第7話 黒い真珠の謎
第1章 美術館と真珠 (前編)
近々、大阪に新しい美術館がオープンする。その名は『天保山美術館』。場所は港区、築港。近くには観覧車のある天保山ハーバービレッジや、世界最大級の水族館・海遊館、天保山公園などの人気スポットがあり、それらに次いで新たな集客施設となることが期待されている。
開館前なので、今は準備室を開設している段階。美術館の開館準備は意外に時間がかかるもので、もし建物を建設するとなると、基本設計から建設会社の入札、工事期間を含めて4、5年かかることもある。
天保山美術館は、既存の建物(イベントホール)を改修することにしていた。それでも準備期間は2年以上。改装計画からはじまって、収蔵品の選定や整理、資料の作成、事務処理、人員計画とそれらにかかる予算編成まで、一つの会社組織としての運営が必要となる。
しかし、美術館に来る人は、そういう裏事情にさほど興味を持たないだろう。知りたいのは、どんな作品が展示されるのか。これに尽きると言っていい。だから準備室を作った段階から、ウェブサイトもオープンして、情報発信に努めることになる。おまけとして、裏事情を少しばかり紹介したりもするが……
天保山美術館で展示されるのは、日本と世界の近代・現代美術。その中には“鳳凰寺コレクション”が含まれていることが話題だ。大阪出身の実業家、鳳凰寺平蔵の
平蔵は一代で財閥を築き上げたが、30年ほど前に他界しており、長男の
寄贈者である鳳凰寺
開館前に館長が替わることは“予定どおり”と言われていた。なぜなら、吉平はコレクションを受け継いだものの、美術に対して全く興味がなかったから。しかし、裏にもう一つ別の事情があったことは、ほとんど知られていない……
美術館のオープンを来春に控えた冬のある日。詩歌が館長室で仕事をしていると、キュレーター(学芸員)の茶石千寿が入ってきた。
「詩歌さん、倉庫を整理してたら、こんなものが」
片手で持てるような、小さな段ボール箱を抱えている。明らかに、宅配便の箱だった。
「倉庫を整理? 今、届いたんじゃなくて?」
「はい、倉庫です。“展示用器具”と書かれた段ボール箱の上に載せてあって。小さいので、見逃されていたのか、これも器具入れと思われていたのか……」
千寿は詩歌の姪で、大学で美術を専攻していた。卒業後に某文房具メーカーで事務をしていたのだが、準備室開設に当たってキュレーターに抜擢された。美術館キュレーターは志望者が多いわりに就職口が極端に少ない、いわゆる“狭き門”。千寿は学生時代にも美術館業務に携わったことがあるが、結局そこには就職できなかった。だから縁故採用なのだが、こういうことはよくある。運の問題だ。
「中身は何?」
「それが、“アクセサリー”って書いてあって」
詩歌は渡された箱を見た。宛名は『天保山美術館館長』となっていて、差出人は『寺坂信行』。全く心当たりのない名前だ。送られた日付を見て、驚いた。
「去年のじゃないの」
「あっ、ほんとですね。気付いてませんでした」
道理で埃がたかっているはずだ。さらに、そんなにも前に届いたものなのに、箱は未開封だった。そっと振ってみたが、音がしない。アクセサリーなので、詰め物で厳重に保護されているということか。しかし、大きな疑問が立ち上がる。
「どうして美術館にアクセサリーが送られてきたのかしら」
「さあ……」
もちろん美術館にも、古美術としてネックレスやブローチなどのアクセサリーが展示されることがある。それらは主に、古代の王家の持ち物であったとか、遺跡から発掘されたとかの、歴史的価値を持つものだ。しかし、天保山美術館の展示物はほぼ全てが絵画、ほんの一部が彫刻で、アクセサリー類はない。収蔵品リストにも入っていないし、加える予定もない。博物館の方がふさわしいだろうが、それでも何かしら謂れのある品でなければならないはず。
「とにかく、開けてみないと」
「爆発したりしませんかね?」
「まさか。1年近くもほったらかされてたのに」
箱の上面のテープを剥がす。開けると、白い発泡スチロールの詰め物に囲まれて、アクセサリー・ケースが入っていた。外張りは青のベルベットで、大きさは縦横が20センチ×10センチと細長く、厚みは4センチほど。きっとネックレス用だ、と詩歌は思った。少し古びた感じがするが、汚れてはいない。
「開けるわよ」
「どうぞ」
よく考えたら、そういうやりとりをする必要はなかった。誰の許可を得る必要もないのだから。開けるときに、アクセサリー・ケース独特のカクンという手応えがあった。そして中にはまばゆい光を放つものが……
「あら、真珠のネックレス」
「うわあ、すごい大粒ですね」
真珠は真珠でも、黒真珠だった。そして千寿が感嘆したとおり、確かに大粒だ。真ん中辺りは大きく、端に行くほど小さくなっている。一番大きいのは直径1センチあるかないかというところ。小さなものでも7、8ミリ。宝石店で見たら、つい試着したくなっただろう。
「それで、どうしてうちの美術館にこんなものが」
「さあ……」
