第6章 動機解析 (後編)
エリーゼが話を続ける。
「ところでその男性用香水ですが、とても特殊な物だったのです。銘柄は言わずにおきますが、何と性フェロモンが含まれているらしいのです。しかも、『女性を虜にする』というキャッチフレーズまで付いているのですね。実際には人間の性フェロモンはまだ発見されていないので、効くはずがないのですが、香水の匂い成分とは関係のない何らかの化学物質が含まれているのは間違いないです。そしてそれが安那先生の嗅覚に悪く作用したのではないか、と考えたのです」
「じゃあもしかして、私の部屋に毎日多喜さんが飾ってくれていた花が……」
「はい、私もお手伝いさんが怪しいと思って調べてみました。そうしたら近くの花屋で彼女の子供が働いていることがわかったのです。そのことは安那先生もご存じだったでしょう。でも二人が何を企んでいたかはご存じないでしょう。子供が提案したのか、それともお手伝いさんかはわかりませんが、花に香水を振りかけたら、安那先生がその花を好きになって、さらには花を届けてくれる人のことを好きになるのではないか、ということを考え出したのです」
「わー、そんなん、ありえへんやん。ほんまに本気でそんなん考えたんですかぁ?」
不二恵が呆れ顔で言った。安那は驚きのあまり声も出なかった。想像が飛躍しすぎている……彼らはそんなことを、本当に考えたのだろうか?
「そこのところは私の想像です。ただ、花には毎日のように薄められた香水がこっそり振りかけられて、それが安那先生の嗅覚を悪くしてしまったのは間違いないと思いますね。キョヒハンノーというのでしたか? 定期的に調子が変わるのは、安那先生の生理的周期にも関係しているのでしょう。それはともかく、うまくいかずに焦れてきた子供は、安那先生に直接香水を嗅がせようとして、あんなことをしたに違いありません。ですから、花とハンカチから同じ香水が検出されれば、犯人はほぼ確定というわけです」
「あのハンカチ……そういえば、どうして警察は処分していいか、私に訊いてきたんでしょう?」
「そんなことがあったのですか。フジエちゃん、何かご存じですか?」
「えー、だって、安那先生のキスマーク付きやから、お宝みたいなもんですやん。そういうのを他人が持ってるのは我慢でけへんっていう被害者もいるからやと思いますけど」
「なるほど、そういうものかもしれませんね。安那先生は気にされませんか?」
「いえ、別に……」
しかし、嫌がる人の気持ちはわからないでもない。嫌いな人がそれを持っているところを、頭の中の想像するだけでも耐えられないということだろう……
「そうですか。でも、フジエちゃん、警察から流出しないように気を付けてください」
「大丈夫です。臨海署を信用してください」
「それはともかく、私はお手伝いさんの子供が働く花屋に行って、ちょっとした策略で彼の髪の毛をこっそり採取して、警察に届けたら事件が解決したというわけですよ。フジエちゃん、何か言いたいことはありますか?」
「えーと、今日はその人が花を持ってくるのを会場の前で待ってて、私が声をかけたんですよぉ。捜査協力でDNAを採取したいから髪の毛下さいって。そしたらその人、いきなり逃げようとしたんですね。そのときに私を突き飛ばしはったんで、えーと、それからちょっとあって、
「じゃあ、会場に飾ってある花もその花屋から?」
「え、そこに興味が行くんですかぁ。せっかく私が捕まえたこともっかい自慢したのに」
「あっ、すいません……犯人を逮捕していただいて、ありがとうございました」
安那は慌てて不二恵に頭を下げた。しかしこれで、犯人が会場に自然に出入りできた理由がわかった。ITMへ花を持ってきた後、他のところに配達へ行くなどして時間を潰し、戻って来てどこかで着替え、教室終了後に駐車場で襲った、ということだ。行き帰りにはきっと配達車を使ったに違いない。いつものことだから、どこに駐車していても誰にも怪しまれないだろう。そういえば警察での説明会で、ぼんやりしてちゃんと聞いていなかったときに、原刑事がそんな説明をしていたような……
「わー、辺見先生にお礼言われた! みんなに自慢しよ」
不二恵は足をバタバタさせながら喜んでいる。おまけですが、とエリーゼが言う。
「その花屋から花を取り寄せるのは、お手伝いさんからの指示だったようです。茶道教室の事務の人から聞きました。隣の華道教室の先生も、花の品質は問題ないという理由で、了承したらしいです。詩吟教室もです。その花屋に頼むのは、この三つの教室の時だけのようですね。それから他に調べたらいいと思うのは、安那先生が出張で行かれる茶道教室でも、その花屋が指定されているのではないか、ということです。安那先生にお仕事が入ることはお手伝いさんもご存じでしょうし、子供のために色々便宜を図っているかもしれませんから」
「そうですね、訊いてみます」
「ただ、子供が逮捕されたので、彼女はお手伝いをクビになるのではないですかね、今日にでも」
「ああ、そうですね……」
彼女には色々とお世話になったけれど、気苦労もさせられていたから、やめることについては異存ない。ただ、こんな事件になったのは、今まで自分が我慢しすぎたせいかもしれない、と安那は思った。彼女にもっとちゃんと話をして、こちらの言うことを聞いてもらうべきだった。もちろん、古見吾朗とも。思いの一方通行が原因の一つだったはず。
しかし、と安那は気付いた。これからは妙な香水を嗅がなくて済むことになる。そうしたら、私の嗅覚は治るのではないだろうか?
