第1章 割れた龍の皿 (中編)

 次の日、利津子は大阪地下鉄メトロのコスモスクエア駅に来た。そこから南へ歩いたつもりだったが、なぜか岸壁に出てしまった。正面の対岸に、赤白に塗られたクレーンが見えている。その向こうに山並み。右手を見ると遠くに観覧車が見える。あれは天保山の方だろうか。駅前に戻り、道行く人やタクシーに尋ねて、ようやく南へ行く長い歩道橋があるのを知った。

 歩道橋の上を、スーツケースを引きながら、ゆっくりゆっくり歩く。中に皿が入っているからだ。ドイツでマイセンの食器を買った時は、家まで国際小包で送ってもらった。神戸の街で食器を買う時もたいてい宅配便だ。持ち歩いたことがないので、どれくらいの丁寧さで扱えばいいのか知らない。なるべく丁寧に扱うことにした。

 皿を新聞紙でくるんで、緩衝材でくるんで、箱に入れて、その箱もまた緩衝材でくるんで、スーツケースの中に入れてきた。緩衝材をどれくらい使えば安心なのかがまたよくわからない。スーツケースを持ち上げれば振動しないのだが、そうすると重くて腕が疲れる。家から阪急電車の駅まででも疲れてしまった。

 長い歩道橋の終端まで歩いて下に降り、ようやく南港共同法律事務所の前に着いた時には、予約した時間を少し過ぎていた。余裕を持って来たはずだったのに。中に入り、受付へ行く。年齢不詳の受付嬢が挨拶してきた。

「いらっしゃいませ。ご予約はいただいておりますか?」

「はい、砂辺利津子と申します」

「砂辺様。ああ、鑑識事務所にご用ですね。承っております」

「申し訳ありません、予約した時間に遅れてしまって」

 利津子が丁寧に謝ると、受付嬢はひときわ優しそうな笑顔で言った。

「いいえぇ、ちょっとくらい遅うなっても、この時間は他にお客様がいてはらへんから大丈夫ですんよ。所長さんには今来はりましたてお知らせしましたから、受付票を書いてくれはりますか?」

 急に大阪弁がきつくなった。受付嬢が出してきた紙には、利津子の名前と「磁器の皿の鑑定」とだけ書かれている。昨日、鑑定依頼の予約の電話したので、そこまでは作ってくれていたのだろう。住所と電話番号は任意のようだったが、利津子はどちらも書くことにした。

「これ、とっても書きやすいペンですね」

「まあ! ありがとうございます。そんなん褒めてくれはる人、なかなかいてはりませんわ!」

 受付嬢はまた嬉しそうに言った。とてもいい人なのではないか。名札を見ると鳩村とあった。

「年齢や職業は書かなくてよいのですか?」

 紙とペンを持ったまま受付嬢に聞いてみた。顧客票ならそういうことまで書いた方がいいような気がしたからだ。

「鑑識には関係がないから、書いてくれはらへんでも結構ですよ。法律事務所の方なら書いていただきますけど」

「鑑識さんは年齢や職業にはご興味がないのでしょうか」

「さあー? でも、何度もいらっしゃるお客様はほとんどおられませんからねえ。それに所長さんの方からお客様に問い合わせをすることはありませんし、お客様の方からお問い合わせがあったときに、お答えするための覚え書きのようなもんですから」

「それで、名前と依頼項目だけがあればよいのですね」

「ええ、それと日付と」

「所長さんはとても記憶力がよい方なのですね」

「鑑識の依頼品と全部結びつけて憶えてはるみたいですんよ」

「ああ、連想記憶ですね。それなら憶えやすいかもしれませんね」

 何の気なしに雑談をしてしまったが、よく考えたら遅れていたのだった。「早く行かないと」と利津子は焦ってしまい、スーツケースを倒しかけた。受付嬢が「あら、大きな荷物やわ!」と驚く。

