第5章 最終手段

 次の日の午後、佐和子は文書科の受付に呼ばれた。嘱託は受付で一括して受け取り、後で適当に割り振られるのだが、緊急の場合や「ご指名」の場合には受付に呼ばれることもある。どうやらご指名らしいが……

「うわ、森村さん! どうしたんですか?」

 受付の前に立っていたのは杏だった。仕事中の杏は定時後よりも甚だしく美しく見える。テレビドラマを見ている人は、女優並みに美人の刑事なんて実際はいないと思っているだろうが、ここに一人その常識を覆す格好の実例がいることを佐和子は知った。

「どうしたもこうしたも、鑑識の嘱託に決まってるだろうが。筆跡鑑定だ。この前、堀下が依頼した件の続きだと言えばわかるだろう」

「あ、はい」

 してみると、もう一枚のスリップを持って来てくれたのだろうか。杏が差し出した「証拠品入れ」を見ると、やはりそうだった。受け取ったが、「ついでに話したいことがある」と杏が言うので、給湯室へ行くことになった。受付で長話すると、後で待っている人が迷惑するから。

「あれ、でも、どうして森村さんがいらっしゃったんですか。堀下さんやなしに」

「奴は今日は非番だ。それに、スリップの返却期限が迫ってるからな。急いで鑑定して欲しい」

「わかりました。今日中にやります」

「それから昨日の、後で君が言ってきた件だがな。あれを確認してみたが、ちょっと難しい状況だ。指紋検出は午前中に鑑識がやってくれたんだが」

 今日持ってきたスリップには、蟹井のものとおぼしき指紋が付いていた。しかしもう一方、つまり事件当夜のスリップからは、蟹井らしき指紋は検出されなかった。代わりに、誰のものかわからない指紋が付いていたが、「被疑者マルヒの指紋が付いていない」「不明人物の指紋が付いている」というだけでは証拠としては弱い。

「不明人物、要するに共犯レツを特定して、そいつの当夜の足取りを調べれば、蟹井のアリバイが崩せるかもしれないんだが、今のところそれが全くわからない。あと、匂いの件は、ダメだ。補強にはなるだろうが、証拠としてはやはり弱い」

「やっぱりそうですか……」

「とりあえず蟹井の尾行は今後も続けて、共犯レツと接触する機会を待とうとしている。だが、堀下にこのまま任せておくと、また迷宮入りになりそうな気がするんでな。君の将来がかかっていそうだから、解決の加速方法を考えているところだ」

「そんなのがあるんですか?」

「私が考えるんじゃない。ちょっとした当てがあるんだ」

「エリーゼさんですか?」

「彼女のわけがないだろうが。君は警察を何だと思ってるんだ?」

「すいません……」

「とりあえず、君は筆跡鑑定を急げ。終わったら話を聞かせてもらうぞ」

「…………」

 それは鑑識結果やなくて、また兵太のことですよね。だって鑑識結果は、だいたい想像が付くもん。次は何を聞かれるんやろう……


 事件が解決した、というメールが杏から入ったのは、その約3週間後だった。少し遅れて、兵太からも携帯にメッセージがあった。「今週末はデートしよー」と脳天気な言葉が入っていた。

 久しぶりに土日の二日とも、兵太とデートを楽しんだと思ったら、明けて月曜日の定時後に臨海署に呼ばれた。今回は会議室だった。捜査会議をするような広い部屋に、佐和子と杏と不二恵の3人きり。窓から西日が差し込み、古い時代の青春ドラマを思わせる舞台ではあったが、佐和子にとっては修羅場以外の何物でもなかった。

「どうやって解決したか、知りたいだろうと思って呼んだんだ。刑事課から科捜研に解決報告をするなんて、めったにないことなんだぞ」

「そうですね」

 事件の結末はたいてい報道で知る。しかし、重要な鑑識結果により解決した場合は、お礼を言いに来る刑事もいる。ただし、呼び出されて報告してもらうことは、基本あり得ない……

「知りたいよな?」

「えーと」

「君の彼氏の特別ボーナスが復活したと聞いているぞ」

「すいません、聞かせて下さい」

「蟹井をこのまま泳がせていると埒が開かないと思って、ちょっとつつきに行ったんだ」

 筆跡サンプルをもらった礼と称し、森村と堀下で蟹井に会いに行った。その際、「あの筆跡がとても役に立ちました。捜査協力ありがとうございます!」と明るく報告した。森村がそれを言い、ついでに堀下が「お手数を取らせて」などと謝罪した。

「どうして森村さんが言ったんですか」

「私が言うと相手が油断すると思ったからだ」

「え、でも……」

 森村は美形だが、いかにも怜悧なエリート刑事という感じで、それで男が油断するとは思えないのだが。

「君は私を誤解してるな。私はいつもはこういう粗野な風貌や言葉遣いだが、ちょっと化粧を変えたり笑顔を作ったりすれば、生保レディ並みに愛想良くすることもできるんだ。蟹井が鼻を伸ばした顔を見せてやりたかったぞ。スケベおやじの実例としてな」

「うわー、そんな杏ちゃん、見てみたいわー。めっちゃ美人やろうなー」

 不二恵がお菓子を食べながら感心している。だが、いつも杏から厳しい“尋問”を受けている佐和子は、生保レディのように明るい笑顔を振りまく姿が、どうしても想像できなかった。

