第3章 水曜日 (前編)

 その日の学校帰り、エリさんに電話すると、変なことを頼まれた。

『法律事務所へ行って、ハト様の指示に従ってください』

「ハト様って誰ですか」

『受付の鳩村夫人のことです』

「何すればいいんですか」

『簡単です。ハト様の代わりに3時間ほど受付に座っていればいいのです』

「座ってるだけですか」

『ウンメーグリッヒ、そんなわけありませんです。受付嬢としての役割を果たすのです』

「どうしてそんなことしなきゃならないんですか」

『あなたからの相談を2時間も無料で聞いているのですよ。代わりにそれくらいしてくれたっていいでしょう』

 したっていいけど、3時間経ったら7時になってしまう。夕食の時間やんか。

「じゃあ、今日はそっちへ行かなくていいんですか」

『あなたの好きにすれば良いのです。昨日の続きが気になるのなら、お越しになれば良いでしょう』

「うーん」

 とりあえず、法律事務所へは行くことにしよう。これ以上エリさんにタダ働きさせるのは申し訳ないから、お願いは聞いた方がいい。でも、私服に着替えてから行った方がええのかな、ようわからへん。近いので、とりあえず訊きに行ってみよう。

「こんにちは」

「あら、こないだのお嬢ちゃん! 今日はどちらにご用?」

 鳩村さんはにこにこ笑っている。私のことを憶えてくれていたらしい。どうしてこんなに楽しそうなんやろ。

「鳩村さんのところに行ってって頼まれたんです」

「あら、ほんなら、エリちゃんが。よかったわ、あんた、えーと、そうや、麻生伶ちゃんやったな。あんたやったら賢そうやから、できると思っとってん。手伝ってくれんねんなあ?」

「あ、はい」

「ほんなら、ここ座り」

 受付の中にはもう一つ椅子があった。鳩村さんの椅子には毛糸織りの座布団が置いてあるみたいやけど、こっちには置いてない。別に、ないからどうっていうこともないけど。

「あの、えっと、私服に着替えてきた方がよかったですか?」

「ううん、そのままでええよ。制服の方が、受付らしくみえるやん」

 まあ、ブレザーだから、そうかな。鳩村さんはA4サイズのカードケースを出してきて、「ここにやり方書いてあるから読んどいて」と言った。マニュアルだった。

「そんな難しないんよ。おばちゃんでもできるんやから。おばちゃんも、いっつもこれ見ながらやってるねん。もうすぐお客さん来ると思うから、おばちゃんのやってること見ときぃな。あんたやったら賢いから、すぐ憶えられるわ」

 何をもって私が賢いと思ったのか不明なんやけど、あえて否定しないことにした。でも私は自分でそんなに賢くないと思ってる。進路相談のときに阪大へ行きたいと言ったら、担任が無理って即答したくらいやし。

 と、お客さんが来た。

「いらっしゃいませ」

 鳩村さんが挨拶したので、私も頭を下げておく。予約があるかを訊いて、あればPCでスケジュールを確認して、担当になっている弁護士さんの名前をクリックして、その名前をお客さんに言って、中に入って待っていてもらう。マニュアルどおりの対応。

「弁護士さんの方は、必ず予約して来はるから、簡単なんよ。鑑識の渡利さんの方は予約なしで来ることがあるから、その時は受付票を書いてもらうんよ。伶ちゃんも憶えてるやんなあ」

「はあ」

 予約の時は電話がかかってくるから、このマニュアルのとおりにすればええだけなんよ、と鳩村さんが言っていると、まさに電話がかかってきた。鳩村さんが出る。と同時に、お客さんがやって来た。どう考えても私が対応しなければいけない。いきなり実戦をすることになった。

 挨拶をして予約があるかを訊いたけど、PCは鳩村さんが使っている。紙にお客さんの名前をメモして、電話が終わるのを待つしかない。お客さんに「少々お待ちください」と言うと(それくらいなら教えられなくても言える)、お客さんが片手を挙げて「大丈夫、大丈夫」と笑顔で言う。おじさんの典型的なハンドシグナルやなー。

 電話が終わったので鳩村さんにメモを渡したら、鳩村さんはそれを見ずにお客さんに親しげに挨拶をすると、PCを操作する前にお客さんを中へ通した。ドアを入ったところで中から挨拶する声が聞こえたから、弁護士の先生が既に待ってたらしい。鳩村さんはお客さんの名前をクリックしてから私に言った。

