第4章 筆跡鑑定(再) (前編)

 翌日、佐和子はまた仕事に集中できなかった。昨夜の帰りにエリーゼから「もし筆跡鑑定の結果に納得がいかないのなら、渡利鑑識事務所へ行くように」と言われていたから。その名前はもちろん、科捜研にも伝わっている。通称“一人科捜研”! 敵対組織だとして嫌う人も、本家科捜研にはいる。正確には組織ではなく、一人なのに。

 もっとも、法医学の人は渡利鑑識を相手にしていない。DNA鑑定など、その守備範囲のほとんどが、渡利鑑識の対象外だからだ。その他の部門では一部が重なる。特に、文書はほぼ全てが重なっている。

 しかも、依頼するには警察内の機密文書を持ち出すことになる。どうにかして、合法に近い形で依頼できないだろうか? 結局、佐和子が考えついたのは、一文字ずつ切り離す、という程度のことだった。もちろん、順番も入れ替える。「蟹」という字が入っているだけに、名前とはバレないかも……と期待した。

 定時ダッシュで署を出て地下鉄に乗り、コスモスクエア駅から南へ。「南港共同法律事務所」が今日の行き先だった。駅から近く、徒歩5分。入ると、受付には誰もいなかったが、「渡利鑑識事務所は4階へお越しください」という札が立てられている。予約はしてあるので、待ってくれているだろう。

 エレベーターで上がるとドアが開いた部屋が一つあって、そこにサングラスをかけた若い男が立っていた。サングラス越しの視線なのに、自分の正体を見抜かれている気がして、佐和子は胸がドキドキした。

「ここ、渡利鑑識事務所ですか」

「そうです」

「予約していた、ぐちです」

「どうぞ」

 男に続いて部屋に入る。ソファーに座ると目の前のテーブルに受付票。名前と、依頼項目に「筆跡鑑定」と書くよう言われ、それに従った。

「すいません、ある文献から抜き取ってきたので、切り貼りしてあるんです」

 そう言い訳して、用意してきた紙を見せる。左側にスリップから抜き出してきた文字、右側にカード裏や新たに書いたサンプルの文字を並べてある。切り貼りしてからさらに拡大コピーしたので、何に書いたサインかすらわからないようになっているはずだが……

「残念ですが、ここでは鑑定できない」

 渡利は一目で言った。

「は?」

「これは鑑定済みです。科捜研の安口佐和子さん」

「え……」

「法科学技術学会誌でお名前は存じていました。同姓同名かと思いましたが、これをお持ちということは、同一人物に確定ですね。結果は臨海署で確認してください」

 臨海署が、ここへも鑑定を依頼していたのか! たぶん「一致しない」という結果が欲しかったのだろう。あの時は、それを期待するのは間違っていると思っていたのだが、今はその気持ちがわかる……が、もはや問題はそこではない。佐和子は背筋が凍る思いだった。

「あの……すいません! 私がここへこれを持って来たことは、科捜研や、臨海署や、大阪府警には秘密にしていただけないでしょうか!?」

 佐和子は思わず立ち上がって頭を下げた。足りなかったら土下座しようと思った。渡利は何も言わなかったが、テーブルの上から受付票を取って、四つに折りたたんだ。

「あなたはここへ来なかったし、鑑識依頼もしなかった。こちらもさっき見たものは忘れることにしましょう」

 受付票に書いたのは名前と依頼項目だけ。具体的に何を依頼したのかは、全くわからない……

「ありがとうございます!」

 佐和子はもう一度頭を下げると、サインを並べた紙を引っ掴み、足早に事務所を出た。エレベーターに乗って、ため息をついた。私は大変なことをするところだった……いや、大変なことをした。でも、温情で見逃してもらった。やはりこんなことをしてはいけなかった。もう二度としない……

 しかし、それでは兵太の件は片付かない。鑑定の結果が知りたければ、臨海署へ行くしかないのだ。どうしようか迷ったが、まず生活安全課に電話してみた。不二恵はいなかった。次に、刑事課。杏はいた。残業が終わって、今から帰るところだったようだが……

「やあ、安口君か。昨日の飲み会は楽しかったな。家へは無事に帰れたか」

「はい、あの、私はお酒を飲まなかったので」

「む、そうだったな。私は昨日の途中くらいから記憶がないんだ。今朝もあやうく寝坊するところだった」

「え、そんなに飲んでらっしゃいましたっけ。地下鉄で別れたときは、飲み足りないっておっしゃってましたけど」

 もう1軒行こうと誘われたが、行っても佐和子は飲めないし、飲酒届を出していても二次会は禁止(ただし酒抜きなら可)なので、杏は不二恵と一緒におとなしく帰ったはず……

「なに、寮に帰ってから田名瀬と部屋で飲んだんだ。その時にうっかり飲み過ぎた。それで、今日は何の用件だ。また飲み会の誘いか? 別に構わんが、梅田は困るな。ATCなら喜んで行くぞ」

「いえ、そうやなくて、その、この前お伺いした事件のことで……」

「なんだ、どうしてあれがそんなに気になる? ふーん」

 杏はしばらく考えていた風だったが、声を潜めるようにして言った。しかも若干低い声で。

「今、どこにいる? こっちへ来て、何もかも正直に話せば、力になってやれんこともないぞ」

 佐和子は背筋がぞくっとした。見破られてしまったのだろう。美人で、エリート風に見えても、さすがは刑事課。凄みが利いている。無実でも疑われた兵太の精神状態がわかった気がする……

