第2章 筆跡鑑定(渡利鑑識)

 大阪市住之江区の咲洲さきしま人工島に建つ、プレハブ造りの大阪臨海署は、今日も平穏だった。管内で犯罪が起こらないということではない。暴行事件は少なくても、窃盗やスリはそれなりに発生する。だから刑事課は静かに忙しい。他の課もそれなりに忙しい。平穏というのは映画やテレビドラマのような、人目を引く大規模な事件がないというだけのことだ。

 昼過ぎに、生活安全課の電話が鳴った。電話を取るのは若手の場合が多い。若手の仕事と決まっているのではなく、ベテランはいろいろ仕事を抱えていて忙しいが、若手はそれより忙しくない。だから電話を取る余裕がある。その時は田名瀬不二恵がおやつを手に持ちながら電話を取り、受け答えをした後で、おやつを口に入れながら「かどさん、刑事課の堀下さんから」と言った。

「行儀悪いなあ」

 それでも、電話を取っただけましかもしれない。おやつを口に入れているので電話に出られない、という言い訳をすることもあるくらいだから。

「門木ちゃん、“一人科捜研”のことで相談があんのやけど」

 一人科捜研とは渡利鑑識のことだ。一人で科捜研並みの働きをするというところから来ているのだが、別に門木がそう呼んだわけでもないし、門木はそこの代理人でもない。ただ、最初に利用したのは門木で、他の人にも紹介したため、以後、問い合わせは全て門木のところに来る、という迷惑な事態になっている。

「向こうに直接電話して訊いてくださいよ。受付のお姉ちゃん、優しいでっせ」

 お姉ちゃんと言ってはいるが、本当は中年の婦人だ。しかし、年齢はよくわからない。知ってはいけないと門木は思っている。

「そんなん言わんと、ちょっと教えてぇな。筆跡鑑定を依頼するときのことやねん」

「筆跡鑑定ですか。あれだけちょっと高いからなぁ」

 渡利鑑識への依頼料は、基本的に1件千円。ただし、物品の数にあらず、その物品から何種類の鑑定物を取り出してくるかによる。例えばハンカチ1枚であっても、付着している物質が複数あれば、「その数×かける千円」ということになる。それを知らずに数万円の依頼料を請求される例が後を絶たない。

 さらに筆跡鑑定を依頼する場合、「文字数×かける千円」に加えて、裁判所に提出する証拠としての能力を持つ鑑定書を依頼する場合が多い。これが「報告書のページ数×かける1万円」。文字数が多く、文字から抜き出した特徴が多いほど値段が上がる。それでも他へ依頼するよりは桁違いに安いはずだ。

 おまけに抜群に早い。依頼した翌日に10ページ前後の報告書ができあがることがほとんど。他では考えられない。たいていは数週間で数十万円だし……

 しかし、筆跡鑑定は科捜研でもできるはずで、それでどうしても納得がいかないときに渡利鑑識を使う例がほとんどだ。しかも「警察の鑑定は当てにならない」という理由で、被疑者マルヒや原告が渡利鑑識に依頼するものなのだが。

「それでな、現地に行って、どういう報告書にしてもらったら一番効率がええか、っちゅうか、安上がりかを一緒に考えて欲しいねん」

「なんでわしが。渡利と相談しながらやったらええですやん」

「でも、向こうはたいがい『どうするかは警察で決めて』て言いよるやん。そやから、向こうのやり口を一番よう知ってる門木ちゃんがおってくれたら、話が早いさかい」

「面倒くさいなあ。マニュアル作らせましょか、府警本部ほんてんに」

「でもたぶん、ひな形作れて言うてくるで、門木ちゃんのところに」

 それも多分そうだろうと思う。しかし、今すぐはさすがに無理だ。いくら忙しくないとは言っても、定時間内にすべきことはちゃんと決まっている。「5時に仕事が終わってから、付き添いで行く」ということにしておく。堀下の方も今日は残業する予定だったらしく、「それでええわ」ということになった。

