第4章 筆跡鑑定(再) (後編)

 エリーゼの笑みは、ますます楽しそうになって来た。小難しい話をするのがうれしいのか、それともそれを、外国人なのに、日本語で丁寧に説明できるのがうれしいのか。

「では、こう言い換えましょうか。ある人物アーが、自分とよく似た筆跡の人物ベーを見つけたとします。アーは新しいカルテを受け取ったとき、ベーに頼んで、そのカルテの裏に署名させます。ただし、名前はアーのものとします。ある日アーは、ベーにそのカルテを持たせ、居酒屋へ行かせ、カルテで支払いをさせます。もちろん、その時署名するのはアーの名前です。その時間にアーは別の場所で犯罪をします。こうすればアーはアリバイがあるかのように見せかけられると思いますが、どうでしょうか?」

 佐和子はわからなかったので、エリーゼにもう一度繰り返してもらった。そしてようやくその手口を理解した。自分が持つクレジットカードに、別の人にサインさせる! そんなことは思いもしなかった。

「でもそのカードは、アーさんは使えないやないですか」

「いえいえ、先ほど私がお見せしたように、ちょっと違うかと思われるような署名でも、通用するのですよ。カルテを持っている人が、署名をした本人だという思い込みが、日本では存在するのです。ある人から聞いたのですが、以前は夫のカルテを使って、妻が署名をしても、支払いができたそうですね。今はそんなことはできないらしいですけれど」

「あっ、もしかしたら、アーさんは別のカードを持っていて、普段はそれを支払いに使っているかも……」

「おそらくそうでしょうね。日本はクレディットカルテの審査について、とことん甘い国のようですから」

「じゃあ、被疑者のアリバイを崩すには、他の店で買い物をしたときのサインをいっぱい集めてきて……」

「そうです。居酒屋の署名と比べてみればいいでしょう。似ていても、たくさんあれば……何というのですか、スタティスティッシュな比較では、違いが出てくるかもしれませんよ」

「わかります、統計的というか、回帰分析的にですね。でも、サインを集めてくるのはどうしよう……」

「それは刑事さんたちのお仕事でしょう。アン様にお願いすれば、お力を貸してくださるかもしれません」

「そうですね……」

 それにはまた何かの情報を……具体的には兵太とのことを、あれこれ聞かれるかもしれないと思うと、あまり気が進まないのだが、他に方法もない。何しろ、科捜研には捜査権がないのだから。現場へ行くのですら、警察からの依頼で、現場でしかできない鑑識をするときだけだ。しかも文書科がそれをすることは、まずありえない。

「ところで、今教えていただいたことで、この件は完了なんですか?」

「とんでもない、事件が解決するまでお付き合いしますですよ。つまり、私の推理が正しいことが証明されれば、依頼料の残りを支払っていただきます。とはいえ、解決までに何週間もかかったり、メーキューイリになったりしたら、私も生活に困りますので、1ヶ月経って進展がなければ半分、つまり残り1万5千円をお支払いいただきましょうか」

「わかりました。あと、森村さんが、事件が解決したらまた飲み会をしようって」

「解決しなくても、やりたいときにやればいいではないですか」

「それから、次は35歳くらいの男性を呼んで欲しいって……」

「私にはそんな知り合いはいませんよ。科捜研にはそれくらいの独身男性がたくさんいるのではないですか?」

 確かに、それはそうだ。独身男性が多いのは、何も兵太の会社だけではない……


 翌日、佐和子は普段より1時間も早く出勤して、筆跡鑑定をやり直してみた。杏に教えてもらったとおり、スリップとカード裏のサインは一致度が高かったが(それでも99%とまでは言えないと思うが)、その他のサインとカード裏のものは「似ているといえば、まあ似ている」という程度だった。本人確実とは言えないが、偽筆とも言えない。証拠能力として弱い。確かにそう思えた。

 しかし、鑑識対象ではない、サンプルどうしを比較するなんて、佐和子には思いも付かなかった。それらは本人が書いたものという前提だからだ。その前提を疑うことは、普通はしない(疑ったら鑑定が成り立たない)。ましてや、カード裏のサインが本人のものでないとは……

 とにかく、エリーゼに教えてもらったことを、杏に伝えた方がいいだろう。メールを出したが、反応がない。臨海署に電話をしたら、今日は非番とのことだった。女子寮に行けば会えるだろうか。

 携帯電話の番号は教えてもらってないので、寮に電話したら、杏は眠そうな声だったが(昼前なのに)、会いたい旨を伝えると「楽しみに待っているぞ」と言われてしまった。声色も全然変わった。聞いて欲しいことよりも、他のことをたくさん話さねばならないような気がする。

 それでも、定時後に行くことにした。本町駅で、めったに乗らない四つ橋線に乗り換えて、終点の住之江公園駅へ。寮はそのすぐ近くだ。談話室で杏と会ったが、いつもと違ってずいぶん野暮ったい服を着ている。まあ、女子寮というのはこんなものかもしれない。それはともかく、エリーゼの推理を話す。

