第2章 南海の龍神 (前編)

 エリーゼからの電話は2日後の火曜日にかかってきた。翌日、利津子は咲洲さきしまの探偵事務所を訪れた。

「いらっしゃいませ、リッちゃん。今日は少しだけ説明をした後、すぐに出掛けるので、コーヒーはお出ししませんよ。ところで、その服はどうしたのです?」

「今日はエリちゃんと一緒に出掛けるので、お揃いにしてみたんです」

 スリーピース風のベストにスラックス。色はグレーで、ベストのボタンはダブルだ。ブラウスは薄いピンク。一昨日買ってきたものだった。その上に、薄手のジャケットとトレンチコートを着ている。エリーゼは利津子の姿を上から下までさっと見てから言った。

「よくお似合いなので、私が目立たなくなってしまいますね。まあ、いいでしょう。さて、まずは割れたお皿についての謎解きの結果です」

 ソファーに向かい合って座り、エリーゼが割れた皿の写真を利津子に見せながら言う。

「お皿が相手の居場所を示す手がかりになると思ったので、マイセンについて調べてみました。しかし、あまり意味はなかったようです。もしかしたらドイツへ帰れるのかと思って、楽しみにしていたのですがね」

「そうでしたか。エリちゃんはドイツのどこのご出身なんですか?」

「それは関係ないので省略しましょう。さて、マイセンであることが関係ないのだとすれば、お皿の模様が手がかりになるはずです」

 エリーゼは割れてない皿の写真を利津子に見せた。

「ローター・ホフドラッヘ、赤い宮廷の龍という意味でしたね。そしてこの……何というのでしたっけ、こっちの絵は」

「宝珠ですね」

「ホージュですか。マイセンの職人がこれを何と思って模写したのかわかりませんが、おそらくは植物として描いたのでしょう。そして真ん中のホーオーです。これらの中に、地名を意味するものがあるか、というのを調べました。地名は漢字なので、かなり苦労しましたですよ」

「あら、言ってくださればお手伝いしましたのに。大阪の地名ならそれなりに知ってますから」

「そうでしたか。しかし、私がこれから説明することは、おそらくご存じなかったと思いますよ。古い地名を知っている人に尋ねて、ようやくわかったことなのです」

「古い地名ですか。マイセンのお皿と同じくらい古いものですか?」

「それほど古くはないです。60年ほど前ということでした。ゾーヴィゾー、そこへ至るまでに、順番に説明しなければならないことがあるのです」

「あら、そうですね。失礼しました。先走ってしまって」

 利津子はソファーに座り直した。気持ちが先走るだけでなく、座り方も前屈みになっていた。

「早く知りたいという気持ちは理解しますよ。さて、まず赤い龍です。龍というのは元々ヒーナの伝説からきたものです。ヒーナというのはドイツ語の発音で、英語ではチャイナのことです」

「ええ、柿右衛門の皿のデザインも、元々はそれが由来ですね」

「そして赤い龍というのは、ヒーナの思想では、南を守護する龍だということです。他の方角には違う色の龍がいるのですが、それは省略しましょう。そして赤い龍はナンポーセキリューとかナンカイリューオーとも呼ばれるそうです。これが漢字です」

「綺麗な字ですね! 誰が書いたんですか?」

 エリーゼが差し出した紙(書道の半紙)には朱墨で“南方赤龍”“南海龍王”と2行に書かれていた。達筆で、書道家が書いたのではないかと思われる。ただ、龍という厳めしい字に似合わず優しさが感じられるので、女性書道家かもしれない。

「私の友人で、茶道の先生です。お茶だけでなく、書道もお上手なのですよ。さて、これで何かわかることがありますか?」

「南方だから、日本の南のことでしょうか。サイパンやグアム? それとも東南アジアか、オーストラリアかも」

 エリーゼが顔の前で人差し指を振った。

「最初にドイツを出したために飛躍してしまいましたね。日本の中で考えてください。特に、ホーオージ家のあった大阪を基準にして」

「大阪の南なら和歌山? あら! もしかして、この南海って、南海電車のことでしょうか? 和歌山まで行ってますから」

「そうです、南海電気鉄道です。その龍ですよ」

「南海電車の沿線で、龍と付く地名を探すんですね?」

「ここに路線図があります」

 エリーゼが出してきた路線図から、龍の付く駅名を利津子は探してみた。本線、高野線、その他の支線まで見てみたが、そのような駅はなかった。和歌山に龍神温泉があったはず、と思って探したが、南海高野線の終点・極楽橋駅から直線距離で30キロも南だった。

「ありませんね」

「エス・トゥト・ミア・ライト、ごめんなさい。少し意地悪をしました。私の苦心したところを少しわかっていただきたかったのです。先ほど、古い地名と言いましたね?」

「ああ、そうすると、昔の駅名で、龍が付くものがあったんですね。どこですか?」

「それが、このすぐ近くなのですよ。堺です」

 探偵事務所があるのは住之江区。大阪市の西南の端にあるが、その南側は大和川を挟んで堺市と接している。

「南海本線の堺駅の南に、龍神駅というのがあったのです。1955年に、二つを統合して、中間地点に新しい堺駅を作ったので、龍神駅はなくなってしまいました。しかし、今でも地名には残っているのですよ」