「ちゃんと予約しとってくださいよ」

「わかった。そういえばあそこって何時までやってるんかなあ」

「受付は5時過ぎに帰ってしまいよるけど、渡利はだいたい7時頃まではおりますな。下の弁護士事務所しだいなんちゃいますか」

「まさか、あそこに住んでるわけやないよな?」

「それは知りまへんけど」

 予約を入れていれば夜の9時でも受けてくれることがあるが、さすがに渡利の私生活までは門木も知らない。


 5時過ぎに署の受付前で堀下と待ち合わせ、渡利鑑識へ向かう。歩いて数百メートルほど。受付は既にいなかったが、4階へ行くとドアが開いていた。挨拶をして入る。堀下がテーブルの上に依頼書と、鑑定すべき筆跡サンプルを並べる。

「対称はこのクレジット払いのスリップで、比較サンプルは三つですねん」

 スリップは居酒屋のレシート様の、縦長の感熱紙にボールペンでサインしたもの。「蟹」の字は画数が多いので他より字が大きく、「井」はやけに小さい。他の2文字はその中間の大きさ。比較サンプルは、クレジットカードの裏面を写真に撮ってプリントアウトしたものと、本人が新たに書いた原紙が2枚。

「あれ、本人に書かすのは4枚やなかったっけ?」

 かつて門木も別の署で刑事課にいたことがあるので、それくらいのことは知っている。

「比較サンプルが多かったら値段が上がるっちゅうことはない?」

「ないです」

 堀下の質問を、渡利が言下に否定した。並べられたサインをじっと見ていて、既に結論が出ているのではと思われるほどだ。

「そしたら、これも出そかな」

「なんで隠してますのん」

「いや、値段が上がるかもて思ったから」

 堀下が新たに出してきた2枚は、他のものよりも鑑識対称の筆跡に似ていた。まさか、筆跡が一致しないという結論を出すために隠していたのだろうか。

「そういうのは全部出さんとあきまへんわ」

「ほんまはもう一枚スリップがあんねんけどな。別の居酒屋から預かって来てんけど」

「それも出す方がよかったと思いますわ」

「比較対象として?」

「そう。新たに書かしたのより、そっちの方が自然な筆跡になるやろし」

「それはそうやねんけどなあ」

 やはり、筆跡が一致しないという結論が欲しそうだ。そんなことではいけないのだが。

「それで、どうですやろ」

 渡利がサインを見つめたままなかなか口を開かないので、堀下が訊いた。おかしい、と門木は思っていた。普通なら、渡利は即座に結論を出して、説明を始める。それはもう、本当に鑑定したのかと疑いたくなるくらいの短時間で。

 おかしいのはもう一点あって、さっきから門木はだんだん息が苦しくなってきたのだが、いったいそれはなぜなのか……

「ぷはっ!」

「ど、どないしてん、門木ちゃん?」

 門木が苦しそうに息を継いだので、堀下が驚いて訊いた。門木は渡利が鑑識をしている間、息を止めていたのだった。今まで門木自身も気付いていなかったのだが、そういう妙な癖がついていたらしい。「息をつく間もなく鑑識をする」のを見ていたから、そうなったのだろうか? それはともかく、渡利はさっきから1分以上も黙ってサインを見続けている。

「なんか変かな?」

 深呼吸をした後で、門木は訊いた。門木の目から見ると、どれも同じ人物の筆跡に見えるのだが。

「いや、本人の筆跡である確率は高い。スリップと、カード裏のサインは99%の一致と言っていい。しかし、他のサンプルが……この2枚は別として」

 本人が新たに書いたサインのうちの、「ゆっくり書いた」と思われる2枚を、渡利は横へよけた。比較対象としては適さないと言いたいのだろう。それは門木もわかる。特徴が出ていないこともないが、他の2枚の方が、より似ているからだ。

