第1章 美術館と真珠 (後編)
外国人の女性は一瞬目を見開いた後、微かに鼻を「ふふん」と鳴らした。
「おやおや、フジコちゃんではないですか。依頼者が護衛付きとは聞いていましたが、護衛がフジコちゃんとは思ってませんでしたよ」
「フジコやなくて不二恵です。こちらが依頼者の宇佐美詩歌さんです。もうすぐ天保山にオープンする、美術館の館長さん」
「グーテンターク、ウサミ・シーカ様。当探偵事務所の所長にして、探偵のエリーゼ・ミュラーでございます」
この人が探偵!? 詩歌は少し呆然としてしまった。場所も場所だが、人も人。しかも刑事と探偵が知り合い? いくつもの常識外れが重なって、頭の働きが付いてこない。それとも、自分が美術館に閉じこもっている間に、世の中の常識が変わったのだろうか。ほんの半年ほどと思っていたのだが。
「電話で依頼をお願いした、宇佐美詩歌と申します」
何とか無難に挨拶だけはした。軽く頭を下げた後で、外国人相手にそれはおかしいかとも気付いた。普段ならする前に気付くのに。しかも相手は自分よりだいぶ年下。千寿と一緒くらいなのでは? 普段なら相手が年上で地位があっても詩歌は物怖じしないのに。今日はあまりに勝手が違いすぎる。
「ようこそでございます。ひとまずお入りください」
「エリちゃん、私、館長さんを護衛せなあかんねんけど、中には入られへんやんなあ?」
「この事務所にいる間は私が護衛いたしますよ。それに依頼をフジエちゃんにお聞かせするわけにはいきませんし、シーカ様がお帰りになるときに、電話をするでしょう。それで構いませんですね?」
エリーゼが聞いてきたので、詩歌は「それで結構です」と答えた。
「ほんなら館長さん、また後で。エリちゃん、また今度食事行こー」
刑事は帰っていき、詩歌は事務所の中へ入った。そこでまた驚かされる。外から見た印象と、全く違う! 洋風の重厚な応接室だった。壁にはクリーム色の趣味のいい壁紙。カーペットはダークブラウン。執務デスクは重々しい木製。その前に黒革のソファーと低いテーブル。鳳凰寺の家ではよく見たが、他では初めてだ。美術館の館長室はこんなに立派ではなく、もっと質素。それこそ中小企業の事務室並み。
「コーヒーを用意しますので、少々お待ちください」
エリーゼは部屋の隅の小さなキッチンセットのところへ行った。その間に、詩歌は部屋を見回した。窓が一つあって、背の高い観葉植物の鉢が立っている。壁際にはしゃれた本棚、そこに十数冊の洋書と小さな鉢植え。ドアの横の帽子掛けには、いくつかの中折れ帽が掛かっていた。
残念ながら、美術品は一つもない。しかし、この部屋の壁に似合いそうな絵があるかというと、何とも言えない。
ようやく詩歌の目はエリーゼの方に戻った。コーヒーサーバーのところからカップを持って戻って来て、詩歌の前の応接テーブルに置いた。
「どうぞ!」
前屈みになったときの、白いブラウスの胸の膨らみが半端ない。スリーピース風の黒いベストは、それを押さえつけるために着ているのでは、と思わせた。普段なら女性のプロポーションを観察したりしないのに、どうしてそこに目が行ったのか、詩歌は自分でもわからなかった。彼女の造形が“美術的”だからだろうか?
「ありがとうございます。ええと、それで……」
「まず、改めて自己紹介を致します」
エリーゼは背筋を伸ばしながら言った。外国人だが、それほど背は高くないようだ。しかし、黒いスラックスを穿いた脚は長い。
ところで、自己紹介はさっき聞いたはずだが、まだ言い足りないのだろうか。
「私が所長で探偵のエリーゼ・ミュラーです。あるいはあなたに私を紹介した人は、三浦エリという名前をお伝えしたかもしれません。あちらが、探偵業届出証明書!」
エリーゼは踊るような足取りで向こうのデスクのところへ行くと、壁に掛かっている額を指しながら言った。続いて、引き出しの中からノートのようなものを取り出す。
「これが、従業員名簿! 従業員は私一人ですけど!」
そしてその名簿と、ベストの胸ポケットから取り出したカードを見せながら言う。
「はい、身分証明書! マイナンバーカードです! そしてパスポートと在留資格証明書!」
それからようやくソファーのところに戻ってきて、腰に手を当てて胸を反らし、澄ました表情で言った。
「ご安心ください、就労ビザも持っています」
「それは……必要な手続きなんですか?」
警察官が手帳を見せるように、あるいは弁護士や建築士が仕事の前に証明書を見せるように、探偵もその資格を証明する義務があるのだろうか、と詩歌は思った。
「そのとおりでございます。義務なのですよ。これをしないと、たいてい受付嬢と間違われるのです」
しゃべり方は流暢だが、微妙な外国語風のイントネーションが気になってしまう。普通の外国人と話しているのとも違いすぎて、詩歌はまだ戸惑っていた。
エリーゼは最後に恭しい手つきで名刺を差し出してきた。詩歌が受け取ると、そこには「湾岸探偵事務所 所長 三浦エリ(エリーゼ・ミュラー)」と書かれていた。外国人なのに、日本語の名前があるということか。気にするようなことではないかもしれないが。
「私のことをお呼びになるときは、三浦でもエリーゼでもどちらでも結構です。なんならエリちゃんと呼んでいただいてもちっとも構いませんですよ」
「わかりました」