「そんなにようけお皿持って来はりましたん?」

「いえ、6枚なんですけれど、緩衝材を詰めていたら、これにしか入らなくなってしまって。エレベーターに乗っても構いませんか?」

「ええ、もちろん。4階です」

 ボタンを押すとすぐにドアが開いて、上がると4階では男が一人待っていた。

「渡利鑑識事務所の方ですか?」

「そうです」

 答えた男はずいぶん若かったが、利津子はきっと彼が鑑識だと直感した。彼なら何でも見抜いてしまいそうな気がしたのだが、そう思った理由は自分でもわからない。

「本日はよろしくお願いします」

 頭を下げて丁寧に挨拶をしたが、男は「どうぞ」としか言わなかった。部屋へ入ると、デスクと書棚と応接セットだけの殺風景さ。しかし、鑑識というのだから研究室のようにシンプルで整理整頓された環境が適しているだろうし、それならこれでいい気が利津子にはした。

 ソファーに座ると、目の前のテーブルに名刺が置いてあって、『所長 渡利亮』とある。思ったとおり彼が鑑識事務所の所長で、エリーゼが言うところの“アキラ様”だとわかった。鑑定というと年配の人を想像するが、鑑識だと年配の人から若い人まで思い浮かぶ。テレビドラマの影響かもしれない。とにかく、鑑識なら若くても信用できる気がした。ただ、今回はやはり“鑑定”なのだけれど、果たして?

「電話でも申しましたが、持って来たお皿は割れているのです。それでも鑑定していただけるのですね?」

「します」

「それとも、ここでは鑑識をお願いしますと言う方がよいのでしょうか」

「お好きに。どんな言葉を使ってもやることは同じです」

「そうですね」

 相手は愛想笑いすらしないが、逆に余計なことを言いそうにないので安心する。笑顔でいろいろと話しかけてくる人はセールスマンのようで、利津子は苦手だった。

 スーツケースを開けて、中から皿を取り出してテーブルに置いた。どれも分厚い緩衝材に包まれたままだ。

「全部で6枚あるんですが、1枚だけが割れているんです。それで、これで一組だと思うのですが、こういう場合、料金はどうなるのでしょう?」

「一組なら千円です。明らかに違うものが混じっていれば追加料金をいただきます。1枚千円」

「私の目では、明らかに違うかどうかわからないのです」

「こちらも見ないことには何とも言えない」

「そうですね。それから、一応、箱も持ってきたんです。ご参考になるかと思って」

「では、参考までに見ましょう」

 箱は木製で、箱書きもちゃんと付いている。それはテーブルの横に置いた。渡利が皿の緩衝材を外していくが、割れている皿については利津子の方から先に注意しておいた。それだけ梱包が大きいので一目でわかる。

 渡利は割れていない皿をどれも一瞬だけ見ると、重ねて置いていった。そして割れた皿だけを目の前に置き、皿の形になるように組み合わせて、じっと眺めている。

「柿右衛門だと思っているのですが、どうでしょうか?」

 利津子が聞くと、渡利は皿から目を離さずに答えた。

「いや、これはマイセンです。18世紀の前半、初期のマイセンの、柿右衛門写しと呼ばれるもの」

「まあ! そうだったんですか。それなら裏にマイセンのマークが付いていたんですね。気付きませんでした。すいません、箱が柿右衛門のものだったので、てっきり……そうすると、この箱はそのお皿のものではないんですね?」

「そうなります。箱書きはこの皿と合っているように見えるが、時代が合っていない。偽物の皿を本物らしい箱に入れて売るのならわかるが、このマイセンならそんなことをしなくても高く売れるはず。おそらく皿の持ち主が、たまたま手に入った箱を間に合わせに使っただけ」

「そんなことまでわかるんですね」

「想像です。当たろうが外れようが鑑識には関係のない、参考情報として聞いていただきたい。それで、この割れた皿だが」

 渡利は言葉を切ってまた皿に見入っていた。利津子は他にも聞きたいことがあったのだが、発言がはばかられる雰囲気だったので、黙って待っていた。渡利の目つきは、骨董の鑑定士というよりも、考古学か文化人類学の学者のようだった。

「やはり不自然な割れ方をしている。三つに割れているが、ガラス切りのようなもので皿の表面に傷を付けた跡があって、こういう形になるように意図的に割ったのだと思われる」

