第1章 月曜日 (その3)

 咲洲さきしまの半分以上の敷地が工場や倉庫なのは知っていた。でもそちらに足を踏み入れることはほとんどない。マンションから自転車で走り出して、大型トラックが行き交う道路を横断し、こぢんまりした事務所地区に入った。こんなところに探偵事務所があるなんて信じられへん。しかし田名瀬刑事さんに教えてもらった住所はこのあたりになっている。

 その地番を探し当てると、どう見てもそこは中小企業の事務所の建物。門が開いていたので半信半疑で入ると、裏口へという貼り紙があった。その表示に従って裏の階段を登る。白い鉄扉に「湾岸探偵事務所」というプレートが貼ってあった。ノックをしてしばらく待つ。ドアが開いて、モデルのように美形な外国人女性が顔を覗かせた。そういう人が探偵と聞いていたので、驚きはしなかった。

「お名前は?」

 この笑顔も、作り慣れてるなという気がする。外国人ってだいたい笑顔の練習してるらしいし。

「麻生れいです」

「よろしいです。ちょっとお待ちください」

 ドアがいったん閉じられて、チェーンを外す音が聞こえて、それからもう一度ドアが開いた。中に入るとテレビドラマで見る社長室のような内装だった。同じくドラマで見る探偵事務所とは全然違う。結構儲けてるんやろか。こんなところで、何の事件があるんやろ。

「どうぞソファーにお座りなさい」

「はい、ありがとうございます。あの、失礼ですけど、あなたが探偵さんですよね」

「もちろんですよ。これが探偵業届出証明書です」

 壁に掛かった額を指しながら探偵さんが言った。

「従業員は他にいません。私が所長で調査員です。一応、身分証明書をお見せしましょう」

 ベストの胸から取り出してきたのはマイナンバーカードだった。そのベストの下の、レモンイエローのブラウスの胸はパンパンだった。胸が大きいのはうらやましくない。うらやましくないったら。

 私がソファーに座ると、探偵さんは名刺を差し出してきた。受け取って見ると、「湾岸探偵事務所 所長 三浦エリ(エリーゼ・ミュラー)」とあった。その間に、探偵さんは向かい側に座って、長い脚を組んだ。警察の人より偉そう。

「高校生だそうですね」

「はい」

「未成年からの依頼は受けないことにしているのですが、フジエちゃんからの紹介ですし、まずは相談とのことですので、特例を適用しましょう。何でもご相談なさい」

「フジエちゃんって田名瀬刑事さんのことですか」

「そうですよ」

 探偵さんの自信ありげで尊大な笑顔が気になるけど、他に相談する人がいないので話すことにする。数時間前からの出来事を、順を追って説明した。探偵さんは最初、気のない感じで聞いていたが、途中から興味が出てきたらしく、身を乗り出してきた。

「その留守番電話の音声というのが確かに気になりますね。間違いなく空港の業務放送が聞こえたのですね?」

「はい、小さい音で、最初は私も気付きませんでしたけど、刑事さんと一緒に何回か聞いているうちに、業務放送ってわかるようになりました」

「しかし、何と言っていたかは聞き取れなかった」

「はい、父の声が被さってしまってて」

「警察の科捜研で調べればわかるのですよ。科捜研は知っていますか」

「はい、テレビドラマでやってる、警察の研究所みたいなのですよね」

「あの番組の中でやっている解析は嘘っぱちのことが多いですけれどね。でも音声を解析して、重なり合っている声を分けて取り出すなんてことくらいはできます」

「刑事さんたちも科捜研って言ってましたけど、事件にならなかったので調べてくれませんでした」

「千円出せますか」

 話が飛んだ。千円払えば調べてくれるんやろか。無料の相談に来たつもりやけど、千円くらいなら払えないこともない。

「千円払えば科捜研で調べてくれるんですか?」

「そんなはずがありません。しかし科捜研よりもっと優秀な方が調べてくださいます。千円出しても調べたいですか?」

「……はい」

 ちょっと迷ったけど、はいと言ってしまった。

「では今から教える場所へ行って鑑識を依頼するのです。ただし私が紹介したということは口が裂けても言ってはなりません。紹介者をもし訊かれた場合は……あなた、この近くに住んでるのでしたっけ。どこのマンションですか?」

 それに答えると探偵さんは「ゼアー・グートです。おあつらえ向きです」と喜んだ。ゼアー・グートって何やろ、ベリー・グッドのことかな。

「そのマンションの管理人様は鑑識事務所のことをご存じのはずですから、その人から紹介されたことにしましょう。口裏を合わせてから行くのです」

「はあ」

 探偵さんが机の抽斗から出してきた名刺(のコピー)を受け取り、いったんマンションに帰って、管理人さんに「口裏合わせ」をお願いしてみた。管理人さんは快く了解してくれた。思ってたよりいい人なのかもしれへん。探偵やなくて鑑識事務所やから、噂は立たへんやろう。

