第3章 探偵依頼 (後編)

 しかし、佐和子が訊き返すよりも早くエリーゼは立ち上がり、壁際の帽子掛けから中折れ帽を取って、近くの鏡の前で被っている。角度を細かく調整しているようだ。

「サワコ様は夕食はもうお済みですか? そうでなかったら、そこへご一緒に食べに行こうではありませんか。この後、私は何も予定が入っていませんし、たまには梅田の居酒屋で夕食を摂りたいと思っているのです。もちろん、調査も兼ねておりますよ」

「はあ……」

 調査と言うからには、この依頼を受けてくれるのだろう。しかし、それに付いて行く必要があるのだろうか。だが、雰囲気的には付いて行かざるを得ず、エリーゼがタクシーを呼ぶ間に前金の5千円を払って、預かり証をもらった。

「フジエちゃんからの紹介ですが、残念ながら割り引きにはなりませんです。4万円です。残り3万5千円は事件解決後にお支払いいただければ結構ですよ」

「割り引きがあるんですか」

「フジエちゃんがジュンサブチョーに昇進したら、紹介された依頼人は3万円に割り引きするという約束をしているのですよ」

 タクシーでコスモスクエア駅へ行き、地下鉄を本町ほんまちで乗り換えて梅田へ。目指す店は阪急の大阪梅田駅の近くにある、大衆居酒屋だった。居酒屋が寄せ集まっているビルの1フロアだ。タクシーの中でエリーゼが電話予約をしていたので、すぐに席に案内された。

「でも、電話で4人って言ってましたよね。他に誰か来るんですか」

「せっかくなので私の友人を呼んだのです。もちろん、サワコ様にも紹介します」

「男の人ですか」

「女の人たちです」

 店員が注文を取りに来て、エリーゼが「とりあえずナマダイ」を頼む。

「私、ウーロン茶で」

「おや、ビアーが飲めないのですか」

「いえ、飲酒届、出してないので」

 警察官も科捜研の技官も、退勤後に飲みに行くときは、飲酒届を出すという決まりだ。言ってから「しまった」と思ったが、エリーゼはどうやら気付いていないようだ。それどころか、最初は飲み物だけかと思いきや「ヴルスト盛り合わせ」。要するにソーセージの盛り合わせも注文した。店員が苦笑いしている。

「お気付きかもしれませんが、私はドイツ人なのですよ」

「そうでしたか」

「ビアーもヴルストも大好きなのですが、飲んだり食べたりすると胸が大きくなるので困っているのです」

 心底、羨ましいと佐和子は感じていた。

 ところで、エリーゼは調査をすると言っていたはずだが、さっきからメニューを見ているだけで、聞き込みにも行かない。サインの調査なので、帰りに聞いたりするのだろうか。しかし、既にビールを頼んでしまっている。酔わない自信があるということ?

 さっそくビールとウーロン茶が運ばれてきた。ソーセージは当然、まだだった。

「では、乾杯しましょうか」

「え、何に乾杯するんですか?」

「もちろん、事件解決を祈るのですよ」

 解決どころかまだ調査前なのに。乾杯の言葉はドイツ式に「プロスト!」。ウーロン茶で乾杯するのはちょっと虚しい。エリーゼが大ジョッキに口を付けると、みるみるうちにビールがなくなっていく。ジョッキがテーブルに置かれたときは、8割方減っていた。飲むの、早っ!

「仕事の後のビールというのはおいしいものですね」

「今日は他にもお仕事あったんですか」

「ありませんでしたよ。これが今日の最初の仕事です」

「え、でも、もう仕事終わったんですか?」

「依頼を受けるのも仕事のうちですよ」

 佐和子が呆れているところにソーセージの盛り合わせと枝豆が出てきた。けっこう早い。枝豆は頼んでいないので、突き出しだろう。そして店員に案内されて、誰か来た。残りの二人……

