第2章 探偵と矢車菊 (前編)

 翌日の朝、すみれのところに鑑識事務所から鑑識結果が郵便で届いた。速達+簡易書留になっていた。これでは鑑識料千円の7割くらいが郵便料金だ。それで儲けがあるのか、他人事ながらすみれは心配になった。

 それをエリーゼへ転送したかったが、電話すると留守電になっていた。メッセージを入れておいたら、昼過ぎにエリーゼから電話がかかってきて、「明後日の夕方でよいです」と言う。

「正式の鑑定結果は必要ないのですか」

「昨日見せていただいた仮の鑑識結果と、違うところがあるでしょうか?」

「参考情報として、余分と思われる花を指摘した図面が入っているんです」

 A4用紙の上下に1枚ずつ屏風の略図が描かれ、不要と思われる矢車菊に“?”マークが付けてある。矢車菊自体は丸と曲線で略記してあるが、その位置は驚くほど正確に再現されていた。渡利はあの場で写真を撮らなかったはずなので、後でエリーゼか詩歌から入手したのかと思って尋ねてみたら、エリーゼは知らないと答えた。

「アキラ様のことですから、記憶していたのでしょう。映像記憶の持ち主なのですよ。映像記憶をご存じですか?」

「ええ、写真やビデオに撮ったかのように光景を覚える能力ですね。私が留学先で会った人や、梅村の社員にも何人かそういう人がいたと思います」

「不要な花は、アキラ様がご自分でお考えになったか、それとも後で誰かに相談したのかもしれません。鑑定書に署名が入っていると思いますが、アキラ様のお名前の他に書かれていますか?」

「書かれているようですが、達筆すぎて判読できません」

 報告書自体はワープロソフトで作ったものを印刷してあり、名前は“渡利亮”のみ。その下に仮鑑定書にもあった渡利の署名が書かれ、さらに別の署名がある。それが達筆というか、有名人のサインのようにデザイン化されていて、とても読めるものではなかった。あるいは、画家の花押かもしれない。

「余分な花は、シーカ様の指摘と同じですか?」

「はい、全く同じです」

「では、やはり明後日の夕方でよいです。調べることが多くて、お会いする時間が取れないのですよ。しかし、明後日の夕方までかければわかると思っているのです」

「わかりました。では、明後日の夕方……5時くらいでしょうか?」

「はい、その時間にお越しください」

 電話を切ってからすみれは、また評論家捜しを始めた。しかし知り合いの骨董商に聞いても「付き合いのある評論家は何人かいるが、すぐには見てもらえないと思う」という答えばかり。エリーゼは思い付いたその瞬間に電話をかけて、すぐに詩歌に見てもらえたのに、何という違いか。梅村製薬の伝手を使う訳にもいかないので、あきらめることにした。


 翌々日の夕方、約束の時間にすみれは探偵事務所を訪れた。ドアをノックすると、エリーゼが顔を覗かせたが、以前の自信たっぷりな表情ではなかった。「いらっしゃいませ」と言ったが、その声も元気がない。中に招き入れられ、またコーヒーを勧められる。

「ちょっと苦戦しているのです。日本語の暗号と考えているのですが、私はドイツ人ですから、解読の手がかりを集めるのに時間がかかっているのですよ」

 応接テーブルの上に、紙で作った屏風が二つ載っていた。絵柄はなく、A4サイズの紙を半分に切って、屏風のように折り曲げただけのものだ。それぞれの面に数字が書いてあって、一つには「6 14 10 13」、もう一つには「16 9 20 23」とある。すみれがそれを取り上げて見ていると、エリーゼが話し始めた。

「屏風の花の数です。全部で八つのカタマリがあるので、その数字の一つ一つが、日本語の文字に対応していると考えたのです。ただ、古い日本語は右から左へ読む場合があるそうなので、それも一応考えているのですがね。そして、一方が名字で、もう一方が名前だと思っています。名字も名前も4文字ずつというのは日本ではよくありますから。しかし、どうしても名前になりそうにないのですよ。それどころか、日本語ですらありません」

 エリーゼはたくさんのひらがなが――どれもあまりうまくない字だったが――書かれた紙を見せてきた。「かせこす たけとぬ」「へかぬわ たりねむ」などとある。

「それが何か意味のある言葉でしょうか? 最初のは『あいうえお』の順番で文字を当てはめたものです。その次のは『いろは』です」

「全くわかりませんね。逆から読んでも……」

「他にも『あめつちの歌』というのを見つけたので試してみました。それから『とりなくこえす』というのも試してみました。とてもいい日本語の勉強になりましたが、解けませんでした。他にはあの絵がコーリンの『かきつばた』を参考にしていたことから、アリワラ・ナリヒラという人の和歌も試してみましたよ。ご存じですかね」

「在原業平……『からころも、着つつ慣れにし……』というあの歌ですか? 『かきつばた』という言葉が織り込まれているのですね」

 それはすみれも知っていたが、「あめつちの歌」や「とりなくこえす」は知らなかった。おそらくは「いろは歌」の代わりになるようなものなのだろうけれど、外国人なのによくそこまで調べられたものだ。

「そうです。日本人は素晴らしいですね。ヘーアン時代からそうやって暗号で遊んでいたのです。この屏風の暗号も、もしかしたら私がまだ調べ切れていないような、日本独特の方法で作られているのかもしれません。あるいは漢字を当てはめるのかもしれません。今日はセッカのことを調べていました」