「わかりました。あれ、でも、それって誰が考えたんですか? 当てがあるって言うてはりましたけど」

「それは言えんな」

「はーい、知ってます」

 不二恵が軽く手を上げた。

「いや、言うなよ、田名瀬。臨海署がいつもこんな捜査方法を使っていると思われたら困る」

「捜査方法は言いましたやん」

「知られると私の弱みになるんだよ」

「臨海署の人はみんな知ってんのに」

 きっと生活安全課の人だろう、と佐和子は思った。こないだ名前が出た、門木という刑事かもしれない。

「わかりました。じゃあ、それは聞きませんけど、蟹井さんを油断させると、どうなるんですか?」

「祝杯を挙げに行くだろ、共犯レツと。それを狙ってたんだ」

「あ! そういうことですか……」

 事件に無関係だったと思わせれば、警戒を解く。百数十万円も入ったのだから、ちょいと一杯、という気分になったのだろう。ただし、礼を言いに行ったその週末ではなく、次の週末だった。さすがに1週間は様子を見たらしい。尾行している刑事の前で、蟹井は友人と梅田で待ち合わせ、居酒屋に入った。この前とは別の店だった。

 蟹井らが一杯どころかしこたま飲んで帰った後で、尾行の刑事たちは(横の席で飲むふりをしていたのだが)店の協力を得てグラスなどから指紋を採ったり、友人の名前を突き止めたりした。その日は友人の方がカードを使って払ったので、名前を知るのは簡単だった。もちろん、尾行して住所も知れた。さんありひさ、兵庫県伊丹市在住。

「え、でも、お金を盗んだのは蟹井さんやのに、なんで産田さんの方が払ったんですか?」

被疑者マルヒは呼び捨てにしても構わんぞ」

「……すいません、そういうの慣れてなくて」

「盗んだ金を蟹井の銀行口座に入れたら、調べられたときに困るだろ。産田の口座に入れたんだよ。ほとぼりが冷めてから山分けするつもりだったんだろう」

「あ、なるほど……」

 そして産田の事件当日の足取りを防犯カメラの映像などから調べたところ、仕事帰りに梅田へ行き、犯行直後の時間帯に大阪から伊丹へ帰ったことがわかった。ちょうどその頃に、居酒屋を出たのだ!

 そして過去の事件まで遡って調べたところ、やはり犯行直後の時間帯に大阪から伊丹へ帰ったことがわかった。こちらは定期券の乗車記録から調べた。その前の捜査結果により、令状が取れたので、鉄道会社に協力してもらえたのだ。

「しかも、さらに別の事件まで解決できたんだ。どういう事件かわかるか?」

「えーと」

「あ、はーい、はーい、たぶんわかりましたー」

 首を捻る佐和子の横で、不二恵が大きく手を上げた。おやつのかけらが机の上にこぼれている。

「よし、田名瀬、言ってみろ」

「産田が主犯ホンボシで、蟹井が共犯レツっていう事件ヤマがあったんやないですか?」

「そのとおり」

「おお!」

「やったー、当たった」

「これで刑事課へ配属されても大丈夫だな」

「嫌です。次は交通課がいいんです」

 別件の方は兵庫県警と神戸市内の各署、伊丹署などで捜査していたのだが、似た手口ではあったものの、所轄が全く違うのでわからなかったのだ。今回、こちらから伊丹署に照会したところ、それが判明した。手口はエリーゼ(と杏)が推理したとおり。

「蟹井と産田は5年ほど前に同じ会社に勤めていたんだが、会社の金を着服するのをお互いに助け合っていたらしい。その頃から、筆跡が似ているのを利用していたんだな。もちろん、どちらも解雇されたんだが、新たな手口を考えついた。つまり、互いのクレジットカードを交換して相手の名前でサインし、アリバイ作りに利用するんだ。4年ほど前のカードの更新時期に始めたらしい。以来、半年おきくらいに犯行を計画して実行していた。頻繁にするとバレると思ったのだろう。しかし、やはり3回もやるとバレてしまったというわけだ。我々も、蟹井の過去をもっと調べれば産田の存在がわかったかもしれないが、以前の捜査ではカードを交換しているところまで気付かなかったんだな。結果的に渡利鑑識の意見が役に立ったということだが、君も勉強になったろう」

「そうですね……」

「ところで、今回は特別に事件の説明から先にしたが、次は君と彼氏との関係がどうなったか聞かせもらおうか」

 やっぱりそう来たか、と思った。呼ばれたときから、一応覚悟はしていた。まだ話していないのは、兵太の両親のことくらいだろうか。自分の両親にも言わないようなことを、全部知られている……

「えーと、昨日と一昨日はデートしたんですけど……」

 行き先や何をしたかまで、根掘り葉掘り聞かれた。もちろん、杏だけではなく、不二恵からも。話し終えると、杏が不機嫌そうに言った。

「特別ボーナスが復活したにしては、せこいデートだな」

「ほんまですね。ゼロやったんが、数万円も手に入ったのに」

「でも、将来のために貯金しないと……」

「しかし、そこには影ながら君の助力があったんだぞ。筆跡鑑定では足を引っ張りかけたが、探偵に依頼したり我々に相談したりして動き回ったおかげで、事件を解決に導いたと言っていい。だから、彼氏に探偵の依頼料を出させるべきだな。せめて、半分だけでも」

「うー、でも、探偵に依頼したなんて、今さら言えませんよー」

「なら、代わりにそれに見合うだけのプレゼントをもらっておけ」

「何て言うんですか?」

「それは自分で考えろ」

「ううー」

 兵太を教育する前に、佐和子自身が教育されてしまいそうな気がした……


(第6話 終わり)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る