第4章 筆跡鑑定(再) (中編)
15分も経ってから、杏が戻って来た。なんだか少し機嫌のいい顔をしている。さっきまで佐和子を責めていた氷の微笑みとはずいぶん違って、女らしくなっているような……
「堀下は帰っていたし、電話であの声を聞くのは鬱陶しいから、モンちゃんに訊いてきた」
「モンちゃん?」
「ああ、生活安全課の
「いえ、別に私が判断することじゃないと思いますけど」
刑事が同じ都道府県内で他署に異動することは、よくある。府警本部と所轄を行ったり来たりもする。その時に、課が変わることすらある。3度、同じ所轄になることも……あるかもしれない。そこに運命ではなく、何か理由があれば。
「とにかくモンちゃんによれば、カード裏のサインの一致度が99%、その他のは50%という結果だったそうだ」
「え、サインごとに一致度が違うんですか?」
「分けた理由はわからんが、とにかくそういう結果だ。堀下は、結果が逆だったらよかったのにと言っていたようだな」
それは確かにそうだ。しかし、これで蟹井のアリバイがさらに強固になったということなのだろうか? 余計なことを聞いてしまった気がする……
「さて、いろいろ話したが、君はこれをエリーゼのところへ持って行くんだろうな」
「えーと、その……」
「正直に話せと言ったろうが。持っていくのは別に構わない。ただし事件の詳しいことや、
「はい、わかりました」
「それともう一つ。この件は本来、彼氏自身で依頼に行くべきだったな。警察が無実を証明してくれるのを待ってるだけなんて、消極的もいいところだ。真犯人が彼氏を陥れるかもしれないという危険性を全く考慮していない。そういう受け身の男と一緒になると、将来苦労するぞ。付き合うのをやめろとは言わないが、これから教育していくくらいの気持ちでいた方がいいな」
「……考えておきます」
奇しくも、昨日の飲み会の途中に佐和子自身で考えたことを、指摘されてしまった。礼を言って取調室を出たが、帰りがけに「事件が解決したらもう一度飲みに行こうと、エリーゼに伝えてくれ」と言われてしまった。
「それと、今度は男を呼ぶように。35歳くらいがいいな」
「言うだけは言いますけど、実現するかどうかはちょっと……」
どうやら杏は、飲み行く男性を調達するのだけは、苦手らしい。そこだけは受け身なのだろうか。兵太の会社の独身男性を紹介したらどうか、という考えが、佐和子の頭の中をよぎった。
いったんコスモスクエア駅まで歩き、タクシーで探偵事務所へ行った。8時になっていたが、エリーゼは待ってくれていた。またコーヒーが出てきた。
「遅くなるとのことだったので、食事をしてきましたよ。サワコ様はもうお食べになりましたか?」
「そういえばまだでした」
急にお腹が減ってきた。エリーゼがにんまりと笑いながら、マカダミアナッツチョコを一粒くれたので、それで凌ぐことにする。
「アキラ様の鑑識がこれほどかかることあり得ないので、何か別の問題が発生したのですね?」
「アキラ様って渡利鑑識のことですか?」
「そうですよ」
依頼をしたときは、名前を知らなかった。科捜研では渡利鑑識を「敵対組織」として見ていながら、ちゃんと連絡先を把握しているから、その電話番号に架けただけだ。その連絡先にも「渡利鑑識」とあっただけ。もちろん「鑑識」が名前とは思っていない。
アキラとはどういう字を書くのだろう。明? 彬? 旭? 聰? 晶?
