーゼはすみれにソファーを勧め、自分はデスクの方へと歩いて行った。

「改めて、自己紹介いたしましょう。私が湾岸探偵事務所の所長、三浦エリことエリーゼ・ミュラーです。これ、探偵業届出証明書!」

 壁に掛けられた額を指す。そしてデスクから冊子を取り出す。

「これ、従業員名簿! 従業員は私一人ですけど!」

 次にベストの胸ポケットから取り出したカードを見せる。

「昨日もお見せしましたが身分証明書! 合わせて見せるのが義務なのです!」

 身を翻してソファーの前に立ち、右手を胸に当てながら言った。

「ご安心ください、健全な黒字経営です」

「はあ……」

 昨日は確か、調査業協会の身分証を提示して、名刺をもらっただけだった。後で言われた「事務所に依頼人として来る必要」は、その他の証明書を見せるためであったらしい。エリーゼは満足した様子を見せながらキッチンスペースへ行き、コーヒーを入れ、カップをすみれの前に置いた後で言った。

「さて、アキラ様に屏風を見ていただいた結果はいかがでしたか?」

「はい、プロの日本画家が描いたものではなく、別の人が写したもので……」

 渡利からもらった鑑定書を渡す。全て漢字であるためか、エリーゼは苦笑いしながらすみれにを要求した。神坂雪佳が描いたものを、雪菊という人が模写したようです、と説明する。

「それから、絵の不自然さを美術評論家に調べてもらった方がいいと」

「フェルシュテーエン、了解です。アキラ様でもわからないことがあるのはしかたないのです。美しさシェーネンハイトやその価値は、アキラ様の関知するところではないのですから。しかし、絵がカミサカ・セッカの写しであったことは、アキラ様でなければわからなかったでしょう。ところで、何という花でしたか?」

「矢車菊です」

「ヤグルマギク。ちょっと調べます。……アハン、コルンブルーメのことでしたか。これなら私もよく知っています」

 エリーゼはスマートフォンで調べ物をした後、それをポケットに戻して、足を組んだ。

「さて、スミレ様の依頼をもう一度確認しましょうか。金屏風の由来を調べるということでしたが、その一言では表せないと思いますね。第一エルスト、この元になった絵は何のために描かれたか。第二ツヴァイト、この写しは何のために描かれたか。第三ドリット、元になった絵はどこにあるのか。この三つです。ただし、実はこの絵には何らかの意味が隠されていて、それを解けば三つとも全てわかってしまうのではないかと思いますけれどね。それでよろしいですか?」

「そんなに複雑な依頼になるとは思っていませんでしたが、それで結構です」

「では、依頼料の前金を払っていただきたいです。5千円です。結果はたぶん3日後くらいには出るでしょう」

「3日でわかるんですか」

 依頼料は4万円、支払いは現金のみと聞いていた。すみれは言われたとおり5千円を払った。エリーゼは「フィーレン・ダンク!」と言って受け取り、デスクから“金五〇〇〇円”の預かり証を持ってきた。そしてソファーに座り直しながら言う。

「ただ、一つだけ心配なことがあります。カミサカ・セッカという日本画家を、私は全く知らないのです。それを調べるのに少し時間がかかるかもしれません。コーリンのような有名な画家なら、私も聞いたことがありますし、ドイツ語で書かれた資料も多いのですがね。もしかしたらスミレ様に資料の提供をお願いするかもしれません」

「はい、それは結構です。いつでもご連絡ください」

 桑名が買った美術の資料がいくつかある。その中で、雪佳の資料を探しておこう。彼は美術に造詣が深かったし、蔵の中の美術品のことをよく調べていたから、もしかしたらあの屏風にも気付いていたかもしれない。しかしあのまま付き合っていたら、美術品は一体どうなっていただろう……

「ところで、絵の不自然さを調べてもらわなければならないのですが、スミレ様は誰に依頼するか決めておられますか?」

「渡利さんから一人名前をお聞きしましたが、紹介はしてもらえませんでしたので、これから連絡を取ります」

「私は一人、絵に詳しい人を知っております。その人を紹介してもよろしいですよ」

「どなたですか? 私が聞いたお名前は、白土大樹さんというのですが……」

「その人とは違いますね。私が知っているのは、ウサミ・シーカ様です」

「宇佐美詩歌……天保山美術館の館長の?」

 もちろん、すみれも名前を聞いたことがある。美術館に“鳳凰寺コレクション”を寄贈した鳳凰寺財団が、京都ミュージアムから抜擢した気鋭の女性キュレーターだったはず。桑名は彼女と面識があるらしく、開館が近付いたら紹介すると言われていた。……どうして今日は、桑名のことを何度も思い出すのだろう。もう考えたくないのだが。

