第2章 欠けた一粒 (前編)

 法律事務所のガラスの自動ドアをくぐると、正面に受付があった。中年の、小綺麗で庶民的な受付嬢が笑顔で座っている。中年だということはわかるが、年齢がよくわからない。詩歌よりは少し上の、40代くらいか。鳩村という名札を付けていた。詩歌を見て軽く頭を下げる。

「いらっしゃいませ。ご予約はいただいておりますか?」

 声も若々しい。ますます年齢がわからない。

「はい、先ほど電話して、鑑定をお願いしました宇佐美です」

「ああ、ついさっきの。少々お待ちください」

 受付嬢はことさら愛想のいい笑顔を見せてから、受付の中に置かれたPCを操作し始めた。もちろん、予約を確認しているのだろう。

「はい、お待たせいたしました。所長さんはもうお待ちのようですが、先にここで受付票を書いてくれはりますか?」

 受付嬢が紙を差し出す。そこには名前と、依頼内容である「真珠のネックレスの鑑定」が既に記載されていた。しかし、他に書くところといえば住所と電話番号で、それは必須項目ではないらしい。詩歌は少し考えたが、美術館の電話番号だけを書くことにした。自宅の住所を書いても、家にはしばらく帰っていないし、連絡先として使えない。スマートフォンの番号は知られたくない。書いたものを受付嬢に見せると、彼女は電話番号をPCに入力した。

「では、それをお持ちになって、4階へ上がってください。エレベーターをどうぞ。ドアが開いている部屋があるので、そこへ入ってください」

 言われるままにエレベーターで4階に行くと、ドアが開いている部屋が確かに一つだけあった。近くに若い男が立っていた。薄い色のサングラスをかけている。しかし、胡散臭くはない。

「渡利鑑定事務所はこちらでしょうか?」

「そうです」

 男は笑顔も見せずに言った。受付嬢と違って愛想がない。20代くらいだろう。本当に腕の立つ鑑定士なのか、詩歌は少し心配になった。しかし、どこかで見たことがあるような気もする。

 中に入ると、探偵事務所とは大違いだった。デスクと書棚と応接セットがあるところだけは同じだが。壁は抑えめの白一色でカーペットはグレーの無地。その他には何もない。つい最近開設されたばかりではないかと思うほどだった。館長室よりも、物が少ない。

「所長の渡利あきらです」

 相手が自己紹介したので、詩歌も名刺を渡した。渡利の名刺はテーブルの上に置いてあった。

「真珠のネックレスの鑑別ということですが」

「はい」

 詩歌は携えてきた段ボール箱を開け、ネックレスケースを取り出してテーブルの上に置いた。渡利はそれに見向きもせず言った。

「電話をいただいた時に依頼料を案内したと思いますが、再度確認します。一点につき千円です。本物であろうとイミテーションであろうと」

「はい、それは伺いました」

「本物である場合、簡易のを発行します。ただし、真珠総合研究所や真珠科学研究所が発行する鑑別書ほどの効力はありません。一部の業者には通用する程度です。それでよろしいですか?」

「はい、構いません」

 別に、鑑別書は必須ではない。価値についてもさほど興味はない。ただ、とても高額なものなら、送り主を探すのは慎重にしなければ、と思っているだけだ。余計な問題を起こしたくないから。

 詩歌が答えた後も、渡利はネックレスケースを触ろうとしなかった。たぶん、ここでも探偵が言ったのと同じような事情があるのだろう。

「開けましょうか?」

「お願いします」

 詩歌はネックレスケースを開けて、渡利に見えるように置いた。渡利は一瞥しただけで「本物です」と言った。そして手元の紙に何か書き始めた。鑑別書かもしれないが、どうしてそんなすぐにわかったのだろう、と詩歌は訝った。ルーペで見たり、手触りで調べたりすると思っていたのだが。

くろちょう真珠と呼ばれるものだが、南洋真珠ではなくて、琉球真珠。品質は非常によい。総研ならグレードワンをつけるレベル。粒の色合いや大きさも綺麗に揃えてある。ネックレスとしても価値が高い。ただ、ここでは値段の査定はしません。粒ごとの鑑別は必要ですか?」

「粒ごとって……一粒ずつ鑑定できるんですか?」

「必要であれば」

 渡利が顔を上げて詩歌の方を見た。ネックレスとしての鑑別書は書き終わったということだろうか。しかしそこに表情は特にない。

「そこまでは必要ないですけど……ところで、さっき南洋真珠と琉球真珠と言われたと思いますが、それは?」

「南洋真珠は主にタヒチで生産されるもの、琉球真珠は沖縄で生産されるものです。生産に使う貝の種類は同じで、単に産地が違うだけ」

「そんなこと、わかるんですか?」

「わかります。特徴がありますから」

「全部、琉球真珠なんですか?」

「そう。ただし、一点不可解なことがある」

「何ですか?」

 詩歌が聞くと、渡利はネックレスケースを回転させ、詩歌の方に向けて言った。

「糸が余っているのがわかりますか。真珠が一つ足りないからです。ネックレス自体は新品同然なのに、この状態はおかしい。何か理由があってこのようにしているはず。しかしその理由はわからない」

