第4章 皿と交渉 (前編)

 翌日、利津子は12時50分に梅村ビルに着いた。エリーゼもほぼ同じタイミングで現れた。服装は昨日と同じ。黒と緑のウインドブレーカー。それを脱ぐと、いつものスリーピースにブラウスはレモンイエローだった。受付に用件を告げ、最上階へ行く。社長応接室には上品な女性が待っていた。

 年齢は利津子と同じ30代前半だろう。一見して“お嬢様”と感じる気品のある顔立ちで、穏やかな笑顔を浮かべているものの、どことなくよそよそしく仮面のような冷たさも備えていた。顔色は青白く、何となく近寄りがたい。まるで雪女を見るようだった。

 すみれはソファーから立ち上がって丁寧に挨拶をした。エリーゼは右手を胸に当て、軽く頭を下げた。外国風の礼のようだ。そして名刺を渡して名乗る。声にいつもより恭しさがある。利津子も頭を深く下げて挨拶した。

「マイセンのお皿を、鳳凰寺財団ではなくあなたが管理されていること、昨日初めて伺いました。そのお皿が借用書であることは存じていますが、今日は私の考えをお伝えいたします」

 言葉遣いは丁寧だったが、声はみぞれ交じりの吹雪を思わせる冷たさで、利津子は思わず震えそうになった。

 ソファーに座ると、すみれは焦点の合わない目で、利津子でもエリーゼでもない中空の一点を見ていた。夢見るよう、というよりは、何かに夢中になって――例えば新興宗教にはまっている人のように――自分の中にしかない幻を見つめ続けている、といった風だった。もしここに桑名正光という男がいれば、すみれの視線はその男に注がれ、あたかも神を見るかのような目つきになっていただろうと思われる。

 利津子は持って来た小型スーツケースの中から、割れた皿を取り出してテーブルの上に並べた。そしてエリーゼが、それがマイセンと柿右衛門の混合ティーセットの借用書であることを、理由を付けて(つまり推理した結果を)話した。すみれは怪しくも冷たい笑みを浮かべながら聞いていたが、エリーゼが話し終わると、ひときわ冷淡な笑みを見せて言った。

「詳しいご説明ありがとうございます。私が祖父から聞いている話と、全く一致しています。この割れたお皿が、マイセンのティーセットの借用書でということに間違いはありません」

「ご了解いただき、おそれ入りますです」

「ですが、これだけではやはりティーセットをお返しすることはできません」

「理由をお聞かせくださいますか」

 すみれの言葉を聞いて利津子は驚きに息を呑むだけだったが、エリーゼは間髪を入れず質問した。答えを予想していたかのようだ。

「何を貸し借りしたかが明らかではないからです。借用書に最低限必要な項目は、貸主、借主、金額または品目、返済日です。返済日は特に決めていなかったようですが、貸主が返して欲しいと言った時がその期日ということでも構わないでしょう。だからはっきりしていないのは品目です。しかしこの件に関して、それは当事者どうしの記憶しかないのです。もちろん、口約束がいけないというのではありませんよ。契約の最初は口約束のようなものから始まって、それを明示するために書面にするというだけですから」

「つまり、ホーオージ・ヘイゾー様が既に亡くなっているのが問題ということでしょうか?」

「それもちゃんと申し送りできていれば良かったのです。つまり貸方が、何を貸したか把握されていないのが問題と申し上げているのです。おわかりですか? ティーセットの借用書であったということはご存じだったようですが、セットの品目はわかってらっしゃらなかった。それは社長秘書の田村からお聞きになったと伺っています」

「そのとおりですね。貸したものと、借りたものが一致していなければなりません」

「私は、お返ししたくないというわけではありません。砂辺様はお皿をお持ちですから、少なくともお皿はお返しした方がよいと、私も考えています。あれだけは柿右衛門とのことで、他と揃っていませんから。ですが、その他の品を返すべきかどうかは、あなたと私の、どちらにも判断が付かないのです」

「梅村カイチョーは全て返した方が良いとおっしゃったそうですね」

「そのとおりですが、それは祖父の記憶によるものです。記憶は往々にして変容するものです」

「ヘンヨーとは?」

「変わってしまうっていうことです」

 利津子は横から小声で解説した。エリーゼはさっぱりとした顔になって言った。

「アレス・クラー、了解しました。易しく言うと、梅村カイチョーは返す品物を勘違いしているかもしれない、本来返すべきものよりたくさん返そうとしているかもしれない、とおっしゃるのですね」

「ご理解いただけて何よりです」

「ところで、そのご意見はスミレ様がお考えになったのでしょうか?」

 すみれの氷の微笑みが、さらに冷たくドライアイスのようになった。

「そうですが、何か?」

「ティーセットは梅村カイチョーから譲られたと聞きましたので、それに関するご意見も梅村カイチョーから引き継がれたのかと思っていました。しかし、違ったようですね」

「祖父から譲られたのはそのとおりですが、私が管理することになったのですから、私の意思に基づくのは当然のことでしょう」

「他の方からのご意見ではないのですね?」

 すみれはしばらく口を閉じ、エリーゼを凍らせるかのような冷たい視線を放っていた。エリーゼは暖かくも冷たくもない、平静な目で見つめ返す。

「私の考えです」

「了解しました」

 エリーゼは帽子を被りながら利津子の方を向いて言った。「おいとましましょう」。利津子はテーブルに置いた皿を回収し、立ち上がって「それでは失礼します」と言い、エリーゼの後に従った。

