第3章 蔵と錠前 (前編)
翌日の朝8時50分、利津子は梅村ビルの前でエリーゼを待っていた。梅村ビルは梅村総司を社長とする梅村製薬の本社で、大阪市中央区の
利津子は低血圧なので早起きが苦手で、9時前に大阪まで出てくるのは大変なのだが、今回はそんなことは言っていられない。社長に会うのだから遅刻するわけにいかず、6時に起きて身支度をした。大阪まで満員電車に乗ったのも初めてのことだった。
8時55分になると、華々しいエンジン音を響かせながら大型バイクがやって来た。フルフェイスのヘルメットで顔はわからないが、黒と緑の派手なウインドブレーカーに見覚えがある。
エリーゼはヘルメットを取って利津子ににんまりと笑いかけながら言った。
「グーテン・モルゲン、リッちゃん。とても眠そうな顔をしていますね」
「あら、わかってしまいました? 私、朝が弱い上に、昨日の夜はなかなか寝付けなかったものだから、身支度もままならなくて」
「そのわりには綺麗なコステュームですね。就職試験を受けに来た人に見えますよ」
利津子は今日はグレーのスーツを着ていた。こういう堅苦しい服を着るのは久しぶりで、しかしもちろんいくつか持っている。ほとんど着る機会はないが。
「就職に来たわけではないですけど、会社訪問ですから失礼のないようにと思って」
「目的が違っているような気がしますが、まあいいでしょう」
ビルに入る前に、エリーゼはウインドブレーカーを脱いでヘルメットの中に押し込み、どこからか帽子を出してきて被った。今日の出で立ちも紺のベストに紺のスラックス。ブラウスはミントグリーンだった。
受付へ行くと、若い受付嬢が鳩のように目を丸くしている。エリーゼと利津子の服装がちぐはぐなのに驚いたのだろう。しかもエリーゼが「梅村シャチョーさんに会いに来ましたですよ」と言うので、社長室へ電話をかけるのに受話器を取り落としたほどだった。
「社長は不在ですが、お二人のご訪問については承っておりますので、社長秘書の田村がお話をお伺いします」
しかもこれだけを伝えるのに受付嬢は2回も噛んだ。利津子とエリーゼが意気揚々と最上階の社長応接室に行くと、大柄な男が待っていた。社長のボディーガードにしか見えないほどの強面で、特注と思われる型のいいスーツをきっちりと着こなしていて隙がない。
しかし、意外に弱々しい声で「秘書の田村です」と名乗った。エリーゼと名刺を交換したが、利津子がそれを横から見ていると、エリーゼの名刺にはなぜか“三浦エリ”が書かれていなかった。利津子も田村から名刺をもらったが、利津子は名刺を持っていないので丁寧に頭を下げて名乗った。
「砂辺利津子でございます」
「失礼ですが、鳳凰寺家とのご関係は……」
「親戚筋で、私の祖父の良蔵が鳳凰寺平蔵さんの
「少々お待ちください」
田村はエリーゼと利津子にソファーを勧め、書類戸棚から冊子を出して繰り始めた。が、すぐにそれを終えて言った。
「砂辺家が嘱託であることを確認させていただきました。すると今は、あなたのお父様がマイセンの皿を預かっておられるのですね?」
「はい、さようです」
「了解いたしました。マイセンのティーセットの件は社長ではなく会長が存じておりましたので、昨日確認いたしました。ただ、社長も会長もこのところずっと体調を崩しておりまして、出社できない状態なのです。代わりに私がお話を伺います。もちろん、ティーセットは確かに鳳凰寺様からお借りしたままになっておりますもので間違いないとのことでございました。今もお預かりしておりますので、ご安心ください」
「そうでしたか。ありがとうございます」
「あのティーセットには会長も並々ならぬ思い入れがございましたようで、珍しく長話を聞かされました。50年ほど前のことだそうですが、まだ弊社が堺にあった頃、ドイツのある製薬会社の重役をお招きする機会がございました。会長は当時、営業の平社員でした。紛らわしいので名前で将兵と呼ぶことにいたします。将兵は時の社長、要するに将兵の父ですが、その命によって昼食会を企画し、そこでマイセンの食器を使おうと考えたのだそうです。それには、当時の大株主であった鳳凰寺平蔵様の影響がございました」
「申し訳ないですが、その話は長くなりますかね?」
エリーゼが口を挟むと、田村ははっとした顔になった。
「ええ、まあ、会長からは十分に感謝の気持ちを伝えるよう言われましたので……すっ飛ばして、結論だけ説明せよとのことでしたら省略いたしますが」
「あら、エリちゃん、私はもう少し伺いたいです。食器を貸し借りする背景が全くわかっていませんでしたから」
「リッちゃんがそうおっしゃるのでしたら聞くことにしましょう。私は仲介者でしかありませんからね」
エリーゼは脱いだ帽子を手でもてあそび始めた。お皿の謎を解いたので、それ以外のことにはもう興味がないのね、と利津子は思った。
