第4章 皿と交渉 (中編)
2日後の土曜日に、利津子は桑名と会うことになった。柿右衛門とマイセンについて勉強する時間は、木曜午後と金曜日の1日半しか取れなかった。
酒井田柿右衛門は17世紀前半に赤絵磁器の焼成に成功した酒井田喜三右衛門が初代を名乗り、現在は15代。17世紀後半からはヨーロッパへの輸出向けも多く作られ、“白い金”と呼ばれて王侯貴族の間で珍重された。
18世紀前半になってようやくヨーロッパでも白磁の製造に成功。その先駆けがマイセンで、1710年、ドレスデンに王立ザクセン磁器工場を設立したのが始まり。その質は他のヨーロッパの窯と比べても高く、“マイセンの柿右衛門写し”を他の窯が手本にしたこともあるという。特に樹木・草花と鳥類を組み合わせた『花鳥文』は皿から鉢、壺に至るまで定番となっている。
もちろん、マイセンは柿右衛門のデザインを真似ているが、柿右衛門の絵柄は繊細で愛らしさがあるのに対し、マイセンは重厚で力強ささえ感じられるとか、柿右衛門よりもマイセンの方が大ぶりに作られているとかの違いがある。などなど。
桑名のマンションを訪問する前に、利津子はエリーゼの事務所を訪れた。もちろん、事前の作戦会議のため。ティナも来ている。エリーゼはいつものスリーピースだったが、ティナは派手なアロハではなく、ダークグレーのパンツスーツを着ていた。利津子はエリーゼからの指示で、クリーム色のスーツだが、下はタイトスカートだった。
「カキエモンとマイセンのお勉強はしてくださいましたか」
コーヒーを飲みながらエリーゼが言った。
「はい、頑張りました」
「クワナの質問には受け答えできそうですかね」
「さあ、桑名さんがどれくらいお詳しいかよくわからないので、それは何とも」
「なるべく手早く済ませたいと思っているのですが、5分や10分では短すぎるので、もうすこし粘っていただきたいのですよ」
「何を済ませるんですか?」
「それはリッちゃんは知らない方がよろしいでしょう。正直なので、顔に出てしまいますからね」
「わかりました。エリちゃんを信用します」
「では、これをご覧なさい」
エリーゼはデスクから平たい木の箱を持って来て、利津子の前に置いた。木の表面は茶色く古びていて、いかにも高級な品が入ってそうに見える。
「何でしょう?」
「開けてご覧なさい」
「はい。あら、お皿! ああ、これも柿右衛門写しですね」
箱には直径40センチはあろうかと大皿が入っていた。絵柄は利津子が図書館の資料で見た花鳥文だった。『色絵 花鳥文皿』だろう。上に枝を伸ばす松、下に枝を這わせる梅、そしてその間を飛ぶ鳥。皿の周囲にも色とりどりの花が配されている。
「取り扱いにお気を付けください。マイセンの最も初期のカキエモン写しです。本場のマイセンにも一組6枚しか残っていない貴重品です。リッちゃんがお持ちのローター・ホフドラッヘの100倍くらいの値段になるでしょう」
「そんなにすごいものでしたか」
「いけませんね。簡単に騙されました。貴重は貴重ですが、サザビーズで数年に一度は出るようなものです。値段も10倍ほどでしょう」
「あら、そうでしたか。ごめんなさい、希少性とか値段のことまでは勉強できなかったので」
「しかたないことですが、どれくらい貴重かと、どれくらいの価値かは、今言ったことでおわかりになったでしょう。これをクワナのところへ持って行って、売りたいと言って値段を交渉するのです。ちなみに、それと同じ物があと5枚ある、つまり6枚組の完品と言うことにしてください」
「わかりました。本当にあるのですか?」
「あります」
「ティナちゃんが用意してくださったんですか」
「そやで。骨董屋に探してもらうの、大変やったわー」
ティナはとっくにコーヒーを飲み干し、お菓子までむさぼっている。
「騙されないでください。ティナちゃんが探せなくて降参したので、私があるお方にお願いして貸していただいたのです」
「あら、そうでしたか」
「では、予行演習をしましょうか。何年くらいに作られたものかわかりますか?」
「裏返していいですか。マイセンマークを見ればだいたいわかるはずです」
双剣マークは、交わる角度や曲がり具合が年代によって違っている。見たところ、1722年から63年のものであると利津子は推定したが、エリーゼに言うと当たっていた。ペインターは番号しかわからなかったが、名前を教えてもらった。もちろん推定価格も。
「さて、最後はこれです」