詩歌はそれをアクセサリーではなく“美術品”として見てしまった。一見して名品で、価値があるのは間違いない。しかし、“美術品”であってもこの美術館にはやはり無縁のものだ。プレゼントというわけでもあるまい。送り主を知らないのだから。
「でも、館長宛てっていうことは、1年前の館長は……」
千寿がふと思い付いたかのように呟いた。それは詩歌も考えていた。送られてきた日付の時点では、館長は鳳凰寺吉平だ、では、彼に聞けばこれが何物かわかるのだろうか。しかし、ある事情があって、詩歌は吉平に聞くことができない。
そもそも、吉平はこれをなぜ受け取らなかったのだろう。置いて行ったわけではあるまい。彼の性格を考えたら、持ち帰ってさっさと売り払ってしまうに違いないのだから。配達物を受け取った者が、うっかり……というくらいしか考えられない。
「所有者不明の落とし物……ということで、警察に届ければいいのかしら」
「でも、それは道とか公共の場所の場合ですよね。私有地の中のものなら、ここで預かっておくんじゃないですか」
確かに、それはそうだ。まずは、これを誰が受け取ったのかを探すべきだろう。そして、それがわかってもわからなくても、送り主のことを調べなければならない。事情を知る必要もあるが、知らない名前だけに、そのまま送り返しても届くかどうか。
送り主の住所は兵庫県赤穂市。これも詩歌には全く心当たりがない。もちろん、千寿も憶えがなかった。
「これを誰が受け取ったか、聞き回ってくれないかしら。この日付の頃からここにいた人だけでいいわ」
「やってみます。古い名簿もたぶんありますし」
「それから、送り主のことを調べたいけど、どうすればいいかしら。警察……は調べてくれないわよね」
「そうですね、今はプライバシーのこともありますから……探偵に頼んでみますか? 確か誰かが、この近くに探偵事務所があるって言ってた気がしますから」
「探偵ねえ……そうね、人捜しなら、探偵かしら。費用をどうするかは問題だけど、まずは相談からよね」
その相談に行くのも、詩歌の場合、少し不自由するのだが、どうしたものだろうか?
結局、その週末に詩歌は探偵事務所を訪れることにした。千寿は近くと言っていたが、築港地区ではなくて、海を越えた
しかし、詩歌にはそれでも遠い。身体が不自由というわけではない。外に出るのを控えているだけだ。理由は、ストーカー。相手には接近禁止命令が出ているのだが、それでも近付いてくる。だから詩歌は、美術館に住んでいる。今のところだけ。
住宅ではないから、本当に住むことはできない。館長室にソファーベッドを持ち込み、寝泊まりしている。食事は全て出前。あるいは詩歌か他のキュレーターが買ってきてくれる。日用品も同じ。
どうしても外に出るときは、警察の護衛付き。美術館の通用口の前まで、覆面パトカーが迎えに来る。その日も時間を指定して迎えに来てもらった。
海底トンネルを抜けて、咲洲へ。地上に出て、左折する前に入国管理局のビル、そして大阪臨海署のプレハブが見えた。護衛の女性刑事はそこから派遣されたはず。アジア太平洋トレードセンターや、大阪府咲洲庁舎の間を抜け、また左折して住宅地の中へ。探偵事務所が住宅地の中にあるのか、と詩歌は思ったのだが、車はその先の工場地帯へ入っていった。
運送会社や鉄工所の立ち並ぶ中、右左折を繰り返し、一軒の事務所ビルの前で車は停まった。控えめに見て、中小企業の研究施設というところか。探偵がテナントで入るような貸しビルにはとても見えない。
白い3階建てで、門扉の中に駐車スペースがあるが、車は1台も置かれていない。ガラスの玄関ドアがあって、貼り紙が見える。遠目で内容まではわからないが、あれはどう見ても「廃業しました」または「移転しました」のお知らせの紙だ。案内してくれた刑事を疑うわけではないが……
「ここ……ですか」
「そうですよ」
詩歌はつい疑わしそうな声が出てしまったが、刑事はあっさりと返事をすると、先に車を降りて、辺りを見回してから、助手席側に来てドアを開けた。詩歌も少し周りに注意を払ってから降りる。そして刑事に促されて、駐車スペースを横切り、建物の裏へ行った。
そこにある鉄製の非常階段を、詩歌が先、刑事が後になって登る。上にドアがあって、『湾岸探偵事務所』と書かれた、見かけだけは立派なプラスチックのプレートが貼り付けてあった。「ご用の方はノックして下さい」と小さな字まで書き添えてある。明らかに後付けで、ボンドが少しはみ出した跡があった。
その事務所の名前は千寿に教えてもらったとおりだったが、詩歌が躊躇していると、刑事が遠慮なくドアをノックした。そのリズムが独特だ。トントトトントン、トントン。
「はいっ!」
若い女性の声が聞こえ、鍵を開ける音に続いて、ドアが大きく開いた。茶色いショートヘアの、外国人の女性が立っていた。若くて驚くほど美人で、しかも愛想のいい笑顔を浮かべている。
「ヤッホー、エリちゃん、お客さん連れて来たよー」
刑事がその女性に、明るく挨拶をしたので詩歌は驚いた。まさか知り合い?
(続く)
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