第3章 探偵依頼 (前編)

 佐和子が調べたいことは二つあった。

「蟹井のサインを真似られる人はいるだろうか?」

「蟹井のアリバイを崩す証拠はあるだろうか?」

 しかしそれらの前に、まず事件がどういうものだったかを、詳しく知らねばならない。本来なら、鑑定を嘱託されたときに訊いておくべきだった。依頼者はそれが鑑定に必要な情報と思えば話してくれる。ただし、依頼者の先入観を聞かされることは、鑑定における誤判断の原因にもなるため、「聞きたくない」という技官もいる。だから話される内容の濃さはまちまちだ。

 そもそもあの筆跡鑑定は、佐和子が直接受けたのではなく、科捜研文書科として受けた、いくつもの嘱託の中から「これ、やって」という感じで上司から渡されたのだった。だから話を聞く機会は「鑑定を終える前に、直接依頼者に電話なりメールなりする」ということしかできなかった。今から話を聞くのでは遅い。「鑑定をやり直させてくれ」と言っているようなものだ。

 ということは、何とか別のルートで情報を仕入れるしかない。依頼は臨海署からだった。臨海署の刑事に、知り合いは一人しかいない。しかも刑事課ではなく生活安全課……

 とりあえず、メールしてみる。しかし、「残念、知りません」という返事だった。

「知ってそうな人、教えてくれませんか?」

「探さないとわからへん。どうしてそんなこと知りたいん?」

「鑑定結果がどう使われてるのか知りたくて」

 メールでのやりとりだが、佐和子は本心からちょっとずれたことを書いてしまった。しかし、どう使われるのか知りたいのは間違いない。

「刑事課の人はみんな口が堅いからなー。とりあえず、アンちゃんに聞いてみます」

 アンちゃん、という知らない名前を出され、相手からのメールがしばらく止まった。夕方頃になって、「臨海署刑事課の森村杏です」というメールが来た。“CC”にさっきまでメールしていた田名瀬不二恵の名前も入っている。

「お問い合わせの事件については、私も概要しか知りません」

 という書き出しだったので、がっかりしかけたが、よくよく読むと佐和子の知りたいことのほとんどは書かれているようだ。

「発生日は先々週の木曜。某介護用品卸会社で、夜間に窃盗。被害額は現金約百万円」

「場所は心斎橋の某雑居ビル。当該会社はそのテナントの一つ。合鍵で侵入したと思われる」

「盗まれた現金はテナントの室内のダイヤル式金庫の中。こじ開けた形跡はなく、ダイヤルの番号を知っていた模様。ただし、近くの机の抽斗に番号のメモあり」

「警備員一人が怪我で入院。巡回中で防犯システムは一時的に切られていた。犯人の顔は見ず。ただし防犯カメラの映像あり。科捜研で解析」

「マルヒは現状二人。当該会社の社員と元社員。発生時のアリバイが弱いのは一人だけ」

「防犯カメラの映像からマルヒをもう一人に絞るも、アリバイあり」

 口が堅いと言われつつ、よくもこれだけ教えてくれたものだが、会社名や個人名は一切入っていない。しかし、会社の名前は既に知っているし、「アリバイが弱い」のは兵太のことだろうし、最後の「アリバイあり」は蟹井のことだろう。

 防犯カメラの映像も科捜研で解析していたのは知らなかった。映像解析だから、物理科だろう。顔は見えなかったのだろうが、歩き方を解析すれば人物をある程度特定できると聞いている。歩容鑑定というらしい。

 物理科の女子技官に、何を解析したか訊いてみようか? しかし「マルヒをもう一人に絞る」とあるのだから、その解析では蟹井の可能性が高かった、ということなのだろう。それ以上の情報はないに違いない。

 筆跡鑑定と歩容鑑定。どちらも個人を100%特定するものではない。似た筆跡、似た歩き方の人が、他にいてもおかしくないからだ。その点は指紋やDNAとは違う。つまり、筆跡鑑定や歩容鑑定は、多数の被疑者マルヒの中から数人に絞り込むとかの「参考」、あるいは別の証拠により特定した被疑者マルヒに対する「補強」にしかならない。