「まあ、待て。それを聞く前にだな」

 やはり兵太のことをいろいろ聞かれてしまった。デートはおごりと割り勘とどちらが多いかとか、一緒に旅行へ行くときの予算とか、誕生日のプレゼントの値段とか。主に兵太の経済力を確認されてしまった。話しながら、佐和子が改めて考えてみても、結婚すると生活が苦しいような気がしてきた。

 そういうことを1時間にわたって延々と話した後で、ようやくエリーゼの推理を話す。杏はさっきよりも冷めた表情で聞いた後で、淡々と言った。

「何だ、エリの考えることはその程度か。私が昨日の夜にちょっと思い付いたことと変わらんな」

「え、そうなんですか?」

 そうすると、杏に相談していたら依頼料を払わずに済んだということだろうか。ただその場合、兵太のことをどれだけ話せばいいのか、想像も付かない。下手したら、会わせろと言われかねない。

「それに、スリップをたくさん集めてくれば、と言うが、それだって難しいんだ。知っているかどうか、スリップは店で15日と月末に〆めて、5日以内にカード会社へ送ることになっていてな。だから、店では最長2週間しか保管しない。保管している間は、頼めば見せてくれる店も多いんだが、それだって本当は令状おふだが必要なんだ。しかし、店からカード会社へ送られてしまうと、令状おふだなしではお手上げだ。つまり古いのは基本的に、手に入らない」

「はあ、そういう事情が……」

「それに蟹井はたぶん、事件の前後は意図的にカード支払いをしていないだろう。だが待てよ、確か1枚だけ見つけたと堀下が言っていたような気がするな。しかし、1枚で鑑識は難しかろう? 一番良さそうなのは、蟹井をしばらく泳がせておいて、その間にカード支払いをしたらスリップを集めていく、という手だが、それだとかなり時間がかかりそうだな」

「その間に私の彼氏が逮捕されたりとか……」

「されそうな理由でもあるのか?」

「いえ、別にないはずですけど」

「だから自分から積極的に無実を証明しろと言ってるのに。まあ、それはいい。次にエリーゼのところへ行くのはいつだ?」

「決めてないです」

「今から行って、何かアイデアがないか聞いてみろ。どうせ家から近いんだろ」

「わかりました……」

 警察と探偵が協力することは普通ないが、佐和子から探偵に依頼したので仕方ない。しかし、杏から面白がられているような気もする。とにかく、エリーゼのところへ電話し、今から行きたいと告げる。

 寮を出て、住之江公園駅からニュートラムに乗り、ポートタウン東駅で降りる。ここからなら歩いて行ける。10分もかからない。

「いらっしゃいまし。今日は何のご用ですか。私の方には何も進展はありませんよ」

 それでもエリーゼはコーヒーを淹れて迎えてくれた。

「えっと、私の方で二つわかったことがあったので、報告に来ました」

「何でしょう?」

「筆跡の方は、私ももう一度見たんですが、渡利鑑識と同じように、よく似てるのと、そうでないのがありました」

 サンプルの方は全て本人のものという前提なので……と言い訳も付ける。

「それは特に新しい情報ではありませんね。アキラ様の鑑識に間違いのあろうはずがないのですから。もう一つは何でしょう?」

「サインがあと一つだけしかなくて」

 店で2週間しか保管しないことを説明したが、エリーゼは知っていた。

「確かにアン様のおっしゃるとおり、犯人は最近カルテを使っていなかったでしょうね」

「それで、えーと、他にアリバイを崩す方法があるか、考えて欲しいんですけど」

「指紋は調べましたか?」

「指紋? でも、サインするときには、指紋なんて付かないと思いますけど」

 ペンを持つ手の小指が紙にこすれることはあるだろうが、指の腹が紙に触れることはないはず……

「私が署名をしたときには、左手で紙を押さえましたよ、動かないように。あの紙は小さいので、押さえていないと署名は難しいでしょう。もちろん、押さえ方によっては、指のほんの先しか触れないこともあるでしょうけど」

「あー!」

 レシート型のスリップは、小さなバインダーに挟まれた状態でサインをすることが多いが、それでもサインするにあたり、主に紙の下の方を左手で押さえることは必要だ。最近のレシートは感熱紙で、丸まっていることが多いから、しっかり押さえないといけない場合もある。押さえ方によっては、人差し指や中指の指紋がはっきり付くことも考えられる……

「そ、それ、すごく重要かもしれません! 指紋を調べるのは科捜研やなくて、府警の鑑識ですけど、臨海署に、っていうか森村さんに提案してみます。あと、そうか、もう一枚の指紋と比べて、部分的にでも違ったら、違う人がサインした証拠になるってことですね?」

「そうですね。被疑者や、店員さんたちの指紋は簡単に手に入るでしょうから、そのどれでもない指紋が見つかったら、それが昨日、私が言ったベーのものということですよ。もし指紋で確認できないのなら、アキラ様にお願いして、署名した紙に付いている匂いを鑑識してもらうことですね。紙にDNAデーエヌアーが付くことは期待できませんが、匂いは付くでしょう。ただ、それは最後の手段でしょうね。匂いは化学物質を特定できなければ、証拠とは言えないでしょうから」

「わかりました。なんか、希望出てきたかも」

 とりあえず、これらのことは今日中に森村刑事に伝えないと……


(続く)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る