エリーゼが名刺を出してきた。「西洋美術史研究家 岡田利津子」とあり、知らない電話番号が書かれていた。
「つまり、偽名を使って会うんですね」
「そうです」
「西洋美術史研究家ですか。骨董のことを勉強したので、骨董屋さんになるのかと思ってました」
「コットー屋はティナちゃんです。クワナと取り引きのあるコットー屋から紹介されたということにしてあります」
「バレないでしょうか」
「コットー屋は実在しますし、探偵事務所と契約しているので大丈夫です。名刺の番号はレンタルケータイのものですが、ここにちゃんと電話機が存在します」
エリーゼが出してきたスマートフォンを利津子は預かった。
「名前を言い間違えないよう、気を付けてください」
「わかりました。岡田利津子、岡田利津子。下の名前は同じなんですね」
「違う名前にすると、呼ばれたときに返事をしなくてバレてしまうことがあるのですよ。砂辺という名字は、ティーセットの件を桑名が思い出して気付くかもしれないので、違うのにしたのです」
「岡田は私の母の旧姓ですね」
「偶然と思いますか?」
「あら、調べたんですか?」
「また騙されましたね。偶然です」
「そうでしたか」
その後、訪問したときの挨拶や、皿の件の切り出し方を一通り予行演習し、利津子はティナと共に桑名のマンションへ向かった。皿の入った箱は、ティナが布製の肩掛け鞄に入れて運ぶ。
「すいません、お皿を持っていただいて」
「まあ、何かあったら依頼人に弁償させるわけにはいかへんからなー」
マンションまでは徒歩15分ほど。団地のように画一的なデザインの、白やグレーのマンション群の中で、オレンジの壁に緑のアクセントが入った10階建ては、ひときわ目立っていた。それだけがいかにも高級そうな印象がある。
エントランスに入り、インターホンで桑名の部屋番号を押して呼び出したが、応答はなかった。
「デートには遅れてけえへんらしいけど、来客は待たせるみたいやな」
「そうなんですね」
管理人までいる、ホテルのロビーのように豪華なエントランスでしばし待つと、男が入ってきた。ティナが愛想よく挨拶する。彼が桑名であるらしい。利津子はもちろん初めて見たが、エリーゼが“イケメン”と言っていたとおり、確かにハンサムだった。
「やあ、お待たせした。冬木さんと岡田さんだね?」
バリトン歌手のように心地よい響きの声だ。身長はおそらく170センチくらいで、それほど高くはないが、握手したり、「どうぞこちらへ」と案内したりするときの動作が、どれも優雅だ。仕立てのいい紺のコートの下に、ベージュのハイネックシャツと若草色のスラックス。風貌は40代くらいに見えるが、服装はもう少し若く見える。
桑名はカードを使ってゲートを入り、エレベーターに乗ると操作パネルの“10”のボタンの横に同じカードをかざした。“10”のランプが灯った。これが不二恵の言っていたセキュリティーシステムだろう。
エレベーターはノンストップで10階に着き、廊下を端まで歩いて部屋に入った。ドアを開けるときも、もちろんカードをかざすだけ。ただし、鍵穴もある。エレベーターもそうだったが、カードと鍵のどちらでも使えるようだ。
中に入ると桑名が玄関脇の壁のパネルで何か操作した。利津子の後ろで、ドアの錠が閉まる音がした。
「立派な防犯システムやなー。こんなん、絶対泥棒入られへんわ」
ティナが感心したように(少しわざとらしく)呟いた。
「ああ、このマンションの自慢でね。部屋にいるときでも鍵がかかって、来客に顔を出すだけでもこのパネルを操作しなきゃならんのが面倒なんだが」
「え、うっかり操作を忘れてドアを開けたら警報が鳴る?」
「すぐには鳴らないが、30秒以内に暗証番号を入力しないといけない。ドアを開ける前にこのカードをパネルにかざすと鍵が外れて、しばらくドアを開けていても何事も起こらない。まあ、そんなことは今まで一度もなかったね。配達人はこのフロアに来ないし、客が一人で上がってくることもないから」
「客が知らん間に勝手に帰ったら、警報が鳴ってしまうんや」
「ははは、そのとおりだが、それも一度もないね」
招き入れられたのは南向きの広い応接間で、立派な造りだが意外に装飾品は少なかった。壁に絵が1枚、サイドボードの上に壺と花瓶ときらびやかな置き時計が載っている程度。もちろんカーペットは高級そうだし、ソファーも座り心地が良かった。桑名は「ちょっと失礼」と言って部屋を出て行き、しばらくしたらコーヒーポットとカップの載った銀盆を持って戻って来た。あらかじめ用意してあったらしい。