 そして今のところ、この二つで相反する結果……現場にいたのを示すのが歩容鑑定で、いなかったのを示すのが筆跡鑑定、ということになっているのだろう。

 森村刑事と田名瀬刑事にお礼のメールを出してから佐和子は帰ろうとしたが、もう一つ知りたいことを思い出して、慌てて田名瀬刑事にメールを出した。

「ところで臨海署の近くに探偵さんがいるんじゃなかったでしたっけ。紹介してもらえませんか?」

 さっき訊いた件との関係を突っ込まれたら困るので、ドキドキしながら返事を待っていたのだが、その心配は全くの杞憂に終わった。

「三浦エリちゃんですね。住所と電話番号は……」

 何たる無警戒。よくこれで刑事が務まる。もし森村刑事をCCに入れていたら、「さっきの件を探偵に教えたりしないでください」という指摘を受けていたことだろう。もちろん、探偵に相談するときでも、事件の概要を詳しく言う必要は感じない。佐和子が知りたいのは、ただ二つだけなのだ。

「蟹井のサインを真似られる人はいるだろうか?」

「蟹井のアリバイを崩す証拠はあるだろうか?」


 署を出てから、地下鉄に乗るまでの間に探偵事務所へ電話する。「いつでもどうぞ」とのことだったので、今日の6時ということにしておいた。コスモスクエア駅へは5時40分頃に着くだろうから、そこから歩けば20分くらいだろう。

 と思っていたのだが、コスモスクエア駅で改めて住所を検索したところ、咲洲さきしまの東側の工場地帯の中であることがわかった! 駅から2.5キロくらいある。中央付近の住宅地の中ならニュートラムに乗れば、と思っていたのだが、ポートタウン東駅からでも徒歩10分くらいとなっていて、コスモスクエア駅からの歩きと、どっちが早いのかわからない。

 やむなく駅前からタクシーに乗ったが、行き先の住所を告げると運転手は「ああ、あっこね」と言って笑った。そんなに変なところなのだろうか。着くと、笑った理由がわかった。どう見ても廃業した中小企業の事務所だ。しかし、灯りが点いている部屋が2階に一つだけある。運転手は「向こうの裏に回って、階段を上がって」と教えてくれた。

 礼を言ったが、タクシーが行ってしまうと、本当にここでいいのかという気がまたしてきた。既に陽は落ちて、あたりは人通りもなくて寂しい感じだ。もう一度電話してみることにする。

「はいっ! 湾岸探偵事務所」

 元気のいい女性の声が聞こえる。外国風の訛りが入っているところが気になる。さっき電話したときも、外国人パブに電話したかのような錯覚に陥ったのだが……行ったことはないけど。

「あの、今、事務所の前まで来てるんですけど、白い2階建てで、事務所の名前がどこにも書いてなくて……」

「アハン、外見を疑っておられるのですね。カイン・プロブレム、そこで間違いありませんよ。試しに今から2秒ほど灯りを消してみましょうか」

 2階の灯りが消えて、また点いた。やはりここでいいらしい。「すぐに行きます」と言って電話を切り、裏に回って階段を上がった。扉にはちゃんと「湾岸探偵事務所」のプレートが付いている。それをノックする。そばで待ち構えていたらしく、すぐに開いた。

「アグチサワコ様でしょうか?」

 やっぱり外国人だった。でも、すごい美人。

「そうです。すいません、場所に自信がなくて……」

「お気にならさず。よく言われるのですよ。しかしこれには深い理由があるのです。とにかく、少しお待ちくださいませ」

 ドアが閉まり、チャラチャラと音がした後で、今度は大きく開いた。女性は顔だけでなく、プロポーションもよかった。胸、でかっ!