 しかし、「横へよけた2枚」は堀下が最初に出してきた方だった。やはり筆跡が一致しないという結論が欲しかったのだ。何という不道徳。

「よけてない2枚は、筆跡が一致しない?」

 堀下が勢い込んで訊いた。期待を込めながら訊くな、と門木は言いそうになった。

「50%。つまり、似ていると言われればそうかという程度」

「ふーん。でも、カード裏のサインがあったら、それで十分やったっていうことやな」

 堀下は納得しかけ、門木も同じように感じたのだが、なぜだか頭の中で警報が鳴り始めた。いやいや、ちょっと待って、比較サンプルが多いほど一致率が下がるって、どういうことよ。

 筆跡鑑定が難しいのは、サンプル自体が少ないか、たくさんあっても中に一致する文字が少ないかの、どちらかの場合だ。今回のように、選び放題というくらいの十分なサンプルがあれば、0%か100%のいずれかに絞り込めてもいいはずなのに。

 もちろん、カード裏のサインに対して99%と渡利は言ったが、全てを合わせて99%というのならまだしも、一つだけが99%で他は50%なんて、そんなアホな……

「やっぱり、証拠になるかもいうのを意識したら、筆跡変わるんやって」

 門木が頭の中の疑問を口にすると、堀下がそう返してきた。一致しないという結論が欲しかったのではなかったのか。どっち付かずやなあ。

「それに、居酒屋のサインは酔っ払って書いてるから、普段の時と違うかもしらへんし」

「でも、カード裏のサインは素面しらふで書くもんでっせ」

「ありゃ? ほんまや。なんでその二つが99%なんやろ。渡利はん、カード裏のサインと、こっちのサンプルの筆跡はどれくらい似てますのん?」

「ちょっと待て! それは参考までに訊くだけで、鑑識報告書には不要やから」

 言っておかないと、追加料金を取られてしまう。鑑定するのはあくまでもスリップのサインに対してであって、サンプルどうしの類似チェックは対象外だからだ。

「50%」

「どっちも素面の時のサインやのに?」

 うーん、と堀下が考え込む。門木も訳がわからなくなってきた。紙の質も関係ないだろう。むしろ、カードの裏は普通の紙よりも書きにくい。堅いし、ボールペンで書くと滑るからだ。字が下手になって、これでいいのかと心配することもあるくらいだ。

「どう考えたらええんやろ。でも、スリップのサインは、基本的にカード裏のと一致してたらええからなあ。カード払い専用のサインを使うっちゅうこともないやろし」

「比較サンプルは、なんて言うて書かせたんです? カード払いの時の字でお願いしますとは言わへんのですやろ」

「言わへんよ。ある事件の参考として、筆跡を参考にしたいから言うて、書かせただけ。居酒屋のことすら言うてない。もっとも、最近仕事では自筆で名前書かへん言うてたし、アリバイ調べやろなっちゅうことくらい、察しが付いてるやろけど」

 それなら余計に、カードの時のサインに似せた文字を書くはずだろう。それなのになぜ50%なのか。

「ていうか、報告書てどうなんの? 99%と50%の間で、75%とかいうことになるんかしらん」

「いや、比較サンプルごとに結果を記載します。ただ、新たに書いたこの4枚は、2枚ずつに分けて、行書に近い2枚は50%の結論を書く。楷書に近い2枚は特徴点を記載して参考にとどめるのがいいと考える」

「つまり、全体として何%とかは書かへんから、後は警察うちらで判断してっちゅうことやな」

「そうです」

「報告書としては、それでしゃあないやろな。しかし、けったいなことになって来たなあ。何を信用したらええんやろ」

 堀下が愚痴る気持ちは、門木にもわかる。一致率の違いが、99%と70%というのならまだいいが、99%と50%だ。明らかに同時期に書いた文字が、50%の一致率なんて、そんなことがあるのだろうか?

 ただ、門木がそれについて深く考える必要はない。これは刑事課の事件であって、生活安全課は関係がない。応援を依頼されることもないだろう。夜中に何かのはずみで気になって、寝られなくなったら嫌やな、と思うだけだった。

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