第1章 割れた龍の皿 (後編)
探偵事務所では、階段でスーツケースを運び上げるのが大変だった。エリーゼはドアを開けるだけで、運ぶのを手伝ってくれなかった。理由は渡利と同じだろう。
「これを家へ持って帰るのがまた大変だから、ここでしばらく預かっていただいて、1枚ずつ持って帰りたいくらいです」
ソファーに座ってコーヒーをいただきながら利津子は言った。今日のエリーゼは昨日と同じように黒ベストに黒スラックスだが、ブラウスは藤色だった。プロポーションがいいので、ベストがよく似合っている。利津子も欲しくなった。
「もう一度お越しいただくことはあると思いますが、その他に機会がありますかねえ。用がないのにお越しいただいても、お相手はできませんよ。それに皿の破損や盗難の補償もできません」
「でしたら、宅配便を利用しようかしら。宅配屋さんにここまで取りに来ていただくこともできるんですよね?」
「できます。ただし送り状はここにありませんので、どこかから調達していただく必要がありますね。ところで、鑑定結果はどうでしたか?」
「柿右衛門だと思っていたのですが、マイセンでした」
利津子はコーヒーカップをテーブルに置き、バッグの中から鑑定書を出してエリーゼに渡した。
「おや、ドイツ語ですか。まさか私に見せると、アキラ様に言ったのではありますまいね?」
「いいえ、そんなこと一言も。マイセンだからドイツ語で書いたとおっしゃったんです。渡利さんって無口だけれど優しそうな方ですね」
「何か優しいことをされましたか?」
エリーゼが目を細めて聞いてきた。
「いえ、特に何も。単に私の印象です。エリーゼさんは渡利さんのことをよくご存じでらっしゃると思うんですけれど、そうお感じにならないんですか?」
「アキラ様はとてもお優しいのですが、普段は絶対にそんな素振りをお見せにならないはずなのです。それなのにアキラ様がお優しいとお気付きになるとは、リツコ様はとても勘の鋭い方ですね」
「あら、いいえ、私、皆さんからぼんやりしてるってよく言われますし、勘が鋭いことなんてちっとも。ところで、私のこと、リツコ様でなしに、他の呼び方をしてくださいませんか?」
慣れない呼ばれ方をすると、自分が自分でないような気がする。
「何とお呼びしましょう?」
「親しいお友達からはリッちゃんと呼ばれますから、エリーゼさんもそう呼んでいただければ」
「では、私のことはエリちゃんとお呼びください。さて、リッちゃんはこの鑑定書をお読みになりましたか?」
「さっと見ただけです。ドイツ語は調べないとわからない単語がたくさんありますから、エリちゃんにお見せした後は、家に帰ってから読もうと思っていました」
「読んで気になったことがあるので、申し訳ありませんが、割れた皿を出してくださいますか。そのうちの、小さい破片だけで結構です」
「わかりました」
利津子はスーツケースの中から三角形の包みを取り出し、梱包を解いてテーブルに置いた。ピザの切れ端のような形のものだ。エリーゼがそれを取り上げながら言った。
「この裏に、五つの赤い輪が描き足してあると鑑定書にあります。これです」
破片を裏返すと、マイセンの特徴である“双剣マーク”とともに、赤い輪が五つ、五角形を為すように描いてあった。双剣は三角形の一番尖った部分の近く、そしてそのすぐ横に赤い五輪が描かれている。
双剣は利津子が知っているものとはちょっと形が違う気がしたが、きっと古い時代のものだろう。初期の頃はまだはっきりとマークが決まっていなくて、AとRの装飾文字を組み合わせたようなものだったこともある、というのはマイセンの磁器製作所で去年見てきた。
「ペインターが描いたものではないんすね?」
「アキラ様が描き足しているとおっしゃるのだから、そうではないのでしょう」
「渡利さんのことは絶対的に信用されているんですね」
「たとえ世界を敵に回しても、アキラ様のことさえ信用していれば、私はそれだけで幸せになれるのですよ。しかし、今はそれは置いといて、この赤い輪のことです。描き足したということは、何か理由があるはずです。この皿について、他に何かご存じのことはないのですか?」
「渡利さんから伺ったことですか?」
「いいえ、リッちゃんのお父上か、あるいはホーオージ家の誰かからです」
「ああ、それは一つあります」
これと揃いの絵柄のティーセットがある、というのをエリーゼに話す。
「アレス・クラー、理解しました」
「何をですか?」
「つまり、このお皿はそのティーセットのシャクヨーショなのですよ」
「はあ。でも、ティーセットは誰が持っているのでしょう?」
「この赤い輪で、それが誰かわかるのでしょう」
エリーゼがその赤い輪を見つめながら言った。少し細めた目が真剣に見えるが、口元には相変わらず笑みが浮かんでいる。
「それが名前でしょうか? 五つの輪だから、
「それを調べるのが私の仕事ということになります」
「わかるのでしょうか」
「わからないと思いますか?」
利津子はエリーゼの顔を見た。「もうほとんどわかってますけど?」とでも言いそうな、自信に溢れた表情だった。
「そうでしたね。エリちゃんならきっとおわかりになるでしょう。もちろん、依頼します。前金を払えばよいのですか?」