「エリちゃん、こんばんはー。あ、もう始めた後やった?」

「いいえ、これは訓練ですよ」

「ちゃうちゃう、練習って言うねん。わあ! 佐和子ちゃんや。なんでエリちゃんと一緒なん?」

 二人のうち一人は、田名瀬刑事だった! まずい、どうやって言い訳しよう。いや、その必要はないか。だって、探偵のこと聞いたし。

「えーと、探偵さんに相談したら食事に誘われて」

「そうやったんや。相談って何の件で?」

「えーと、それは」

「フジコちゃん、それを聞いてはいけませんよ。いくらフジコちゃんが相手でも、依頼の内容は明かせないのです」

「フジコやなくて不二恵です。そや、佐和子ちゃんは初めてやから紹介せな。アンちゃんも一緒に来てん。森村杏ちゃん」

「ちゃん付けをされるような歳ではないぞ。それはさておき、君が科捜研の安口佐和子さんだな。初めまして、臨海署刑事課の森村杏巡査部長だ。私は科捜研へ嘱託に行ったことはないが、他の刑事から、文書課に有能な若い女性技官がいると聞いていた。今後ともよろしく……と言いたいところだが、まさか探偵に例の件を相談していたのではあるまいな?」

 紹介された森村杏巡査部長は、さらっさらの長い黒髪をポニーテールにまとめ、前髪を目の上で真っ直ぐに切り揃え、赤いアンダーリムの眼鏡をかけた細面の超絶美人。年齢はおそらく30代前半。黒いパンツスーツ姿で、いかにも刑事かエリート弁護士かというタイプ。

 そのエリート美人が、笑顔ながらも目に冷たい光を湛え、睨みを利かせつつ強い口調で聞いてきたので、佐和子はビビりにビビった。しかもエリーゼに、科捜研技官であることがバレてしまった!

「いくらアン様が相手でも、依頼の内容は明かせませんよ。それに私は警察が押収したと思われるような、証拠品の一点すら見せてもらっていないのです。そこはサワコ様を信用してあげたらよろしいでしょう。ところで、今日も最初からハーフ&ハーフでしょうか?」

「うむ、それだ。つまみは枝豆と揚げ出し豆腐で」

「枝豆は何も言わなくても出てくるようですよ」

「いや、追加で頼む」

「えーっとねぇ、私はそしたら、生中と鶏カラとえのきベーコンと」

「お二人とも飲酒届を出してきたのですね」

「もちろんです。それから焼き鳥盛り合わせと刺身盛り合わせ、シーザーサラダ、あとジャーマンポテト」

「フジコちゃん、呼び出しボタンを押してもらえますか」

「フジコやなくて不二恵です。ピンポーン。あれ、音鳴らへんわ。でも、向こうでは鳴ってるんやんな」

「あの、お二人はどうしてここに……」

 不二恵が店員を呼ぶボタンを押したところで、佐和子は聞いてみた。不二恵でも杏でもなく、エリーゼが答える。

「もちろん、私がお呼びしたのですよ」

「いえ、そうやなくて、どうしてお二人を呼ぶ必要があったんですか?」

「何だ、私たちでは不満なのか」

 なぜか杏が答える。杏は佐和子の隣に座って、既に上着を脱いでいる。そういうのは「今夜は飲むぞ!」というときだと思うのだが。

「いえ、不満とかそういうんやなくて」

「居酒屋へ行くのに、二人では寂しいではないですか。だからフジエちゃんにメールをして、もう一人呼んで下さいとお願いしたら、アン様が来てくださったのですよ」

「ふん、どうせ板東が非番だから私に声をかけたのだろう」

「だって、バンちゃん、梅田は遠いて言うんですもん。めんどくさがりなんです」

「我々だって住之江の寮まで帰るから、一緒だろうに」

「ほんまそうですよ。あと、今日は杏ちゃんとメールしてたので、その流れで」

 ということは、佐和子が不二恵と連絡を取ったので、不二恵が杏を連れてきたということになる。つまり佐和子自身のせいだ。いや、それよりも問題は……

「あの、エリーゼさん、もしかして、私が警察関係者やって気付いてたんですか?」

「知らないと思っていましたか? カソーケンの女のことはたいてい知っているのです」

「え、なんでそんなん知ってるん? 人事秘やのに」

「お前がうっかりバラしたのではないのか、田名瀬」

「私、そんなに口軽くないですもん」

「ご心配なく、アン様。フジエちゃんではありませんよ。しかし、私は他の署にもお知り合いが何人かいて、その中には口が軽い人もいるということです」

「迂闊な奴がいるものだな。刑事にあるまじき不用心さだ」

 科捜研は警察の下部組織ではあるが、刑事が技官として配属されることもあるので、警察署と同等のコンプライアンス体勢が取られている。だから人事情報も秘扱いだ。ただし、研究機関なので、論文を書いてそれを学会誌――日本法科学技術学会誌――に載せることもあり、そこから世間一般に名前が知れることもある。学会誌は誰でも読めるからだ。