 エリーゼが紙の地図を出してきた。南海本線、堺駅の南側に“竜神橋町”という地名が確かにある。堺駅があるのは堺市の北部で、探偵事務所からだと直線距離で7キロほどだ。

「まあ、すごい! でも、これが本当に正しいんですか?」

「もちろん私も、これだけでここが正しいとは思いませんでした。他に根拠が必要ですからね。そこでホーオーが登場するのです」

 エリーゼがもう一枚半紙を出してきた。“鳳凰”と朱墨で大書されている。

「赤い鳳凰ですか」

「ホーオーは元々五色の鳥だということなので、赤は関係ありません。正確に言うと鳥でもないのですがね」

「では、鳳凰寺家だから鳳凰? でも、それでは貸した側で、借りた人の名前になりませんね」

「そのとおり、違うことを考えなければなりません。ホーオーはドイツ語で"Fenghuangフェンワン"というのですが、これはヒーナでの発音をそのまま持って来たのです。オンシャというらしいですね。だからその言葉に意味はないはずです。しかし、ホーオーはよく他の伝説の動物と同じように扱われますね。ドーイツシというのですか。それが何かご存じですか?」

「フェニックスですね! 手塚治虫さんの『火の鳥』に書いてあったので憶えています」

「そのとおりです。そこで、このリュージンバシ町の南にある道路の名前をどう思われますか?」

 利津子はまた地図を見た。道路には国道26号線を示すマークが付いているが、“フェニックス通り”という別名が書かれていた。

「あら! そうすると、ここには龍と鳳凰が両方あるんですね。正しいという可能性が高まりましたね」

「しかし、これだけではまだわからないのです。偶然は二つくらい重なることありますからね。とにかく、最後まで読み解かなければいけません。リュージンバシ町に住んでいる人を探し当てれば、この推理は完成ということです」

「それを示すのがあの五つの赤い輪ですか? これですね」

 利津子はテーブルに置いてあった写真を取り上げた。三角の破片の裏に、赤い輪が描かれている。

「そうです。さて、ここから先は現地に行ってから説明しましょう」

「はい、参りましょう!」

 利津子はうきうきした気分で立ち上がった。エリーゼが帽子掛けから中折れ帽を取って被り、鏡を見ながら角度を調整している。

「私も帽子を買ってくればよかったです。忘れていました」

「リッちゃんのような長い髪ではこの帽子は似合いませんよ」

「次に来る時までに似合う髪型を見つけてきますよ」

「そう何度も一緒に出歩くとは思えませんがねえ」

 事務所を出て、ポートタウン東駅まで歩き、ニュートラムに乗って住之江公園駅へ。それからバスに乗り換えて南海堺駅の前に着いた。線路沿いに南へ歩く。南海電鉄の高架とフェニックス通りが交差する地点まで、10分ほどだった。

 エリーゼが古い地図のコピーをベストのポケットから出してきた。かつてはフェニックス通りの南側に龍神駅があったらしい。そこの地名は実は住吉橋町なのだが。

「きっと龍神という地名の方が響きがよさそうだから、龍神駅にしたんですね」

「たぶんそうでしょう。ところで、ここへ来るまでに、リッちゃんが道行く人たちから注目を浴びていたのに気付いていますか?」

「そうでしたか? 全然気付きませんでした。エリちゃんの方が可愛いから、みんなエリちゃんを見ていたんじゃないのかしら」

「私は外国人なので珍しがられているだけです。いつもとは視線の質が違ったのですよ」

 珍しがられているというのに、スリーピースにスラックスにハットではさらに目立ってしまうと思うのだが、どういうことだろうか。

「そういえば、探偵は目立ってはいけないんじゃないでしょうか」

「尾行をする時はそうでしょうが、普段は少しくらい目立っても構わないのです。その方が、いざというときに地味な服を着るだけで目立たなくなるのですよ」

「なるほど、ギャップが大きくなるからですね。ところで、そろそろこの赤い輪のことを教えてください。家に付いているマークではないんですか?」

 ここへ来る途中、竜神橋町を通り抜けたが、そんなマークを描いた家は見かけなかった。それとも、屋根瓦を注意していればよかっただろうか。

「もちろん、違います。近くのコーバンで尋ねてもらっても結構ですよ」

「交番があるんですか。そこで尋ねてもわからないのなら、考えるしかないですね」

「さて、そこでもう一つのヒントがあるのです。それはこの皿が三つに割れているということです」

 エリーゼがベストの胸ポケットから写真を取り出した。三つの破片を、皿の形になるように組み合わせたものだ。


(続く)

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