 言われて初めて詩歌は気が付いた。ネックレスをケースから出したことがなかったからだろう。

 ケースの上蓋に、ネックレスを引っ掛ける小さなフックがある。留め具の辺りを掛けておくのだ。そうすると、蓋を開けたらネックレスの一部が持ち上がるので、立体的に見ることができる。ただ、そのままだと真珠どうしの間隔は目立たないが、よく見ると確かに隙間が空いているようだ。全部寄せれば、真珠一粒分くらいになるだろう。

 早い話、ネックレスをケースから取り出して、留め具を持ってぶら下げてみればいい。重力で真珠どうしの間隔が詰まるので、はっきりとわかるに違いない。

「これが一番大きな粒です」

 渡利がペン先で真珠の一つを指し示した。詩歌はそれをじっと見てみたが、その左右と比べてみても、違いがないように思える。

「隣との違いが全くわかりませんが……」

「違いは0.1ミリもないから、わからなくてもしかたない。しかし、これを中心にして、左側には23個、右側には22個ある。右側に一つ足りない。大きさからして、真ん中から四つ目のものがないと思われる。そのことによって、ネックレスとしての価値がおそらく大幅に下がる。値段にしたら一桁違うかもしれない。もし着用する、あるいは売却するなら、この点を修繕した方が無難。ただ、全く同じ大きさと品質のものを入手するのは少し手間がかかると思われる。鑑別には無関係ですが、ご参考まで」

 着用も売却もするつもりはないので、修繕の予定はない。しかし、欠けていることと、欠けていなければ価値が跳ね上がることは、探偵に言う必要があるだろう。

「真珠を足さずに、糸を短くした場合は?」

「バランスが悪くなる。ただ、ほとんどの人は見ても気付かない。しかし、真珠を専門に扱っている業者なら、あるいは気付くかもしれない」

「わかりました」

「粒ごとの鑑別は必要ですか?」

「いえ、それは不要です」

「鑑識料は千円です」

 詩歌は財布の中から千円札を取り出してテーブルに置いた。渡利は書いたばかりの鑑別書と共に、領収書を差し出してきた。領収書には「一千円」という数字がすでに入っている。但し書きは「真珠首飾り鑑識料として」。

「真珠の鑑別だったので、これは参考ですが」

 ネックレスケースを段ボール箱の中に戻していると、渡利が呟いた。

「何です?」

「ケースを分解した形跡がありました。真珠の出自が不明なら、ケースをバラしてみたら、何かわかるかもしれない」

 ケースの内側には、アクセサリーを保護するための柔らかい素材が入っているが、それは外側の“箱”とは分かれている。つまり、内側の素材をいったん外して、箱の底に何かを入れ、また素材を詰めておくというような……

「例えば、外された真珠の一粒が入っているとか?」

「それはバラしてみないとわからない。しかし、それをするのはここではない」

「わかりました、参考にします」

 それも探偵に言った方がいいだろう。

 ところで、ここに来たときから、ずっと頭に引っかかっていることがある。

「失礼ですが、あなたとはどこかでお会いしたような気がするんですが」

 しかし、話したことは一度もないはず。

「京都ミュージアムのリニューアルの時ですか」

 渡利が平然と言った言葉で、詩歌はようやく思い当たった。3年近く前だ。あの時、詩歌はキュレーターとしてリニューアル作業を手伝っていたのだが、新しい展示品の真贋鑑定に呼ばれたのが、渡利だったのだ。彼が鑑定をするところをずっと見ていたわけではないが、「あんな若い男が」と思ったことだけは憶えている。

 後で館長に、本当に信用できるのか聞いたが、「他の鑑定士の誰に問い合わせても『間違いなし』と太鼓判を押された」と言っていた。しかも、和洋・時代を問わず何でも鑑定できると。ただ、疑っていたのは詩歌だけではないようで、真贋が怪しいと思われたいくつかの作品を、副館長がこっそりと外部の鑑定に出したら、ことごとく「真作」の回答が返ってきた、ということがあったはず。

「鑑定するのは美術品だけではなかったんですか」

「わからなかったら、わからないと答えるだけです」

 見るものを何でも鑑定する、ということだろうか。X線などの科学鑑定でなければわからないこともあるはずなのに。しかし、今回の件に絵画の鑑定は関係ないのだから、詮索はやめておこうと思った。

「ありがとうございました」

 詩歌は礼を言って、事務所を出た。ビルの外に、女性刑事が待っていた。「わあ、もう終わったんや。まだ途中やのに」と言う。ゲームの途中ということだろうが、すぐにやめて、助手席のドアを開けた。詩歌が乗ると、彼女も運転席に乗って、走り出す。

「この鑑識事務所って、何を鑑識してるんです?」

 気になっていたので、女性刑事に聞いてみた。

「はい? えーとね、私もよう知らへんのですけど、何でも」

 女性刑事は自信なさそうに言った。

「何でも?」

「はい。宝石は何でもできるってってたと思いますけど、その他には香水とか、骨董の時計とか、絵とか、花とか、ワインとか、それから筆跡鑑定もできるはずやし、いろいろです」

「いろいろ……まさか、警察もあそこを利用してるんですか?」

「それはえないんですけど、少なくともあそこの法律事務所の弁護士さんは、鑑識してもらってるはずです」

 弁護士が利用しているということは、やはり信用してもいいのだろうか。それでも、絵画と宝石と筆蹟では、見るところがあまりにも違いすぎると思うのだが。


(続く)

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