 飲み物と料理が揃い、もう一度乾杯する。不二恵も杏も最初の一杯を一気飲み。すぐにお代わりを注文する。見ていると佐和子もビールが飲みたくなってきた。飲酒届の制度さえなければ飲めるのに。

「佐和子ちゃんは彼氏いてんの?」

「いるような、いないような……」

「いてるんですね、羨ましい」

「フジエちゃんにはなぜいないのですか」

「出会いが少ないからに決まってるやん。そやから、エリちゃんに紹介してって言うてるのに」

「私が事件を通じて出会う男性は、なぜか悪い人ばかりなのですよ。不思議なことに、依頼者として若い男性が来たことが、一度もないのです」

「小さなことでも、事件に関わる男と付き合うと、ろくなことがないぞ。友人を通じて、ごく普通の男を紹介してもらえ」

 杏の言葉は、なぜだか佐和子に向けられているような気がする。佐和子がエリーゼに依頼したことが、佐和子の彼氏に関係あると、気付かれているのだろうか。

「森村さんは結婚してらっしゃらないんですか」

「結婚の経験はある」

 それは離婚歴があるということではないのか。

「何か事件に関わってらっしゃった人なんですか」

「別に事件がきっかけで付き合い始めたのではない。結婚した後で、ある事件に巻き込まれてな。私が担当したのではなかったが、いや、それは規則上、関われないのだが、その男の対応を見ているうちに、思っていた以上に優柔不断な男だという気がしてきたんだ。無実の罪を着せられそうなのに、自分から積極的に潔白を証明しようとせんのだ」

 杏はビールを飲み干し、お代わりを頼んだ。ピッチが速い。すでに不二恵の倍は飲んでいる。

「付き合っていたときから、気が弱いというか、すぐ人を頼るというか、とにかく自己解決能力が不足していた。まあ、そこは私の好みでもあったんだ。私はこう見えても人を世話するのが好きな方だから。だが、予想を遥かに下回る欠点が次々と見えてきて、二人でやっていく自信をなくした。助け合っていきたかったのに、私が一方的に助けるばかりになりそうでな。ぐち君の彼氏に、そういうところはないか。あったら考え直すことを勧めるぞ」

「えーと……」

「アンちゃんの元旦那って、そんな頼りなかったんですかー。あんなにイケメンやったのに」

「顔に騙されたわけではないぞ。しかし、正体を知ると、あの手の顔はダメだということがわかってくるんだ。田名瀬も気を付けた方がいい」

「私はイケメンよりお金持ちの方が好きなんです。お金持ちの人はたいてい頼りがいありますから」

「うむ、それも一理あるな。まあ、金持ちとは言わないが、平均以上の収入がある方がいいだろう。学生時代に真面目に勉強していた証でもあるからな」

 何となく兵太のことを批判されている気がする。この二人が知っているはずはないのに。そういえば、兵太は無実の罪を着せられそうになって困っているはずなのに、どうして自分で探偵を雇ったりしないんだろう。筆跡鑑定の件は、私に負い目があるわけでもないのに……

 その後の話題は男のことから離れてくれたのでよかったが、佐和子は飲み会が終わるまで悶々としていた。飲んでいたら気にせずに済んだか? いや、酔ったはずみで何か愚痴を言っていたかもしれない。とにかく、10時頃に飲み会は終わった。

 飲み代はエリーゼがカードで払った。佐和子は割り勘の分を現金でエリーゼに渡したが、ビールを飲んでいないので、どう考えても自分が一番損をしている、と思った。


(続く)

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