「ありがとうございます。その前に、依頼内容を確認しましょう。この割れた皿をティーセットのシャクヨーショだとして、その相手を見つければよいのですね。返してもらうのを手伝うところまで含みますか?」
「そんなことまでお願いしてよいのでしょうか」
「相手を見つけても、そんなもの借りた憶えはないと言われたら、私の推理の正しさが証明されませんからね」
黒真珠の件でも、見つからなければ依頼料は受け取らないことにしていたらしいし、使った労力よりも結果の方が大事であるらしい。
「では、お手数ですが、返してもらうのをお手伝いしてもらうところまでお願いします。前金は5千円でしたね?」
「さようでございます」
「それだけで足りるのでしょうか」
利津子はバッグの中から依頼料を入れた封筒を取り出した。前金の5千円以外に、残りの3万5千円も用意してある。
「ご心配いただきありがとうございます。しかしこの件の場合、最初は割れたお皿の謎を解くことからですので、足は使わずに頭を使うのですよ。それが私のやり方なのです」
エリーゼは額を人差し指でつつきながら言った。
「あら、かっこいい! 小説の中の探偵さんのようですね」
「そんな探偵は実在しないと思っていましたか?」
「エリちゃんにお会いする前はそう思ってましたけれど、これからは実在を信じることにしました。では、5千円をお納めください」
利津子が封筒を差し出すと、エリーゼは「ダンケ・シェーン!」と言いながらそれを恭しく受け取り、デスクのところへ行って、「金五〇〇〇円」の預かり証を持って来た。「金」の文字が定規で書いたように直線的だ。
「この預かり証は依頼がある時にわざわざ用意するのですか?」
「そうですよ。前金の額は決まっていますから」
「毎回、日付が違うので使い回しできないんですね」
「そういうことです。それに、同時に二つの依頼は受けませんので1枚だけ作るのです」
「わかりました。それでは調査をよろしくお願いします。どれくらいかかるんでしょう。1週間くらいですか?」
「マイセンについて調べ物をしなければならないですが、2日か3日あればわかると思いますよ」
「あら、そんなに早く!」
そういえば、真珠のネックレスの謎も3日で解いたと言っていた気がする。
「ところで、貸している相手のところへ行く時には、リッちゃんも一緒に行っていただきたいですが、私の方で時間を指定しても構いませんか?」
「ええ、いつでも結構です」
「平日の昼でも?」
「もちろん」
「おやおや、リッちゃんはお仕事をお持ちでないのですか?」
エリーゼは初めて意外そうな顔をした。それでも笑顔には違いないけれど。
「ええ、両親から働かなくていいと言われて。でも、本当は働きたかったんですよ。洋服のデザイナーになりたかったんです。専門学校も決めてたんですけれどね。父から財団の嘱託を引き継ぎましたが、ほとんど仕事はありません。それでも毎月ほんの少しだけお手当がもらえますけれど」
「お父上がお金持ちなのですか」
「そうですね。でも、鳳凰寺さんほどじゃありません。もう一度両親に、働きたいと言ってみようかしら。エリちゃんは探偵の助手を募集していませんか?」
「残念ながら、それほど忙しくもないのですよ。この件を解決していく途中で、よい仕事に巡り会うことを期待しましょう」
おそらく、ティーセットを貸した相手のことを言っているのだろう。鳳凰寺家からマイセンの高価なティーセットを借りるくらいなのだから、鳳凰寺家と同じく何らかの実業家に違いない。そこに就職口があるかもしれないということだ。
「そういうこともあるかもしれませんね。ところで、やっぱりお皿をこのまま置いていってはいけませんか? 持って帰るのは大変なので、次に来る時に宅配便の送り状を持って来ることにして、家へ送り返したいんです」
「私は壊さないように細心の注意を払いますが、盗まれることは防げませんよ。もちろんこの建物には防犯装置が付いていますが、とても優秀な泥棒なら入ることができるはずです」
「そうですか。借用書を盗まれたらティーセットを返してもらえませんし、困りましたね」
しかしインターネットで調べたところ、ウェブで集荷を申し込むときに、送り先などの情報を入力すれば送り状の用意が不要、という方法を発見したので、それを利用することにした。
皿を梱包し直し、集荷を待つ間、エリーゼと雑談する。
「エリちゃんはここに住んでいらっしゃるんですか?」
「シェルツェ! 住むところは別にあるのですよ。ここにはキュッヘもドゥーシェもありませんからね」
「キュッヘとドゥーシェって何ですか?」
「キュッヘはキッチン、ドゥーシェはシャワーのことです。ここは事務用の建物ですからそんなものあるはずがないのです」
「そうでしょうね。お手洗いはあるでしょうけれど」
そのお手洗いを利津子は借りてみた。入ってきたのとは別のドアを出ると廊下で、少し歩いた階段の横にあった。その先の廊下と階段は事務用のパーテーションで塞いであった。お手洗いは女性用だけが使えるようになっていた。男性の依頼者は来ないのか、それとも男性も女性用を使うのか。
エリーゼがどこに住んでいるかは結局教えてもらえなかった。
(続く)
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