「あと一つだけ、教えていただけますか?」
帰る前に不二恵に一言断って、エリーゼと二人きりになり、安那は尋ねた。
「何でしょう?」
「どうして私の嗅覚が鈍っていることに気付かれたんですか?」
それを気にして鑑定家に茶の味を
「安那先生ご自身がお気付きでないというのが意外なのです。生徒たちが毎回、安那先生に花束を差し上げていますよね」
「はい、持って帰って部屋に飾っています」
綺麗なのに、次の日にはなぜかお手伝いが捨ててしまうのは、残念に思っていた。
「最初の頃、差し上げると安那先生はお花の香りを楽しんでおられたのですが、最近はそういうことをされなくなったのです。花束を買ってきた男の人たちが、残念がっていましたね。ただ、彼らは花の選択がよくなかったと思っていたようですが、私は違うことを考えたのです。花の種類は関係なく、安那先生は香りをあまり感じなくなったので、嗅がなくなったのではないか、と」
「それで、確認のためにあの質問をしにいらっしゃって……その時、ちぎった花や葉を、渡利鑑識さんのところへ持っていたんですか?」
「ホップラ! やっぱり安那先生はアキラ様をご存じだったのですか。では、アキラ様に鑑識を依頼したのは本当だったのですね?」
質問と答えがずれている。安那が鑑定家を知っていたのが、そんなに意外だったのだろうか。それにエリーゼのこの表情。驚きとも喜びとも取れるような、複雑な……
彼女は、彼とどういう関係なのだろう?
「ええ、その……嗅覚の件は私も気にしていたので、確認をしていただくために……」
「そういうことでしたか。そういえば、今回の件で警察もアキラ様のところへ鑑識を依頼しに行ったはずなのに、見落としがあったのですかね。もちろん、アキラ様ではなくて、警察が見落としたのでしょう。それはともかく、私がアキラ様と安那先生との関係に気付いたきっかけだけは、説明しておきましょう。ある人が、安那先生のお家へアキラ様が訪問されたのを見かけたのです。そしてその人がアキラ様を不審者と考えて、私のところへ相談に来たのです。私はアキラ様が不審者でないことはわかりすぎるほどわかっているので、安那先生がアキラ様に何か鑑識を依頼したと考えたのです」
「そうでしたか……」
自分は意外に人から見られているものだと、安那は初めて気付いた。しかし、それはあまりいい見られ方のような気がしない。まるで監視されているような……
しかし、それは以前からわかっていたことではないか。茶道を習い始めたときから。
茶道家は“客”から見られる仕事だ。それを念頭に身を修し、点前を極める。茶は客のために点てるもので、つまり修業は“客から見られたい自分”になるためでもある。見られたい世界を作りあげることでもあり、ひいてはそれが茶道の未来を左右することになる……
それを忘れていただけなのだと、安那は気付いた。
事務所を出て車に乗ると、不二恵がまたうきうきとした表情で話しかけてきた。
「先生、私もエリちゃんみたいに、安那先生って呼んでいいですかぁ?」
「あ、はい、どうぞ」
「ありがとうございます! 今日のエリちゃんの話は面白かったですねぇ。また今度女子会しませんかぁ? エリちゃんと、臨海署の他の女性刑事も呼んで」
「あっ、そうですね……それは楽しいかもしれませんね」
「じゃあ、今度私が非番の時にお誘いしますね。私、住之江公園の近くの寮に住んでるんですよぉ。だから安那先生のお家とも近いんです」
「そうですか。じゃあ、今度ぜひ……」
刑事と探偵。今までに付き合ったことのない種類の人たちだけに、世界が広がるかもしれない。それに、エリーゼが“アキラ様”こと渡利とどんな関係にあるのかを、もう少し訊いてもよかった、と思っていた。次に会うのは来月の茶道教室のはずだが、それよりも前に話が聞けるのなら……
(第4話 終わり)
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