で、どうしてエリーゼは彼を名前で呼ぶのか。わからないことが多すぎる。
「あの、いろいろあって、言えないことが多すぎるんですけど、結果だけでもいいですか?」
「もちろん、構いませんですよ。警察から詳しい情報をいただくことは、最初から期待していないのですから」
「はあ、でも、一つだけわかったことがあって」
スリップのサインは99%、その他は50%の一致率だったことを話す。エリーゼは唇の端に笑みを浮かべながら聞いていた。
「なるほど、興味深いですね。居酒屋で酔って書いたサインの方が筆跡が似ていて、普通に書いた方が似ていないのですか」
「はい、しかも50%っていうのは、似てるよねって言われたら、まあそうかな、ってなる程度で、私には何が何だか……」
「サワコ様がご自分で鑑定した結果はどうでしたか?」
「90%一致と判断していて……」
これくらいは言ってもいいだろう。
「サインごとに分けて鑑定したのですか?」
「そういうことはしてないです」
普通は分けたりしないのだ。サンプルが同一人物の筆跡と明らかにわかっているのだから、そこから“個人の平均的な筆跡”を見出してきて鑑定するのが定跡。経年変動を考慮することはあるが、それも個人内変動の範囲。今回は少し古い筆跡(カード裏のサイン)の方が近いという結果だったが、それもたまにあることで……
「しかし、大事なことですから、サワコ様も分けて鑑定をやり直してくださいますか。ここではなくて、帰ってからでもいいですし、明日のお仕事中でも結構ですよ」
「いえ、仕事中にするのはさすがに。帰ってからやります」
しかし、よく考えたらそれは資料を科捜研から持ち出すことを意味する。そういうことは二度としないと心に誓ったので、定時間内にやらないとすると、朝早く行ってするくらいしかないだろう。
「お願いします。さて、本日の私の調査結果をお話ししましょうか」
エリーゼはデスクの方へ行って、紙を持ってきた。写真がプリントアウトされていて、カード裏のサインが一つと、居酒屋のスリップが二つ。
「一つは昨日の署名で、もう一つは今日の署名です。ご安心なさい、ちゃんと店員さんに申告してから写真を撮ったのです」
「え、今日も行ってきたんですか? 昨日のあの居酒屋に?」
「そうですよ。4時半頃に行って、ビールとヴルストだけを注文しました。6時までにここへ戻って来られるように、早めに行ったのです」
「それが夕食ですか? でも、さっきも行ってたって……」
「これはおやつの代わりで、本来の夕食はサワコ様とお話をした後に行く予定だったのです。しかしサワコ様が遅くなりそうだったので、さっき行ってきたのですよ。そんなにたくさんは食べていませんので、ご心配なく」
別に食べた量を心配しているわけではないのだが。あ、もしかして、胸のことを気にしてる? 昨日より大きくなって……るはずはないか。
「それで、このサインは……」
「どちらももちろん私が書いたのですが、同じ筆跡に見えますかね?」
「……だいぶ違いますね。全くの別人とは言えない程度で……あ、あれ? でもこれ、三浦エリって……」
言っては何だが、小学生並みの下手くそな字で「三浦エリ」と書いてあった。本名はエリーゼ・ミュラーだったはず。綴りは知らないけど。
「私は2枚のクレディットカルテンを持っていて、一つはドイツ語、もう一つは日本語で署名しているのです。使い分けを決めているわけではないですが、今回は日本語の方を使いました。カルテの署名とも見比べてごらんなさい。別人かもしれないと思いませんか?」
エリーゼはクレジットカードを取り出してきて、テーブルの上に、紙と並べて置いた。カード裏の署名は、さっきとは別の小学生並みの字だ。
「……だいぶ違いますね」
「そう思うでしょう。しかし、これでちゃんと支払いができたのです。店員さんが見比べて判定するのが正しいのですが、ほとんどの店員さんは二つを見比べようともしないのですよ」
「はあ、そう言われればそういうことが多いですね……でも、それって今回の件と関係あるんですか?」
今回は一致度が高くて、本人のサインと思えることが問題なのに。
「これだけ違っても支払いできるのに、明らかに一致するとわかる署名をするのは、逆に不自然とは思いませんか?」
そういう疑い方をする人がいるとは、思ってもみなかった。もちろん、毎回同じサインを書くように意識してる人はいるだろう。しかし、蟹井がそういう性格かというと、少し疑わしい。新たに書いてもらったサインは、似ているような似てないようなものなのに。
「でも、それだけでアリバイを偽装したというのはちょっと……」
「では、もう一つの調査結果を聞いていただきましょうか。今日は昨日より早く居酒屋へ行ったのですが、昨日と同じ店員さんがいました。私は店を出る時間をうまく調整して、その店員さんに会計をしてもらったのです。その時、私が昨夜も来たことを憶えているか、聞いてみました。しかし、その店員さんは『憶えていない』と答えたのですよ。ごらんのとおり、私はちょっと目立つ服装をしています。しかも外国人である私が、日本語で署名して会計をしたのです。さらに、昨夜は私とアン様を始め、美女4人でジョシカイをしていました。これだけのことがあるので、店員さんは憶えていると思っていたのです。しかし、憶えていなかった。あの店はお客さんがたくさん来るからでしょうね。私が何を気にしているか、おわかりですか?」
「いえ……」
「警察があの居酒屋に、ある人物の顔写真を持って行って、何日か前にこの人物が来たか、憶えているかと訊いたとしましょう。すると店員さんは、憶えていないと言う可能性が高いですよね。いつも来るお客様、ジョーレンというのでしたか、それなら憶えているでしょう。しかし、きっとそうでなかったと私は考えます。だからこそ、署名を確認したのです。つまり、アリバイを示しているのは、顔ではなくて、署名だけなのです」
「でもその署名が本人のものということは、本人がそこへ来たという証明になるやないですか」
「では、一つの疑問を提出しましょうか。カルテの裏の署名が本人のものだと、どうしてわかるのですか?」
「それはそういうものやから……」
クレジット会社からカードが送られてきたら、すぐに裏にサインを書く。サインのないクレジットカードは使えない。当たり前のことだ。何が問題なのだろう?
(続く)
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