「田村さん、お続けください」
「はあ、それで、鳳凰寺様が大株主になったのは、いろいろ理由がございましたけれども、一つにはご自身の体質に弊社の薬がよく合うということだったそうです。新製品が出ると営業担当や研究者がお屋敷に呼ばれ、開発に関する苦労譚なども聞いて下さったそうです。その際に、蒐集されている美術品をお見せになることもございました。将兵は絵を描く趣味がありましたので、鳳凰寺様のお屋敷を訪問して、美術品を見せてもらうのを楽しみにしていたそうです。その中にはもちろん陶磁器もありまして、マイセンのティーセットもその一つだったそうです。将兵は昼食会にそれを使わせていただけないかと鳳凰寺様にお願いしたところ、快く借りることができたそうなのです」
「それ以来、お貸ししたままになっているということでしょうか?」
「そうなのですが、その時に、将兵がうっかり皿を割ってしまったのです。机の角に当てて粉々にしてしまったので、将兵は平伏して謝罪したのですが、皿は他に似たものをいくつか持っているので構わんよと、鳳凰寺様は笑ってお許しくださったそうで、将兵は涙ながらに感謝したと……」
「まあ、平蔵さんはとてもお優しい方だったのですね」
利津子は感動で胸が熱くなったが、隣のエリーゼは帽子を目深に被り、寝ているように見える。
「それで、お皿のセットだけが平蔵さんから借りられなかったのですね?」
「いえ、それではティーセットとして足りないということで、よく似た絵柄の、たぶんそのマイセンのデザイン元になったと思われる柿右衛門をお貸しくださったそうです。そして饗応するドイツ人に、皿だけが柿右衛門と気付くか試してみなさいとおっしゃったそうで」
「あら! では、柿右衛門のお皿もあるのですか」
「はい。ですから、全部で6種、21点をお借りしたとのことでした」
田村が一覧を利津子に差し出した。エリーゼも帽子を脱いでそれを覗き込む。
コーヒーカップ 6点
ソーサー 6点
ミルクピッチャー 1点
シュガーポット 1点
コーヒーポット 1点
ケーキ皿 6点
最後のケーキ皿が柿右衛門であるらしい。
「どうして今までお返しにならなかったのでしょう?」
利津子は一覧から顔を上げて田村に聞いた。
「それですが、その後も使う機会があるだろうから、1年ほど貸しておこうと、鳳凰寺様の方からおっしゃっていただいたそうです。そして、ちょうどその頃から弊社の事業が大きく伸びてきたことで、このティーセットのおかげだと将兵は考え、社長と相談して、鳳凰寺様に感謝状を贈呈したのです。そうしたら鳳凰寺様は大変お喜びになって、そういうことならティーセットは50年でも100年でも貸してあげようとおっしゃったそうで」
「50年や100年なら、いただくのとさほど変わりありませんね」
「ええ、さすがに将兵も社長も、それは過分なことと考え、毎年、株主総会の後で返却を提案しました。しかし鳳凰寺様が受け容れてくださらずにいるうちにお亡くなりになり、その後は鳳凰寺
「あら、おかしいですね。私もお皿のことは財団へ問い合わせたのですが、記録にないのでわからないと言われてしまいましたよ」
「単純なことではないですか。お皿そのものが契約書なので、紙の契約書がないのですよ。詳しいことは貸し借りした本人たちしか知らなかったのです。何というのですか、そういうのは」
ずっと興味がなさそうだったエリーゼが、横から口を出してきた。また帽子を目深に被ってソファーにふんぞり返り、寝そうになっている。
「口約束ですね。財団ができたときに、事情を知っている人がいなくなってしまったのでしょうか。田村さんに応対した財団の担当の人は、よくわからないものなので受け取りたくなくて、言い訳をしてしまったのかも」
「こちらも事務的に進めすぎたのかもしれません。しかし、こうしてわかったからには、早急に返却手続きを進めるのがよいでしょう。会長は早く返却した方がよいとお考えですし、社長も同意しております。しかし、今現在、ちょっと面倒なことになっておりまして……」
「何でしょう?」
利津子が聞くと、田村はハンカチを出して額の汗を拭いた。明らかに困惑の表情を浮かべているし、熱弁を振るったからというだけではないようだ。
「後に将兵は骨董や美術品の蒐集を始めました。社長、会長になってからも蒐集を続けていましたが、数年前にそれをティーセットも含めて孫であるすみれさんに譲りました。もちろんすみれさんは、ティーセットが借り物であるのはご存じです。責任を持って預かるとおっしゃっていたのです。しかし去年から、すみれさんに桑名貴光という男が取り入ったために、すみれさんと家族の仲がこじれていまして、すみれさんはあらゆる話し合いに応じてくださらない状態なのです」
(続く)
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