 それから名刺(のコピー)に書かれた住所へ行った。マンションのすぐ近くの法律事務所。探偵さんに教えられたとおり、そこには若作りで年齢不詳の受付のおばさんがいた。鳩村さんという名前。私を見て「わあ、可愛らしいお嬢ちゃん」と言う。高校生がここに来るのは珍しいんやろう。でも別に私、可愛くないと思うけど。

「鑑識の渡利さんやね。今は手が空いてはりますけど、まず受付票を書いてくれはります?」

 鳩村さんが差し出した紙に、名前と住所と電話番号を書いた。住所はともかく、電話番号は必須。なぜなら、この後電話をかけるつもりやから。「鑑識物件」は留守電の音声なのでそれをそのまま書いた。鳩村さんに紙を返すと、PCに入力した後で戻してきた。

「4階へ行って、鑑識事務所の部屋へ入ってください。ドアをノックしてからね」

 鳩村さんはやけに優しい。私のことを孫を見るような目で見ている。言われたとおりエレベーターで4階へ上がり、事務所のドアをノックした。「どうぞ」と男の人の声が聞こえたので、ドアを開けて中に入った。

「失礼します」

 職員室に入るときのような挨拶をしてしまった。中には若い男の人がいた。たぶん学校の担任より若い。サングラスをかけてるけど、それを取ろうともしないし、笑顔を見せようともしない。警察の人よりも愛想が悪い。でも私もだいたいこんな感じで、他人と無表情に接していることが多いから、気にしない。

 勧めに従ってソファーに座った。受付票を差し出すと、鑑識さん(そういう呼び方でいいのかどうかはよくわからない)はそれをちらりと見てから言った。低い声だった。

「留守電の音声というのはレコーダーに録音して持って来たのか、それともここから電話をかけて聞くのか」

「電話をかけて聞いてください。操作は私がやります」

「音声の中から何を聞き取ればいいのか」

「父からメッセージが入ってるんですけど、その後ろに聞こえる、空港の業務放送みたいなのが何を言ってるか、聞き取って欲しいんです」

 探偵さんに教えてもらったとおりに答えた。教えてもらうまで、外から操作して留守番メッセージを聞く機能が留守電にあることを、すっかり忘れてた。

 スマホで電話をかけようとしたら、止められた。「固定電話の方が音質がいい」ということで、鑑識さんがデスクの上から電話を持って来て私の前に置いた。生徒手帳にメモしてきた手順に従ってプッシュボタンを押し、再生開始の前に受話器を鑑識さんへ渡した。

 鑑識さんはそれほど注意して聞いているようには見えなかったけど、再生が終わったら受話器を降ろした。そして横に置いてあった紙に何ごとかをさらさらと書いていった。書き終わると私の前に差し出してきた。

「“四点チャイム音”ANA全日空せんなな……行きは……皆様を機内へ……」

 まさしく空港の業務放送だけど、私は刑事さんたちと聞いているときに、こんな言葉は一言も聞き取れなかった。聞き取れたのはチャイム音だけ。刑事さんたちも同じのはず。この人の耳は一体どうなってるんやろ。

「どうしてこんなこと聞き取れたんですか」

「それが仕事なんで」

 愛想が悪い。でも質問した私も悪かった。当たり前のことを訊いてしまったから。たぶん科捜研に質問しても同じ答えが返ってきたやろなー。

「これは新千歳空港の業務放送なんですか?」

「肉声なのでそれはわからない。自動放送の音声なら、主要な空港のものは判別できる場合もあるが」

 そうか、この放送はきっと地上スタッフが、その場でしゃべったものなんや。いくら声が聞き取れたとしても、しゃべった人の声を知らんかったら、どこの空港かはわからへんってことか。

「どこの空港の放送かを調べる方法ってありますか?」

「ANAの1700番台の便がどこの空港に発着しているか調べればいい」

「あ、そうか……」

 飛行機には便名が付いていて、おそらくは路線ごとに番号体系が決まっているのに違いない。そうすれば航空会社の人は便名を聞いただけで、それがどこからどこへ飛ぶ便かがわかる。“発着”だから空港は2ヶ所かもしれないけど、どちらかに絞ることもきっとできるんや。で、それを調べるのはここやなくて……

「どうもありがとうございました」

「鑑識料は千円です」

 忘れてた。財布の中から千円札を出して、鑑識さんに渡した。鑑識さんが出してきた領収書と、業務放送の内容が書かれた紙を受け取って、ソファーから立ってもう一度礼をした。

「どうもありがとうございました」

「お気を付けて」

 鑑識さんは私を見送るようなことはしなかったので、勝手に事務所の外へ出て、下へ降りた。受付の鳩村さんが手を振ってくれたけど、私は振り返さず、小さく礼をした。そして探偵さんの事務所へ戻った。


(続く)

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