「今のお客さんは前にも来はったから、顔と名前を憶えてたんよ。予約があったのも憶えとったから、すぐにお通ししてん」

 それから、「伶ちゃんは今日が初めてやから憶えてへんでもええんよ」と言った。何か、今後も来ることを期待されているような言い方に聞こえた。そんな予定ないのに。

 鳩村さんは、今日は4時半に帰らねばならないらしい。普段は受付がいなくなったら若手の弁護士さんが代わりをするんやけど、それやとその弁護士さんの時間がもったいないので、代わりの受付がいれば助かる、という事情。

 弁護士事務所はほとんどの場合5時に終わりで、時々7時とか8時とかまで残業することがあるけど、鳩村さんは5時に帰ってしまう。遅くても5時半くらい。だから、夕方専門の人をアルバイトで雇えへんかなあ、という話をしているらしい。私がその候補なんやろか。アルバイトは禁止なんやけど。

 その後、しばらくお客さんは来ず、鳩村さんは4時25分になったら事務所の中へ入っていって、若い男の人を連れて来た。私が代わりに受付をすることを教えたらしい。

「うわあ、えらい可愛い子やな。鳩村さん、こんな子どこから連れて来たん?」

「エリちゃんが紹介してくれたんよ。未成年やから、変なこと言うたらあかんよ」

「ははは、言いませんよ、そんなん」

 男の人が「よろしくお願いします」と言ったので、私も挨拶を返した。自己紹介はしなかったけどそれでもいいらしい。鳩村さんが教えたんやと思う。そういえば私、名札も付けてないけど、ええんかな。鳩村さんは帰り、男の人は中へ戻って行った。あと2時間半もここにいなければならない。

 PCのスケジュールを見ると、30分おきくらいにお客さんが来ることになっている。その間は暇。宿題したいくらい。してもいいかな。しよう。予定外のお客さんが来ても、自動ドアが開くからわかるし。

 5時のお客さんが来て、5時半のお客さんが来て、6時のお客さんが来るにはもうちょっとあるかなと思ってるときに、誰か来た。見たことある人。思い出した。刑事さん。確か、猿木さん。違った。門木さん。

 私を見て、あれっというような顔をしている。憶えられてたんかな。まあ刑事さんって人の顔を憶えるのが得意やろうから。でも「やあ、こないだは」とも言わない。型どおり「いらっしゃいませ」と挨拶をする。

「予約はないけど、渡利所長に面会お願いします。臨海署の門木」

 型どおりかもしれないけど、警察手帳を見せながら門木刑事さんが言った。鑑識事務所用のマニュアルは、カードケースの裏にあった。予約がないときは受付票を書いてもらう。違った。赤字で「刑事さんの場合は、他の予約が入っていないのを確認したら通知してお通しする」とある。

 PCで、鑑識事務所用の通知欄に「門木さん」と入力してから通知ボタンをクリックし、「どうぞ」と言った。刑事さんは「おおきに」と言ってエレベーターで上がっていった。警察の人もこんなところ使うんか。科捜研があるのに。

 6時を過ぎたらお客さんと共に弁護士さんも帰っていくらしい。みんな挨拶してくるので、挨拶を返していたら、「あれっ!」とか言う人もいる。

「代わりの受付って、あんな若い子なんや。知らんかった」

 きっと弁護士さんだろう。だいたいみんな同じようなリアクションしてる。どんどん帰って行くし、7時になったら私も帰ってええんかな、と思ってると、7時5分前に優しそうなおじさんが出てきた。髪の毛が白黒で、七三分けにしてて、四角い眼鏡をかけてて、高そうなスーツを着ている。「所長の天川です」と言わはったので、立ち上がって挨拶した。

「今日は急に来てもらって、どうもありがとうございました。大変助かりました。もう帰ってもらってもいいですよ」

 助かったって言われたけど、鳩村さんが帰ってから4人しか案内してない。しかも合間に宿題してたし。ほんまにこれでよかったんかなと思ったけど、「失礼します」と言って帰ることにした。そういえば上に行った刑事さんは降りてきてないけど、たぶんほっといてもええんやろな。

 それから家へ帰るか、探偵事務所へ行くか迷ったけど、家に電話して母に帰りが遅くなることを伝えてから、探偵事務所へ行った。

「受付の業務をちゃんと頑張ったようですね。アマ様がハト様に出したお褒めのメールを、転送してもらいましたですよ」

 アマ様って、きっと天川所長さんのことやんな。

「でも、すっごい暇やったんですけど」

「そういうときは学校の宿題でもしてればいいのですよ」

 何や、しててよかったんや。

「してましたよ」

「グートです」


(続く)

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