「まずはこうして会えただけでも良しとしましょう。スミレ様は割れたお皿をシャクヨーショと認め、カキエモンのお皿だけでも返す意思があるということです」

 エレベーターに乗って降りながら、エリーゼが言った。

「そうですね。でも、どうしてお祖父さまからお聞きになったとおりになさらないのかしら」

「それはもちろん、クワナが絡んでいるのですよ。何を貸し借りしたかが明らかでない、というのはクワナの入れ知恵に決まっているのです」

「そうでしょうか」

「ティーセットを返すのが梅村カイチョーの考え、お皿だけでも返すのがスミレ様の考えなのでしょう。なのに、それとは違う三つ目の見解があるのなら、それは第三者の意見であるというのが当然ではないですか」

「なるほど。では、とりあえずお皿だけでも返してもらうというのはどうでしょうか」

 エレベーターが1階に着いた。降りて、ウインドブレーカーを着ながらエリーゼが言う。

「お皿を返してもらったら、それで貸し借りがなくなったと言われてしまいますよ? 返してもらうのなら、全て同時です。それ以外の選択はありません」

「では、どうしたら……」

「スミレ様に変な意見を吹き込んだ人物を排除するしかないのですよ。そうすればスミレ様は考えを変えてくださるはずです」

「桑名さんのことですか。でも、どうやって……」

「それはティナちゃんに準備を頼んだのですが、どうなりましたかねえ。とりあえずまた堺へ行ってみましょう」

「どうしてまた堺なんですか」

「まだ堺か咲洲で仕事中だからですよ。今から行けばちょうど終わった頃のはずです。エリンネルテ・ミッヒ、思い出しました。スミレ様とのお話が終わったことを知らせるのでした」

 エリーゼはスマートフォンを取り出して操作した。メッセージを送ったようだ。もちろん、ティナへだろう。それから昨日と同じようにエリーゼはバイクで、利津子は電車で堺へ向かう。蔵へは行かず、駅前でティナと待ち合わせた。喫茶店に入り、エリーゼが「どうでしたか」とティナに聞く。

「その前に」

 ティナがエリーゼの前に手を差し出す。“請求書”が載っていた。明細は調査費用に交通費……エリーゼが財布を取り出し、ぴったりの金額を払って、領収書を受け取る。

「予想どおり、咲洲のマンションへ行きよったわ。すみれさんが家を出て、5分後くらいやったかな。シルバーのポルシェ911で」

「車種に興味はありませんよ。マンションには誰が来ていましたか?」

「名前はまだわからへんけど、とりあえず写真撮っといたわ。写メで送る」

 メールを受け取って、エリーゼがスマートフォンを見る。利津子もそれを覗き込む。マンションのエントランスとおぼしき場所で撮ったものらしく、後ろ姿の男と、エントランスの中でそれを迎える女性が写っていた。遠くから撮ったであろうのに、かなり鮮明だ。

「ヴンダーバー、すばらしいです。相変わらずティナちゃんは写真を撮るのだけはお上手ですね」

「“だけ”は余計や! で、名前を調べるんやったら追加料金かかるけど」

「解決のために必要ないとは思いますが、念のために調べてください。それで、もう一つの方は?」

「そっちはもうちょっと待って。骨董屋に依頼中やねん。それに、あんたとすみれさんが会ったのが今日で、こっちの方も今日やったら、タイミングが良すぎると思われるやろ」

「そのとおりですね。お任せしましょう。しかし、1週間以内でお願いしますよ。それから、リッちゃん」

「はい、何でしょう?」

 エリーゼとティナが、既に何らかの作戦を立てて動いていることに、利津子は感心していた。それに、今日すみれと会ったのは、彼女が不在の間に桑名がどのような動きをするかを調べるためであったことも。

「ティナちゃんの準備が終わるまでに、カキエモンとマイセンについてお勉強してくださいますか」

「マイセンはほんの少しだけなら知ってますが、それじゃダメなんですね。ああ、あのお皿が作られた頃のことを調べるんですか」

「プロのコットー屋として通用するくらいになっていただきたいのです」

「そうなんですか! エリちゃんはそういう知識はないのですか?」

「ありますけれど、私は他のことをしないといけないのですよ。それに、私はクワナに顔を知られているかもしれませんから」

「じゃあ、私はお勉強して、桑名さんとお話をしに行くんですか」

「そういうことです。ご心配なく。一人ではなく、ティナちゃんが付いて行ってくださいます」

「私もエリちゃんと一緒で、あーいうタイプの男と会うと、背中がむずむずしてごっつい気持ち悪うなるんやけどなー。追加料金欲しいわ」

「残念ながらそれは払えませんよ。あなたのところの所長さんも了解してくれたではないですか」

「しゃーないな」

 桑名と会う日はいつになるかわからないので、なるべく急いで勉強して、と利津子は言われた。帰りに大阪の中之島図書館へ寄ることにした。


(続く)

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