 扇型をした破片が2枚、それから八つに切ったピザの切れ端のような形のが1枚。渡利はそのうちの扇型の1枚の表面を指差した。利津子が見ると、割れ口に微かにひっかき傷のようなものがあった。割れた時のではないのはわかる。表面を硬いもので削ったのだろう。

「本当ですね、気付きませんでした。でも、そんなに思ったとおりに割れるものでしょうか?」

「そのために他の皿を何枚か無駄にしたかもしれない」

「試し割りとしてですか?」

「そう」

「もったいないことをするものですね」

「そこに何か意図があれば、そういうこともするでしょう」

「何の意図でしょう?」

「それを調べるのは別のところでお願いします。ここでは鑑識しかしない」

 おそらくそう言われるだろう、というのはエリーゼから聞いていた。鑑識事務所は探偵ではないから、余計な推理はしないのだそうだ。

「わかりました。それは他で調べていただきます」

「鑑定書を書くのでお待ちください」

 渡利は速記かと思うほどのすごいスピードで鑑定書を書き始めたが、よく見ると英語の筆記体だった。いや、ドイツ語だろうか。最後にサインを書いて、利津子の方に差し出してきた。

「ドイツ語なのですね」

「マイセンを扱うような店ならこれで通じるはずです」

「ところで、このお皿は何という絵柄なのですか?」

 鑑定書の頭に"Runde Platte, Roter Hofdrache"とある。"Rundeルンデ Platteプラッテ"は丸皿のことだろう。綴りから想像できる。しかしその後は? "Roterローター"は赤のことだと利津子は知っていたが……

「ローター・ホフドラッヘ。赤い宮廷龍という意味です。英語でレッド・コート・ドラゴン、あるいはレッド・ドラゴンと言っても通用するはず」

「わかりました。ありがとうございます。こんなにたくさん教えていただいて、千円で本当によろしいんですか?」

「一組しか鑑定していないのだから千円です」

「そうなんですね、わかりました。では、こちらをお収めください」

 利津子はあらかじめ用意していた千円札の入った封筒を渡利に差し出した。渡利は封筒の中も見ずに領収書を出してきた。但し書きは「磁器絵皿鑑識料として」。利津子はそれをバッグの中にしまうと、皿を梱包しながらスーツケースの中に戻していった。渡利は手伝ってくれなかった。もちろん、手伝ってうっかり皿を割ったら大変だからだろう。皿を持つのは鑑定の時だけなのに違いない。

「ところで、もう一つ教えていただきたいのですが、よろしいでしょうか? この箱のことです」

 4枚目の皿を梱包しながら利津子は渡利に聞いてみた。

「何ですか」

「この箱と一致する柿右衛門のお皿はどんなものか、ここで調べてもらえるものでしょうか?」

「難しい。箱書きには皿の詳細は記載しないから、それがどんなものだったかはわからない。そもそも骨董で箱と中身が一致しないのはよくあること」

「やっぱりそうなんですね。鑑識なら何か他のことがわかるのかと思って、聞いてみたんですが」

「中身と年代が一致しないことの他は、新しい箱を古いものに見せかけているということならわかる。他に調べるとしたら、木の材質とか、触った手の跡とか」

「そうなのですね。わかりました。では、今後、そういう怪しい箱があったら持って来て見ていただくかもしれませんので、よろしくお願いします」

「お気を付けて」

 渡利は最後まで愛想のない返事だったが、利津子は丁寧に礼を言って事務所を出た。下に降りて受付嬢にも丁寧に挨拶した。受付嬢も笑顔で会釈を返してきた。

「またお越しくださいね。渡利さんはお皿でも壺でも何でもわからはりますんよ。日本のものでも外国のものでも」

「ええ、私も柿右衛門のお皿だと思って持って来たのが、マイセンと言われて驚きました。何でもご存じなんですね」

「あらまあ、そんな高級なお皿を!? 別嬪さんでお金持ちやったら、もう何も言うことあらしまへんわなあ」

「あら、別嬪でもお金持ちでもないんです。お皿も預かり物なんです」

 話し好きな受付嬢にタクシーを呼んでもらい、エリーゼのところへ行った。


(続く)

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