詩歌はそう答えたが、呼ぶ機会があるかどうかわからない、と思った。とにかく、落ち着かなければ。
「さて、お電話では人捜しとおっしゃったと思います。先に言っておきますと、基本料金は一件4万円です。ただし、お受けする前に、あなたがどんな情報をお持ちで、それで私が捜せるかどうかを判断しなければなりません。その判断についてはもちろん無料です。ただ、話が長すぎると、相談料として少しばかり料金をいただくかもしれません。目安は1時間ですね」
「そんなに長くはかかりません」
宅配便で荷物が届いたが送り主に心当たりがないこと、美術館の職員の誰も経緯を知らないこと、名前と住所は書いてあるがそこへ送り返していいのか判断が付かないことを縷々説明した。もちろん、宅配便の段ボール箱も見せた。
「荷物は『アクセサリー』ですか。何だったのです?」
「真珠のネックレスでした」
「それも見せていただけますかね」
「もちろん」
詩歌は段ボール箱の中からネックレスケースを取り出し、開け口を探偵の方に向けて、テーブルの上に置いた。しかし探偵は微妙な笑みを浮かべながら言った。
「申し訳ありませんが、シーカ様が開けてくださいますか。私が開けて、うっかり落として傷を付けたら大変ですからね。別に、開けたら何かが飛び出してくると疑っているわけではありませんよ」
「飛び出し……そんなことがあるんですか?」
「あるのですよ」
ストーカーも妙な物を送りつけてくることがあるから、詩歌も郵便物には注意している。でもそれは送り主がストーカーの名前の時だけだ。探偵は仕事がら、どんな送付物に対しても注意しているのかもしれない。
ネックレスケースをいったん自分の方へ向け、開けてから、エリーゼにネックレスが見えるように向きを変えた。エリーゼが中を覗き込んで小さく口笛を吹いた。
「ヴンダーバー! 黒真珠ですね。送り付け商法というのがありますが、それは請求書が一緒に送られてくるはずです。ありましたか?」
「いえ、ありません」
「では、詐欺ではないようですね。ところでこれは本物ですか?」
「えっ……と、たぶん……」
よく考えたら、それを確認していないことに、詩歌は気付いた。絵画なら自分で鑑定できるのだが、宝石はできない。しかし、艶や光沢からは本物の真珠に見えたので、信じて疑わなかったのだった。
「鑑別書は付いていなかったのですか」
「付いていませんでした」
エリーゼは詩歌の答えを聞いてから、もう一度宅配便の箱を見た。値段は書いていないはずだが、何かそこにヒントがあるのだろうか。しかしエリーゼは、ネックレスの方に目を戻してから言った。
「本物の真珠か、調べた方がいいと思いますね。本物でないなら、誰が送ったかなんて調べずに、放っておけばいいのです。そんなもののために送り主を確認するなんて、依頼料の4万円が無駄になってしまいますですよ」
「あなたは鑑定できないのですか?」
「私が鑑別できるのはディアマンテとスマラクトとルビンです。ナイン、言い直しましょう。ダイアモンドとエメラルドとルビーです。真珠の鑑別というのは、他の宝石に比べてとても難しいのですよ。真珠を専門に扱っている店へ持って行くのが普通です。しかしながら、私は一人だけ絶対に確実なお方を知っていますので、そのお方を紹介することもできますよ」
「お知り合いの鑑定士がいらっしゃるのなら、紹介してくだされば。でも、鑑定料がいるのでしょう?」
「千円です。高いと思いますか?」
「相場を知らないので、何とも。絵画の査定では料金は取りませんから。……でも、宝石は鑑定書を発行するのに料金が必要なのでしょうね」
ただで鑑定を要求しているように思われたら困るので、言い添えておいた。絵画でも、鑑定書を発行するなら料金がいることもあるし、謝礼として渡すこともある。一律ではない。
「私が紹介するお方に鑑識してもらうことをお薦めします。ここからとても近いのですよ。それに、一瞬で終わってしまいます。今から行けば15分で戻って来られるでしょう。ホップラ! 護衛が必要なのでしたね。私は単車を持っているのですが、車は持っていないのです。ですから、フジエちゃんを呼ばなくてはなりません。この番号へ電話をして、鑑識を申し込んでください。私はその間にフジエちゃんに電話をします」
言われるままに、詩歌はエリーゼが出してきた名刺のコピーに書かれた番号へ電話をした。名前を言って「真珠のネックレスの鑑別」を申し込む。5分ほどで女性刑事も来たが、「私、渡利鑑識へ行ったらあかんって
「モンキーさんにですか」
「そう」
「建物の入り口までならいいでしょう。そこで待っていればいいのです」
「うーん、それやったらええかな。エリちゃんは付いてきてくれへんの」
「私だって受付までしか入らないことにしているのですよ。大きな違いはないです」
エリーゼと女性刑事がやりとりしていたが、結局、連れて行ってもらえることになった。車に乗って工場街から住宅街へ戻り、着いたのは「南港共同法律事務所」という表札が掲げられた、煉瓦色の壁の立派なビルだった。
「私、ここで待ってますから」
車から降り、ビルの入り口まで送ってくれた後で、女性刑事は言った。スマートフォンを取り出し、連絡でもするのかと思ったら、ゲームを始めてしまった……
(続く)
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます