第3章 蔵と錠前 (中編)

 突然、梅村すみれという名前が出てきて利津子は驚いた。世事には疎いが、どこかで聞いたような名前と思ったからだ。

「でも、私が個人的にすみれさんにお会いするのなら、構わないのではありませんか?」

「いえ、それが、知らない方に会うのを拒否されるのです。桑名と別れさせる説得に来たのだろうとお考えになるようで。それだけでなく、ご友人との付き合いも疎遠になっておられて」

「桑名さんというのは悪い方なのですか?」

「私どもの調査では結婚詐欺師です。警察もマークしているくらいなのですが、言っては何ですが、すみれさんはあっさりと引っかかられたようで……」

「結婚詐欺は相手にいい思いをさせるので、結婚できなくなっても訴える女性はほとんどいないのですよ。だから警察も手を出せないのです」

 エリーゼがまた口を挟んできた。いつの間にか座り直し、目に興味の光が宿っている。

「あら! そうなのですか。それは困りましたね。でも、警察はどうしてすみれさんの家へ行こうとする人に注意するんでしょう?」

「訪問客があると、桑名がマンションの中で暴れたり大声を出したりするそうです。本人は、すみれさんと別れさせられそうになって悲しいから嘆いているのだ、と弁明するのですがね。すみれさんはすっかり懐柔されておられるので、桑名をかばってマンションの他の住人に謝るばかりなのですが、住人は騒音などで迷惑するというので、生活安全課に訴えたのですよ」

「じゃあ、私はすみれさんのところへ行かない方がいいですね。ティーセットはもうしばらく預けておくことにしましょう。そのうち、すみれさんも落ち着かれるでしょうし」

「リッちゃん、そんなにユーチョーなことは言ってられませんよ。クワナが勝手に売ってしまうかもしれないのです」

 エリーゼが帽子を指でくるくると回しながら言った。いつもの気取った笑顔に戻っている。

「そうでしたね。でも、正式な借用書がないのだから、しかたないことじゃないでしょうか」

「ナイン、事態はそういうことではなくなっていると思いますよ。田村秘書さん、カイチョーさんやシャチョーさんが体調を崩しているのは、スミレ様のことが原因ではないですか? 早く解決しないと、会社の経営に影響するのではないかと思いますね」

「はい、そのとおりでございます。何しろ、社長の度重なる説得にもすみれさんが全く応じてくださらないもので、社長はそのために心労で倒れてしまったのです。会長も同じです。桑名の狙いはコレクションだ、すみれに譲るのはまだ早かったとお嘆きになって……」

 田村はそう言ってため息をついた。弱気な声になっているのは、彼も心労があるからだろう。

「探偵には依頼しましたか?」

「男女の関係を扱う探偵社に依頼して探偵を一人雇ったのですが、暴力団に襲われて重傷を負いました。おそらく桑名の差し金でしょう。しかし警察は犯人を検挙できず、桑名との関係も立証できなかったのです。そのためか、他の探偵社が引き受けてくれなくなりました」

「それはもしかして海藤かいとう探偵社の白井モリオではないですか?」

「おや、やはりごぞんじでしたか……」

 田村が驚きの声を出す。利津子もエリーゼの顔を見た。

「噂で聞いただけですけれどね。しかし、モリオちゃんではクワナの相手ができるはずがありません。あれほど女性の心をわからない探偵はなかなかいませんよ」

「桑名のこともご存じなのですか?」

「関わったことはありませんが、名前はよく聞いてますし、顔も知っています。普通に見ればグート・アウスゼーエン、日本語で言えば“イケメン”だと思いますが、私は嫌いですね。性格も、私の敬愛するアキラ様とは正反対ですから」

「アキラ様というのは……」

「その説明は省略しましょう。とにかく、クワナに関わりたくないと思ってましたが、私の仕事を完了できないのであれば関わるしかありません」

「しかし、社長としては、あなたにこの件を依頼しようとは思っていないとのことです。失礼ながらあなたの経歴を調べて、大変優秀な探偵であることはわかりましたが、家族の中の問題であることと、危険であることから、もはや他人は巻き込みたくないというのが社長の考えなのですよ」

「エリちゃん、私の依頼のことでしたら、ティーセットを返してもらえなくても構わないですよ。お皿の謎を解いてくださっただけで十分ですから。後のことは私だけで何とかします」

 利津子も以降のことを心配したのだが、田村が余計な突っ込みを入れてしまった。

「お皿の謎というのは……」

「その説明は省略しましょう。しかし、探偵としての私のキョージの問題ですから、一度はスミレ様にお目にかかりたいものです」

 エリーゼも笑顔のわりになかなか頑固だった。

「しかし……」

「ところで田村秘書さん、食器やその他のコットーは、スミレ様のマンションに置いてあるのですか?」

「いえ、部屋は最上階ですので、地震の時に危険だということで、元々梅村の工場にあった蔵に入れているのです。工場はもうありませんが、蔵だけを残してありまして」

「クラとは?」

「ええと……」

 日本的なものなので、田村は説明に困ったらしい。利津子も適当な言葉が思い浮かばなかったが、家とは離れて独立した建物で、壁が厚くて、貴重品を入れるところで、などと説明する。

「アレス・クラー。シャッツカマーのことですね。場所はどこですか。おや、住吉橋町ですね。昔の地図を見ると、この辺りに龍神駅があったのでした。入り口にはおそらく錠前をつけてあるのでしょうが、鍵はスミレ様が持っているのですね?」

「ちょっと変わった錠前でして、二つの鍵が必要なのです。もちろん二つともスミレ様がお持ちですが、あるいは一つは桑名が持っているかもしれません」

「なるほど、クワナがコットーを勝手に持ち出せないようになっているのですね。しかし彼は口がうまいですから、スミレ様の鍵もいつ奪われるかわかりません。田村秘書さん、スミレ様と桑名に会う段取りをお願いできますか? 場所はどこでも構いませんし、二人一緒でなく一人ずつでも構いませんですよ。マイセンの皿の話をするだけなら、会ってくださると思うのです」

「いやそれは……会長や社長と相談してみますが、たぶん許可は得られないかと……」

「話だけでもしてみてください。私はその間にクラを見に行ってきます。ご心配なく、勝手に開けて入ったりはしませんよ」

「勝手に開けるとは……あ、ちょっと、ミュラー様!?」

 田村の質問に答えることなく、エリーゼは帽子を格好をつけて被り、応接室を後にした。もちろん利津子は付いて行く。

「エリちゃん、どうするつもりですか? 田村さんが心配してるみたいですけど」

「今言ったように、まずはクラを見に行くのですよ。解決方法はその後で考えます」

「そうなんですか。勝手に蔵の鍵を開けたりしないんですね」

「そんなことをしたら探偵免許が取り消されてしまいます。そうなってもいいという場合になるまで、しないのですよ」

「あら、じゃあ、鍵を開けようと思えば開けられるんですか?」

「まだその錠を見ていないので何とも言えませんね。リッちゃんは開けられると思いますか?」

「エリちゃんは何でもできそうだから、開けられるんじゃないでしょうか」

「そう見えるのなら、そういうことにしておきましょう」

 エレベーターに乗って下まで降り、梅村ビルを出る。エリーゼはバイクなので、利津子が付いて行こうと思うと地下鉄と南海電車を乗り継がなければならない。

「ところで、さっき田村さんはお皿が粉々になったとおっしゃってましたけど、そうすると私が持っているあの割れたお皿は、別のものなんでしょうか?」

 ふと思い付いたので利津子はエリーゼに聞いてみた。本来ならあの場で田村に聞くべきだったろう。田村は梅村会長からその話を聞いたので、“バラバラ”になったというのを、つい大袈裟に“粉々”と言ってしまっただけかもしれないけれど。

「いいところに気が付きましたね。そのとおりですよ。アキラ様の鑑識を思い出してください。『意図的に割った』とおっしゃったはずです。つまり、シャクヨーショにするために、わざわざ割ったのですよ。たぶんもう何枚か、同じ絵柄のお皿があったのでしょう」

「鳳凰寺平蔵さんはずいぶんもったいないことをされたんですね」

「皿は使っているうちに割れるのです。むしろ飾られるだけで使われない皿ほど可哀想なものはないです。気にすることはありません」

「そういうものでしょうか」

「ところで、リッちゃんもクラを見に行くのですか?」

「はい。お邪魔でしょうか?」

「そんなことはありませんよ。リッちゃんがいる方が都合がいいと思いますね。スミレ様とも会いやすいでしょうし。では、待ち合わせの場所と時間を決めましょうか」

 場所は南海の堺駅前と決めたが、時間はずいぶんと余裕があった。エリーゼはそこへ行く途中に何かすることがあるようだ。

 先に着いた利津子が駅前で待っていると、時間ぴったりにエリーゼがバイクで現れた。昨日と同じく歩いてフェニックス通りまで行く。通りを渡ると住吉橋町で、住宅地の中に、時代に取り残されたような古い蔵が建っていた。周りを低い土塀が囲っていて、蔵の扉の前に鉄柵の門がある。

「なるほど、これをクラというのですね。理解しました」

「場違いな感じですけれど、蔵自体は風情があっていいですね。あら、こちらの方は?」

 蔵の前に、浅黒い肌でエキゾチックな顔つきの女性が立っていた。白いコートの下にハイビスカス柄の派手なシャツ。下は黒いストーンウォッシュのジーンズ。二十代後半だろうか。風貌は沖縄県民のように見える。利津子の方を見て手を振ってきたので会釈をしたが、知らない人なので、よく考えたらエリーゼに挨拶したのに違いなかった。

「ハーイ、リースヒェン、久しぶりやん!」

「その呼び方はやめてくださいますか。それを使っていいのは一人だけなのですよ」

 エリーゼは苦笑いなので怒っているわけではないようだった。おそらく本当は仲がいいのだろう、と利津子は思った。ところでリースヒェンというのは何だろう、エリーゼの愛称だろうか。

「じゃあ、エリちゃん、久しぶり。ところでそっちの美人は?」

「あら、美人だなんて、そんな」

「お世辞でうただけやのに、ってツッこもうと思ったけど、ほんまに美人やから、まあ許しといたるわ」

「今回の仕事の依頼人です。リツコ様、あるいはリッちゃんと呼んでくださって結構ですよ。リッちゃん、こちらの大袈裟な美人をご紹介します。冬木ティナちゃんです」

「“大袈裟な”は余計やっちゅーねん!」


(続く)

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