改めて挨拶をして、利津子とティナは名刺を渡した。利津子はもちろんエリーゼに用意してもらったものだ。桑名は物憂げな茶色い目で名刺を眺めている。
「西洋美術史研究家? 在野の研究家かな」
桑名が利津子を真正面から見つめつつ、親しげに話しかけてくる。心をとろかすような甘い雰囲気があり、その魅力に参ってしまったすみれの気持ちが、利津子にもわかった。
「はい。神和女子大学で非常勤講師をしています」
桑名は利津子に興味を持って、その他にも色々と聞いてきたが、予行演習のおかげで、無難に答えることができた。その間に、ティナが先ほどから大事そうに手に持っていた木箱を、テーブルに置く。利津子が蓋を取って、中の皿を桑名に見せた。
「ふむ! これは素晴らしい」
桑名は感嘆の声を上げ、しばらく見入っていった。そのときの目は結婚詐欺には見えず、まさに陶磁器の目利きが逸品を愛でるときのものだった。そういう目つきも、女性を夢中にさせるのだろう。
「確かにマイセンの柿右衛門写しだ。しかも、かなり時代が古いものに思われる。手に取ってみて構いませんね?」
利津子が「どうぞ」と言うと、桑名は箱から皿を取り出し、表面を顔に近付けてざっと見た後で、裏返した。双剣マークとペインター番号を確認しているのに違いない。
「18世紀初頭のものだ。写真でよく見る有名なもので、実物を見たのは一度しかない。あなたはこれの6点セットをお持ちとおっしゃいましたね?」
「はい、さようです」
「これと同じものは東京と京都の博物館、そして大阪の某資産家のところにあると聞いたことがある。資産家のものはサザビーズで競り落としたということだった。失礼だが、これはどのような経緯であなたがお持ちなのか、お聞かせ願いたい」
「私の祖父が、ドイツのあるコレクターから譲ってもらったものです。祖父も西洋美術史研究家で、特に陶磁器のことをよく研究していました。ドイツを訪れて貴族のお屋敷に眠る古い陶磁器の価値を調べていたのですが、その中のある方から頂いたと聞いています」
「ご祖父様は有名な研究家ですが。お名前は」
「いいえ、無名です。名前を申し上げてもご存じないでしょう」
「しかし、研究論文は書いているのでしょう。タイトルを一つ二つ教えていただきたい」
「大学や同人誌に送りましたが、相手にされなかったらしいのです」
「いや、しかし……」
「あのー、すいません、お手洗い貸してもらえます?」
利津子と桑名が話している間、コーヒーをがぶ飲みしていたティナが言った。
「ああ、廊下へ出たところの……いや、案内しましょう」
桑名はティナを連れて応接間を出て行き、すぐに戻ってきた。「ドアがたくさんあるので、違うところを開けられても困るのでね」と言う。ここの間取りは不二恵から平面図を見せてもらったので、利津子も憶えている。5LDKあって、キッチン以外、どこの部屋も鍵が掛けられるようになっているらしい。作戦会議では、寝室や書斎はどこかを、エリーゼたちが予想していた。
桑名はソファーに座り直し、さっきまでとは種類の違う笑みを浮かべながら言った。
「僕が気にしているのは、これが本当にあなたの持ち物かどうかということですよ。もっと言うと、売る資格があるのかということです。値段を決めて契約を進めて、いざ買う段になったら、実はあなたの持ち物ではなかった、あるいは盗品だったなんてことになったら大変だ。だからこの品の出自をはっきりさせたいというのは当然でしょう」
「それは契約をするときに改めてお知らせします。本日はこの品にご興味をお持ちかどうかを伺いに来ただけですので」
「出自がわからなければ値段も決められませんよ。あなたの方は言い値をお持ちかもしれませんがね」
「私のことを信用してくださいとしか、今のところは申し上げられません」
「あなたの身元を探偵を使って調べますが、それでも構わないのですね」
「ええ」
「いや、実はもう調べてあるんだよ」
桑名の態度が急に変わった。笑みを浮かべたままだが、それは冷笑に変わっている。まるで獲物を狙うときの鷹の目だった。あるいは逃げ場のない鼠をいたぶる猫の目。
「あんた、この前まで俺のことを調べていた探偵の仲間だろう?」
(続く)
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