 中に入ると、今度は内装に驚く。家具屋のショールームかと思うほどだ。壁紙もカーペットもソファーもデスクもみんな高級そう。東署の署長室でもこんなに立派ではないだろう。見たことはないけど。

 勧められるままにソファーに座り、まだ部屋の中を見回していると、外国人女性がコーヒーを持って来て「どうぞ!」と言った。

「ありがとうございます。あの……あなたが探偵さんですよね?」

「いかにも! 湾岸探偵事務所、所長で調査員の三浦エリことエリーゼ・ミュラーでございます!」

 外国人女性が背筋をピンと伸ばし、右手を胸に当てながら言う。その胸はブラウスがパンパンに膨らんでいて、ベストを着ていなかったらきっとボタンが飛んだだろう。

「自己紹介と探偵であることの証明を致しましょう。こちらが探偵業届出証明書!」

 デスクの方へ歩いて行き、その後ろの壁に架かっている額を手で指し示す。それからデスクの抽斗を開けてノートを取り出す。

「従業員名簿です。私の名前しかございませんけど!」

 それから戻って来て、胸ポケットから取り出したカードを見せる。

「身分証明書です。最近作ったマイナンバー・カードです!」

 そしてカードをくるりと回しながら胸ポケットに収め、最初の「胸に手を当てるポーズ」に戻って言った。

「ご安心ください。ここで探偵業を始めて3年目でございます」

「あ……どうもありがとうございました」

 思わず、佐和子は礼を言いながら頭を下げてしまった。

「お礼の言葉はまだ早いのではないですか。何も承っていませんですよ」

「あ、そうでしたね。えーと……」

「電話で、フジエちゃんからのご紹介とおっしゃったように思いますが、あなたも警察の方でしょうか?」

「えーと……いえ、違います」

 つい、ごまかしてしまった。警察が探偵に依頼するなんて、と思ったせいだ。黙っていればわからないはず……

「そうですか。別に、ご職業は何だって構わないのですがね。それで、どういったご用件でしょうか?」

「はい、あの、えーと、ここではアリバイ崩しとかもしてもらえますか?」

「アリバイ崩しでも密室破りでも暗号解読でも、内容を伺ってみるまでは何とも言えませんですよ。私が絶対に扱わないのは殺人事件の捜査くらいです。そうでないのなら、どうぞ気軽にお話しください」

「えーと、実はですね……」

 まだ迷いがあるせいか、つい「えーと」と口ごもってしまう。しかし、訊きたいことははっきりしている。ある人物のアリバイを証明するものとして、飲食店でカード支払いをしたときのサインがある。サインはその人物のものと思われるのだが、同時に他のところにも(つまり事件の現場にも)いたという証拠もありそうだ。どっちの証拠も有力なのだが、サインを偽造することは可能だろうか?

「ということは、つまり、筆跡鑑定で本人が書いた署名であるという結果が出ているのですね?」

「はい、でも、100%じゃないかもしれないですから……」

 自身が鑑定したのに、それを否定するのはとても心苦しい。しかし、100%でないというのは真実なのだと自分に言い聞かせる。だって90%やし。

「どなたが鑑定したのですか?」

「えーと、警察の科捜研っていうところだそうです」

 又聞きであるかのような表現をしてごまかす。

「飲食店というのはどういう種類でしょうか?」

「飲み屋っていうか居酒屋っていうか……あ、居酒屋ってわかります?」

「わかりますよ。ヤパーニッシュ・パブのことですね。すぐ近くのATCにもいくつかありますし、行ったこともありますよ」

「そこのお店で飲んだときの、レシートのサインらしいんです」

「店の名前と住所もわかっているのでしょうね」

「はい」

 スリップにはちゃんと飲食店の名前が入っていて、それは報告書の中に日付、住所と共に記載している。消してあったのはカード番号と金額くらいだ。

「ここからは遠いところですか?」

「梅田なので、それほど近くはないですが……」

「梅田なら十分近いではないですか。では、今からそこへ行ってみましょう」

「は?」


(続く)

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