 エリーゼはデスクから本を2冊持って来た。同じ物がすみれの家にもあった――桑名が買った――が、エリーゼは自分で入手したらしい。古びているから、図書館で借りたか古書で買ったのだろう。

「この本の中の文字を当てはめるのかと思ったのです。しかしこれはズアンシューというもので、絵が描かれているだけなのですね。いくつかの絵はウェブで見られたのですが、それが手がかりになるとはとても思えませんでした。もう少し時間がかかるので、明日まで待ってくださいとお願いしようと思っていたところです」

「はい、それは構いません。明日と言わず、別に1週間くらいかかっても……」

「ナイン、ナイン、それでは私が次の仕事ができなくて、お金が稼げないのです。どこかで諦めていただくのですが、その時には前金もお返しします」

「せっかく時間をかけてくださっているのに、返していただかなくても……」

「それは私のキョージの問題なのですよ。アキラ様だって、鑑識できないときは料金は受け取らないのです。ただ、鑑識できなかったことは一度もないはずですけれどね」

「そういえば、今日はその鑑識結果をお渡しに来たのでした。どうぞ」

 すみれが差し出した封筒を、エリーゼは気のない素振りで受け取った。

「ありがとうございます。しかし、もちろん日本語で書かれているのですよね。私が読めるところもあるでしょうが、読めないところもあるはずなのですよ。だから今日でいいと言ったのです。しかし、せっかく持って来ていただいたのですから、もちろん読みますですよ」

 エリーゼは封筒から報告書を取り出して広げた。やはり漢字が多いせいか、同じところを何度も読み直しているように見えた。その視線が報告書の中程まで下りてきたとき、元々大きな目が、さらに大きく見開かれた。

「ホップラ! なぜここにドイツが書かれているのですか? スミレ様はアキラ様に、これを私が読むことを教えたのですか?」

 エリーゼは強い口調で言ってから、すみれを見た。突如変わったエリーゼの剣幕に、すみれはたじたじとなった。目つきは険しかったが、そこには明らかに驚きと動揺を含んでいる。

「いえ、そんなこと一言も……だって、言ってはいけないということでしたから。それに、ドイツ語なんて書かれていたでしょうか?」

 もちろん、すみれは全部を読んで理解することができた。ドイツ語で読めないと思ったところは一つもなかったはず。

「ヤグルマギクの横に、"Kornblumeコルンブルーメ"と書いてあります。これはラタインではないです。ドイッチュです。ヴァルム!? なぜアキラ様は、こんなところにドイッチュをお書きになったのです!? ヴァルム!?」

 エリーゼは勢いよく立ち上がると、目を細め、額に右の人差し指を当てた姿で、ソファーの周りをぐるぐると歩き回り始めた。何か独り言を呟いているようだが、すみれには聞き取れなかった。もしかしたらドイツ語かもしれない。さっきは興奮したのか、日本語の中にドイツ語が混じっていたし。

 突然、エリーゼの足が止まった。そして手にしていた報告書が滑り落ちた。報告書は宙で翻ってから、カーペットの上にふわりと舞い降りた。エリーゼは額に当てていた指を外して、天井の一角を見ていた。すみれはつられてそこを見たが、何もなかった。

 エリーゼに目を戻すと、彼女の目は大きく見開かれ、次の瞬間うつむいて、身悶えするときのように自分で自分を抱きしめた。

「!!!」

 言葉にならない、悲鳴のような声をエリーゼがあげた。そして身体から両手を離して拳を強く握り、ガッツポーズするときのように腕を折り曲げて、辺りをぴょんぴょんと跳ね回った。

「フォルトレファー! ドゥ・リーバー・ヒンメル! ヴィー・ヴンダーバー! ヴィー・アウスゲツァイヒネット! ヴィー・ファンタスティッシュ! アー・マイン・ヘル・アクヴィラ!」

 どうやらそれは歓喜を表すドイツ語だということしか、すみれにはわからなかった。呆気にとられるすみれの前で、エリーゼはひとしきり喜びを全身で表現した後で、ようやく跳ねるのをやめ、大きく息をついた。そして前髪を右手で掻き上げながら、すみれの方に向き直った。まだ少し息が荒い。

「エントシュルディグンク、失礼しました、スミレ様。アキラ様のおかげでようやく暗号を解く手がかりを見つけたので、とても興奮してしまったのです。シュータイをさらしたことを深くお詫びいたしますです」

「はあ、いえ……少し驚きましたけど、とても喜んでらっしゃるようなので、何かわかったのかとは思いましたが……」

「わかりました。さっきまでの私のやり方は全て間違っていました。最終の報告は明日になるかもしれませんが、この暗号を解いた喜びを、私と分かち合っていただくことはできますか? つまり、今からしばらくの間、私の説明をお聞きいただきたいのです」

「はい、それは構いませんが……」

 エリーゼはデスクのところに行って、何か取ってきた。新しい紙……白紙だった。向かい側のソファーに座ると、「かせこす たけとぬ」などが書かれた紙を床に払い落としてしまい、白紙をテーブルの上に広げた。他に載っているのは、紙で作った屏風だけだ。


(続く)

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