「……伺います」

「うん、待っているぞ」

 何となく、杏が舌なめずりをする姿が頭に浮かんだ。ひとまずエリーゼに「都合で遅くなる」と一報を入れる。

 臨海署へ行くと、杏に「相談室が空いてないんだ」と言われ、通されたのは取調室。ますます精神状態が追い込まれる。佐和子は取り調べられる側の席に座らされ、杏は刑事側に横向きに座って長い脚を組む。そして唇の端を少しつり上げて冷たく微笑む。

「何も責めようというのではない。あの事件に君がどう関わっているのか、に話してくれればいいんだ。筆跡鑑定の担当が君だったことは知ってるが、それ以外に何かあるんだな? そうなんだな?」

 これで机をバン!と叩かれていたら、佐和子は泣き出していただろう。口ごもりながら、被害に遭ったのが自分の彼氏が勤める会社であること、関係者の中で彼氏のアリバイだけが弱いこと、もう一人の被疑者マルヒのアリバイは佐和子の筆跡鑑定に基づいていることを話した。

 もちろん、渡利鑑定のことだけは言わなかった。あれは行かなかったことになっているから……しかし、そこでの結果はどうやって聞けばいい?

「ふうん、なるほど、要するに、君自身の鑑定結果に自信が持てなくなったんだな?」

「はい、それで、あの時、嘱託に来られた刑事さんも……すいません、お名前を忘れてしまいましたけど」

「堀下巡査部長だ」

「その堀下さんも、違う筆跡と思ってたって、おっしゃってましたし」

「うむ、それについては理由があってな。聞きたいか」

「はい、ぜひ……」

「なら、君の彼氏のことをもっと詳しく話せ。どういう男だ」

「…………」

 出会いのきっかけから、兵太の性格や趣味、デートによく行く場所など、洗いざらい聞き出されてしまった。どうしてここまで言わねばならないのかと思う。

「心配するな。身元確認の一環だ。世の中には、悪人ではないが、事件に巻き込まれやすい男というのがいてな。そういう男と結婚すると、後々苦労するから」

「それはご自分の……あ、いえ……」

「そのとおりだ。経験則だぞ。そして、今聞いた限りでは、君の彼氏は巻き込まれ型に近い気がする。まあいい。さて、堀下が蟹井を疑っている理由を聞かせてやろう」

「堀下さんって森村さんより年下なんですか?」

 呼び捨てにしたので、ついうっかり訊いてしまった。

「君は私が40歳に見えるのか? 私の方が年下に決まってるだろう」

「いえ、森村さんはまだ20代後半にしか……」

「つまらないお世辞を言うな。私は自分の年齢どおり、32歳に見られたいんだ。私が堀下を呼び捨てにしているのは、嫌いだからというだけだ」

 森村さんって意外に性格悪いのかも、と佐和子は思った。兵太のこと、根掘り葉掘り聞いてくるし、嫌いだったら年上でも呼び捨てにするし……

「蟹井を疑っているのは、奴が前にも同じようにアリバイを成立させたからだ。しかも、2回もだ。去年と一昨年。いずれも窃盗事件当夜、発生時刻とほぼ同じ頃に、飲み屋でカードで支払いをした。そして窃盗事件があったのは、いずれも蟹井がかつて勤めていた会社だった。奴は何度も転職してるんだが、どこもだいたい不正な着服で解雇になっていたようだな。しかし過去2回は、他に奴を疑う理由がなかったので、筆跡鑑定はしなかった。ぱっと見でも、同じサインと思えたらしいんだ。しかし、今回で3回目となれば、疑いたくなるだろう? 偶然は2回までは許せても、3回目はないというのが我々の考え方なんだ」

 まさか、そんなことがあったとは。だから堀下刑事は、筆跡が一致しないことを期待していたのだ。しかし、結局どうなのだろう?

「それで、蟹井さんのアリバイは、結局今回も成立?」

「堀下は諦めきれなかったようで、渡利鑑識にも依頼したんだが、やっぱり一致という結果だったそうだ。渡利鑑識を知ってるか? あの“一人科捜研”」

「あ、はい、知ってます」

 答えながら、佐和子は自分の顔色が変わっていないことを望んだ。渡利鑑識でも一致と判断されていた! ではやはり堀下のアリバイは成立なのか……

「あそこは敵だと思ってるか?」

「いえ、そんなことは」

「正直に言え」

「私は、私が出せる結果を、出すだけなので……」

 杏が目を細めて佐和子を睨む。いや、睨んでいるのではなく、顔色を観察しているのだと思うが、佐和子は冷や汗が出そうになってきた。

「一致はしたんだが、堀下が何かぶつくさ言ってたような気がするな。ちょっと待っててくれ。詳しい結果を聞いてくる。逃げるなよ?」

「逃げませんよ!」

 杏は取調室を出て行ったが、なかなか帰ってこなかった。佐和子は寂しくなり、思わずドアを開けて外の様子を覗こうとしたが、かろうじてこらえた。


(続く)

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