「アキラ様が調べよとおっしゃったことは、すぐに調べた方がよいのです。そこに必ず何らかの手がかりがあるのですから」

「手がかりというと……」

「もちろん先ほど説明した、絵は何のために描かれたか、を解く手がかりですよ。ゾーヴィゾー、シーカ様にちょっと連絡を取ってみることにしましょう」

 エリーゼはまたスマートフォンを取り出し、ダイヤルしながらデスクの方へ歩いて行くと、そこで立ったまま話し始めた。すぐに会話は終わったが、苦笑いしている。

「美術館に来てくださいと言われてしまいましたよ。まだ出られないらしいのです」

「出られない?」

 どういうことだろうか。それに、美術館はまだ開館していなかったのではないか。確か、来春のはず。

「詳しい事情は言えないのですが、彼女は美術館に住んでいるのです」

「はあ」

「美術館で働く人以外が彼女と会うには、警察に連絡をしなければなりません」

「警察ですか」

「幸いにも私は警察に知り合いがいますので、ちょっと聞いてみます。お待ちください」

 エリーゼはまた電話をかけた。ずいぶんと楽しそうに話している。そして電話を切らず、笑顔のまますみれに言った。

「会えるそうです。今から行こうと思いますが、スミレ様のご都合はいかがですか?」

「都合というと……」

「つまり、シーカ様をクラに連れて行って、屏風を見てもらうのですよ」

「そういうことなら、私は構いませんけれど」

 蔵の鍵は持ったままだから問題ない。しかし、急に決めて急に行くことになるなんて、警察も宇佐美詩歌もなぜこんな簡単にエリーゼの言うことを聞いてくれるのか。すみれには訳がわからなかった。エリーゼはまた笑顔で会話し、電話を切った。

「今から刑事が来てくれるそうです。その人に美術館へ送ってもらって、シーカ様を連れ出すことにしましょう」

「はあ」

 すみれが呆気に取られていると、エリーゼは帽子掛けのところに行った。スーツと揃いの色のハットを、鏡を見ながらずいぶんと時間をかけて被っているが、やがて満足したのか、デスクのところに戻り、椅子にふんぞり返って座った。

 十分ほどすると、外の階段をパンプスで駆け上がってくるような足音が聞こえた。鉄製なのでよく響く。それからドアに独特のリズムのノック。

「ではスミレ様、行きましょうか」

「警察が来たんですか」

「そうです」

 では、あのリズムのノックが合図なのか。エリーゼがドアを開けると、スーツ姿の、若い、頼りなさそうな女性が立っていた。笑顔だけはひたすらにこやかだ。

「エリちゃん、来たよー。急のことやったけど、宇佐美館長の了解取れてるんやんなあ?」

「ご苦労様です、フジコちゃん。シーカ様へ確認せずに来たのですか」

「フジコやなくて不二恵です。確認したけど、門木さんが信じてくれはらへんねん」

「警察内部の話はフジエちゃんの方で処理してくださらなくては困ります。ところでこちらが、これから一緒に行くウメムラ・スミレ様です」

「こんにちはー、大阪臨海署生活安全課の田名瀬不二恵巡査です」

 不二恵は言いながら警察手帳を取り出して見せてきた。訳がわからないながらも、すみれも自己紹介する。すぐに事務所を出て、車に乗り、走り出した。運転はもちろん不二恵。助手席にエリーゼ、すみれは後ろ。

 工場地帯から住宅街へ、そして高いビルが建ち並ぶ商業地区を駆け抜け、海底トンネルへ入る。抜けると民家に囲まれてひっそりと建つ、図書館のような建物の前で車が停まった。ここが天保山美術館であるらしい。

 すみれとエリーゼは車の中で待つように言われ、不二恵だけが降りて、スマートフォンで電話をかけながら裏口の方へ歩いて行ったが、すぐに女性を一人連れて戻ってきた。おそらくはすみれと同世代の、30代前半。美術館館長あるいは美術評論家というより、優秀な弁護士といった風貌だった。

 その女性が、後部座席の、すみれの隣に乗り込んできた。曖昧な笑顔を浮かべている。

「梅村すみれ様ですか。天保山美術館館長の宇佐美詩歌と申します」

「はい、梅村でございます。初めまして。この度は急にお呼び立てして……」

「ええ、私も驚きましたが、探偵さんには以前大変お世話になりましたので、できる限り協力させていただこうと。それに、何やら大変珍しいものを見せていただけるそうで」

「ええ、神坂雪佳が描いた金屏風の写しなんですが……」

 会話している間に不二恵が「出発しまーす」と言って車をスタートさせる。

「阪神高速使う方が早いんやけど、下道で行きまーす」

 覆面パトカーのはずだが、緊急車両扱いにはできないのだそうだ。


(続く)

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